Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は外を歩いてみたい

2020年11月05日 22時31分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 このごろ日付の変わってから1時間以内には就寝している。早いに日には日付の変わる前に寝ている。これはもう中学に入って以降なかったような気がする。
 これが健康な人の生活なのであるが、夜型の私にはどうも実行できないで、半世紀以上も生きてしまった。
 実は一昨年の入院中も日付が変わってから寝ていた。小さなライトを使って読書をしたり、スマホでユーチューブのクラシック音楽の番組を聴いたりした。夜見回りに来る看護師は一応声をかけてくれたが、大目にみてくれた。

  さて、明日は先ほども記載したとおり、発熱の兆候が無ければ、近くの住宅街をゆっくりと歩いてみたい。その先には神川大学の生協もあるので、注文していた本を取りに行くこともできる。天気は良さそうである。体調が戻れば、二日も外に出ないというのは耐えられない。困った病人である。


達成感のない家籠り

2020年11月05日 20時55分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 パソコンでの作業をしたり、寝たり、「ビザンツ帝国」を読んだりと、家の中でとりとめもない一日を過ごした。
 作業では予定のところまで何かをする、というのではなく、思いついた作業をまりまりもなく、虫食い状態で「やったふり」のような状態。
 睡眠も短時間のだらだらとした浅いもの。読書もあまり身が入らず、同じ個所をいったり来たり。
 しまりのない一日を過ごしたようで、どこか虚しい。しかし外は明るく晴れ渡った空が美しかったとのことを買い物に出た妻から聞いた。

 昼間、5分でも10分でも、せめて団地内でも歩いて見ようということすら思いつかなかった。せめて明日は、カメラでも持って団地の周囲の住宅街を歩いてみたいものである。

 


平熱にもどる

2020年11月05日 12時37分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の朝はいつものとおりの平熱。気分は悪くはない。かといって快適というわけでもない。過去の発熱の翌日のような感覚である。多分発熱での体力消耗後の疲労はあるのであろう。
 間欠的な発熱はマラリア等でも起こるらしいが、血液検査の結果ではそのことを裏付けるものはないとのこと。
 完治したわけではない。発熱の原因はますます闇の向う側である。

 朝から無理のないと思われる程度で退職者会の若干の作業。今作っている私の属しているブロックの会員宛のニュースに、「横浜のカジノ誘致 住民投票を求める署名 必要数の2.5倍も」ということで記事を加えた。全体のニュースには記事が間に合わなかったのが残念。
 しかし私の属する自治労の退職者会の会員はかなりこの署名に貢献した。幾度も講演会や学習会を積み重ねて、参加者も多かった。横浜市に長らく務めてきた退職者としてはとても黙ってはいられない事態であると感じているのだと思う。
 「カジノというギャンブルに依存した横浜市政に道を開くことは、将来に大きな禍根を残すものと判断する。飛鳥田市政以来の市政の基本を否定する市民不在の事業決定・推進に反対」という思いは会員の間に強い。


横浜のカジノ誘致 住民投票を求める署名 必要数の2.5倍も

2020年11月04日 23時29分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 カジノ誘致を何とか止めたいものである。次の展開がどうなるか、

 NHKが次のように報道した。

★★横浜市のIR誘致 是非問う住民投票に必要な署名数 大幅に超える★★
☆横浜市が誘致を目指すカジノを含むIR=統合型リゾート施設をめぐり、その是非を問う住民投票の実施を求めている市民らの団体は、住民投票の請求に必要な数を大幅に上回る、およそ15万6000人の署名が集まったことを明らかにしました。
横浜市は横浜港へのIR施設の誘致を目指していますが、反対する市民らで作る団体は、是非を問うために住民投票を実施すべきだとして、4日までの2か月間の日程で署名活動を行っています。
4日、横浜市中区で最後の署名活動が行われ、団体は4日朝までに住民投票の請求に必要な、およそ6万人を大幅に上回る15万6445人の署名が集まったことを明らかにしました。
団体の共同代表の藤田みちるさんは「もう一度、市民の声を聞いてくださいという思いで、署名を集めてきました。ぜひ、ゼロベースから考え直していただきたい」と述べました。
12月13日に、署名を選挙管理委員会に提出することにしていて、必要数に達していると確認されれば、年明けにも市長が住民投票を行うための条例案を市議会に提出することになります。
市議会では、多数を占める自民党と公明党が、事業内容を見たうえで判断すべきという立場で、住民投票には慎重な姿勢です。
横浜市の林文子市長は、IR誘致を推進する立場を変えていませんが、その一方で、仮に住民投票が行われれば、結果を尊重するという考えを示しています。

 


5日ぶりに発熱

2020年11月04日 20時37分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 市民病院での採決では炎症を示す数値はほぼ正常値に戻っている、と言われた。また最初の発熱の数日前に蚊に刺されていないか聴かれたが、前日のハイキングで刺された記憶しかなかった。また刺された後も炎症を起こしていないことを確かめてもらった。結石の兆候もないという。結局原因は特定できないが、一応峠は越えたではないか、ということで、20日に再度受診することになった。
 発熱したらためらわずに解熱剤を服用することを強く勧められた。

 受診時から少し筋肉が緊張を始め、軽い悪寒が始まった気配であった。タクシーで帰宅し、熱を測ったら38℃を超えた。5日ぶりの発熱である。解熱剤の効果もあり、すぐに下がりはじめ、現在は平熱に近くなっている。
 夕食はお粥と太刀魚の煮付けという消化に良さそうなものにしてもらった。


本日から読む本 2冊

2020年11月04日 10時07分04秒 | 読書

   

 昨夜から読み始めたのは「岸田劉生随筆集」(酒井忠康、岩波文庫)。本日からは「ビザンツ帝国――千年の興亡と皇帝たち」(中谷功治、中公新書)。今回も二つの本を交互に読み進めたい。
 前者は昨日衝動的に購入した本。岸田劉生という画家は「麗子像」などのシリーズで有名であるが、わたしはそれらよりも「道路と土手と塀(切通之写生)」の不思議な構成と色彩に惹かれている。両者の落差に困惑している。
 後者はヨーロッパの美術史の講座を受けているが、ビザンチン帝国についての基礎的な知識がほとんどないので、あらためて読むことにした。

 昨晩は「岸田劉生随筆集」のはじめにおさめられている「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」を読んだ。
 本日は「ビザンツ帝国」を病院に持参する。待ち時間が長ければ読書は進んで嬉しいこともなくはないが、病院内にいる時間は短い方がいいに越したことはない。 

 本を選択する基準は、1冊は美術関係の本を常時、2冊目は、歴史・日本文学・地球物理学関係・その他から。しかし外れることが多い。


読了「ラファエロ」(深田麻里亜)

2020年11月03日 21時56分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 「ラファエロ―ルネサンスの天才芸術家」(深田麻里亜、中公新書)を読み終わった。昨日から本日にかけて、第4章「ラファエロをとりまく人々」、第5章「墓と遺産」、終章「後世の批判と再評価」、あとがき等を読んだ。いつものとおり、覚書として今回は2か所から。

「(ラファエロの遺言によってパンテオンにある墓について)ラファエロは古代の歴史文化を研究し、それをキリスト教世界である当代に復興する事業に長らく取組んでいた。そのため、古代彫刻を下敷きとして作られた聖母子像のもとに眠ることは、彼の長年の仕事内容と符合するものであったと判断できるだろう。遺骸を納めた棺を、この聖母子像の真下に置き、聖母を通じて魂へ祈りを捧げる――ラファエロによる自身の墓碑のデザインには、このような意図があったのである。」(第5章「墓と遺産」)

「彼は単なる儚げな夭折の画家ではなく、若年のうちから古今の芸術を熱心に学び、ステップアップした野心家であった。宮廷の貴族たちと交流をもつ宮廷人でもあり、さらに、周囲の芸術家たちをまとめる監督者、古代ローマの径術と都市について調査を行う考古学者でもあった。精力的な活動に従事したタフな側面があり、関わった注文者や神学者、人文主義者、芸術家たちの動向と合わせて見ていくと、その世界観は大きく広がっていく。」(終章「後世の批判と再評価」)


こわい無意識の行動

2020年11月03日 20時22分51秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 巣篭りをしているためだけだろうか。このごろスケジュール帳にこまめ記入しているのに、忘れてしまうことが度々ある。
 本日も午前中のオンラインの講座を申し込んでいたのに、忘れてしまった。忘れたというよりも無意識に何かをしているみたいだ。
 昨晩寝る前に目につくようにパソコンのキーボードと画面の間にスケジュール帳を広げておいた。にもかかわらず、朝退職者会の作業にそのまま入ってしまった。さらにブログに記事を投稿した。その上妻と買い物に出かけてしまった。
 お昼近くに講座の先生から連絡をもらい、慌ててしまった。慌ててももう遅い。何とも情けない仕儀であった。

 さらに、本日は書店で衝動買いをした。購入したのは「岸田劉生随筆集」(酒井忠康編、岩波文庫)。
 意味のないものを購入したとは思わないし、画家が語る画論なので、勉強にはなる筈である。だが、内容も見ずに手にとって他の本を見ているうちにいつの間にか、レジの前に並んでいた。レジに並んでいる列から離脱するのも恥ずかしく、そのまま購入した。
 朝の受講を忘れたことと言い、午後のこの行動といい、無意識の領域で何か異変があるのかもしれない、と少々落ちこんでいる。
 家籠り、巣篭りというのはどこか緊張感が緩んでいるところがある。責任感も、財布のこともも希薄になっている。

 明日は市民病院に行くことになっている。妻が同行してくれるとのこと。これでは忘れてしまうことはないとは思うが、明日になってみないと分からない。

 


作業再開

2020年11月03日 10時48分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日から、退職者会の事務作業を再開。8日までに私の属するブロックの会員宛のブロックのニュースなどを作成する予定。まずはA4裏表のニュースから。面積としては全体のニュースの1/4。

 これより、親と妻が買い物に出かけるので、私もついていこうと思う。バスで行くらしい。わたしは少し遅れて出て、バスには乗らず、歩るく予定。病人であることを理由にして、買い物そのものには同行せず、喫茶店で本を読みながら待っていることにした。

 病気を理由にして、ズルい夫である。


久しぶりの外出と太刀魚

2020年11月02日 20時33分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 12時過ぎ、妻と出かけようと着替え始めたら割と強い雨が降り始めた。出ばなを挫かれたようで、あきらめかけた。しかし10分もしないうちにあがり、空が明るくなった。傘をリュックに入れ、ふだんなら7分位のところにある喫茶店に倍近い時間をかけて歩いた。
 ここはサイフォンでコーヒー淹れてくれる。この店の名を冠したブレンドコーヒーは酸味がなく、それなりにコクもあり、私の好みである。サンドイッチも美味しい。他に2組だけ、4人掛けの場所に2人でゆったりと座らせてもらった。
 久しぶりのサイフォンのコーヒーと美味しいサンドイッチを堪能して、さらに8分ほどで駅の近くの公園。ここで妻がスーパーで買い物をするのをベンチに座って読書しながら待っていようと思っていたら、雨が再びポツリポツリと降り始めた。読書はあきらめて、スーパーで妻と合流。帰りはバスで帰宅した。
 バス停を降りると今度は日が照りはじめるという慌ただしい天気の変化であった。

 往復で5千歩あまり、ゆっくりではあるが歩くことが出来た。両膝と右足の甲の痛みも再発せずに済んだ。発熱の兆候も今のところない。とてもうれしい。

 帰宅後は、ブログに記事をひとつアップしたら眠気が襲ってきて、1時間ほどおやすみタイム。いい身分である。こんな贅沢は病気のときだけ。

 夕食は太刀魚のバター焼き。太刀魚は久しぶりである。明日は残りの半身を妻はどう料理をする気なのだろうか。
 太刀魚は韓国を訪れるまでは私ども夫婦は、食べたことが無かったと思う。釜山や済州島の市場でたくさん売っているのを見、そして夕食を食べに入った食堂で、甘辛く味付けした煮付けを食べてすっかり気に入った。
 バター焼きでわたしは十分楽しめるのだが、今の濃い味に慣れた人には淡白すぎると思われる。最近、スーパーでも随分と見かけるようになった。どのような味付けで購入する人は、食べているのだろうか。

 夕食前から再び雨が降り始めた。


「馬込の月」と「昇る月(森ケ崎)」(川瀬巴水)

2020年11月02日 17時19分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 10月29日の「後の月・十三夜」の記事のとき、川瀬巴水の作品を取り上げていなかった。川瀬巴水には「東京二十景」という関東大震災後の1930年に刊行されたシリーズがある。大震災前の「東京十二題」とともにわたしの好みのシリーズである。
 この「東京二十景」の中でも、「馬込の月」はたいへん人気のある作品であると聞いている。私も気に入っている。秋の月であることは間違いないと思っているが、畑の作物の状態からは初夏かも知れない。真相はいかがであろう。
 そしてもう1枚、満月の月では、「昇る月(森ケ崎)」というシリーズ外であるが私の好みの作品もある。「馬込の月」が作られたた翌年の作品で、赤い満月の色合いと家並のすぐ上に昇っている月の位置が印象的である。こちらも秋とは断定はできないが、わたしは中秋の名月だと勝手に思い込んでいる。
 灯の洩れている人家も小さめでひっそりとしている。「昇る月(森ケ崎)」では赤子を背負った女性がこちらに向かって歩んでくる。いかにも貧しい身なりである。月灯りと微かに洩れる人家からの灯に溶け込みそうでいて、それらに拒否されているようにも思える。どんな情景を想像したらいいのだろうか。

 川瀬巴水の月はどの作品もいい。春・夏・秋・冬、満月・三日月、どれも惹かれる。人物を点景として、その表情からはなにも語らせない作品が特にいいと思う。風景から人の息遣いやら静かな会話、孤独感いっぱいの寂しさが伝わる。人が登場しない作品でも、人家から洩れる灯が人の気配を感じさせる。

 人間を描いてもいづれも寡黙である。子どもがいてもはしゃいだり、甘えたり、媚びたりしない。静かな風景の中にごく自然に溶け込んでいく。

 「東京二十景」には「荒川の月」という作品もある。これも荒川の上で、雲間から見える満月の作品である。これも図版やポストカードがあればほしいのだが、未だ手に入れることが出来ていない。こちらは空が明るい。荒川が広々と大きく描かれているが、空と同じ色合いである。手前の大きな家が印象的である。この明るさは、本日の2枚の月の作品とは違い、闇に吸い込まれそうにはならない。 


ベートーベン「交響曲第1番、第2番」

2020年11月02日 12時04分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 昨晩は、寝ようとしたらテレビでベートーベン特集ということで、シンフォニーの第1番と第2番を放映していた。モーツアルト、ハイドンの影響を受けた初期のベートーベンの意欲作といわれる。第1番、第2番ともに第2楽章はいい。
 演奏は京都と仙台のオーケストラだったと思う。2曲とも最後まで聴いた。その後ピアノソナタ30番などが始まった。早めに寝るために残念ながらスイッチを切った。少し悔やまれている。ビデオに取ることに気がまわらなかった。
 コロナ禍で、活動が制限される苦しい状況のオーケストラはたくさんある。放映の内実は分からないが、少なくともこのように放送されることは歓迎したいものである。

 さて、今朝は気分はとてもいい。外の空気を吸いたい。

 このまま午後になっても発熱の兆候がなければ、近くの私鉄の駅まで妻に同道してもらって歩いてみたいと思う。ゆっくり歩いて20分位だと思う。
 駅まで行かなくとも、コーヒーをサイフォンやドリップで丁寧に淹れてくれる喫茶店で休憩するのが目的でもいい。午後の降水確率は50%となっているが、降らないことを祈るしかない。風が少し強いようだが、ときどき陽射しがあるのがうれしい。

 


明日は何を読むか‥

2020年11月01日 22時48分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日もどうやら発熱は起きずに済みそうである。二日続けて体温は平熱で推移した。ホッとしている反面、ビクビクしながらの生活はどこかで緊張を強いられていているのが分かる。

 さて、明日も熱が出ないことを前提に、読書を考えているが、何を読むか。「ラファエロ」は読み終えてしまいたい。
 気が向いたら読むことにしている「老子」や「自省録」もいい。本棚を見ると「ピアニストの時間」(館野泉)も、「老いのかたち」(黒井千次)にも惹かれる。
 昨日読み終わった「万葉集の起源」につづいて万葉集にしばらく浸ってみたい気もする。ヨーロッパの美術史で出てくるビザンチン様式を理解するにしても、ビザンチン帝国に関する基礎知識がないので、その関係の本も読んでみたい。
 悩んでいるうちに日付が変わってしまうと困るので、取りあえずはこの辺で本日は就寝としたい。


「ラファエロ」(深田麻里亜) その1

2020年11月01日 21時11分31秒 | 読書

 本日の午後は「ラファエロ ルネサンスの天才芸術家」(深田麻里亜、中公新書)の序章「才能と野心」、第1章「聖母子画 フィレンツェからローマへ、躍進と様式の変化」、第2章「教皇居室の装飾 変化する制作スタイル」までを読み終わった。全体の半分ほど。
 あくまでも教科書的な入門書として読んでいる。図版がカラーなので見やすい。

 第1章の結語部分は、以下のとおり。
「ラファエロの聖母子像は、政策の経緯や背景が明瞭でない作品も多い。しかし、長い年月を超えてなお彼の作品が親しまれるのは、穏やかで優美な画面がキリスト教徒の敬虔な信仰心に寄り添うものであり、同時に、母子の情愛という普遍的な情感を作品に投影できるからではないだろうか。」
 わたしは中世のヨーロッパ各地で広まり、根づいた「マリア信仰」がラファエロの絵画によって、どう進化したのか、そこらへんの問題意識を自分がもっていることをあらためて気がついた。多分これは他の著作を漁る必要があると思う。

 第2章の結語は次のとおり。
「ローマでのヴァティカン宮殿の仕事を経て、ラファエロは一地方出身の画家から、名実ともに大画家となった。その変化のプロセスを、教皇居室の装飾、そして自画像の変遷から辿ることができる。控え目で柔和な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家、そして監督者へと変貌をとげていくのである。」



岩波書店「図書」11月号

2020年11月01日 15時03分50秒 | 読書



 今月号で目をとおしたのは、11編。いつものとおり覚書としていくつかを引用。

・[表紙]ダリのヒロシマ            司 修
「亀井文夫監督「流血の記録 砂川」を観に行ったことがあります。農民と支援者たちが機動隊の警棒で突っつかれ撲られるのを見ていると、無力であった自らに対して涙が流れるのでしたが、客席の老人たちがすすり泣いていたのは、怒りと悲しみからだったと思います。そのころ、国家秘密法案が国会に再提出されていました。‥「政治」と芸術表現は、‥自分自身の問題でもあったのです。‥昼間、夢とも幻覚ともつかぬものにわたしは入り込んでいました。わたしの身体は、七、八個のブロックに解体されていて、それぞれが一つの部屋になっていました。小窓と扉が開いていて、わたしはパタパタとそれらを閉じていきました。各部屋の中で理解できない言葉をつかい、何かが行われていたのです。全体がわたしの身体であるのに、七、八個のブロックは別個に浮遊していました。‥まるでダリの「炸裂したラファエル風の頭部」のようでした。ダリはヒロシマを描きましたが、ふだん政治的ではないのです。それでもいいはずです。」

・徹底して戦争と死について書く     沼野充義
「ベラルーシの記録文学作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチは、戦争と死のことばかり書いてきた。代表作「戦争は女の顔をしていない」は第二次世界大戦で銃後を守るだけでなく、前線でも闘い、勝利に貢献した百万を超える女たちの過酷な経験を、無数の声の織り成すポリフォニックな女声合唱のように描き出しい。‥彼女は記録者として厳しく現実に向きあうが、「ちっぽけな人たち」の気持ちに寄り添うその姿勢は限りなく優しい。ここで示されるのは、徹底して戦争と死について書くことが、平和と生のもっとも力強い擁護になるという逆説である。アレクシエーヴィッチの書く戦争や原発事故は、実は日本のことでもあるのだ。今、日本でこそ読まれるべき作家ではないか。」

・ドードーはどこへ行った? (上)    川端裕人

・子どものころの日曜日の朝       ラサール・石井

・女らしさ               畑中章宏

・SFとウィルスと黒幕のはなし     笠井献一

・悲哀の哲学 西田幾多郎生誕150年に寄せて  小坂国継

・誰と何のために戦っているのか?    中川裕
「知里真志保は‥「ユーカラと云うのは、北海道を本拠とするヤウンクル(「内陸人」「本州人」「北海道本島人」)と、大陸の方から海を越えてやって来て北海道の日本海岸の中部からオホーツク海岸の各地に橋頭保を確保して住んでいたレプンクル(渡来の異民族)との民族的な戦争の物語」であると述べ、レプンクルはオホーツク(文化)人、ヤウンクルは擦文文化期のアイヌを指しているという仮説を立てた。‥これを具体的に立証しようとしたのが、歴史学者の榎森進である。しかし、‥北海道アイヌが侵略者を一致団結して撃退した物語という、そんな単純図式でまとめられるようなものではない。」

・月桂樹とレモンの香り         亀山郁夫
「ドストエフスキー自身、度重なるヨーロッパ放浪中ね行く先々で大聖堂を視察しているから、「磔刑」や「奇跡」の現場を、まさにそれらの建物との対比の中でリアルに想像できたはずである。そしてこの大聖堂の、有無をいわさぬ威光を背にできたからこそ、今や齢90になんなんとする大審問官も、れだけの自信をもって「神の子」を追放できたのだ。」

・二冊のロシア巡礼記          四方田犬彦

・それはだれのものか、と問う声がする  赤坂憲雄
「「もののけ姫」が網野善彦さんの歴史観の影のもとに作られたことに思いを寄せずにはいられません。そこにはきっと宮崎監督が意識されている以上に、深い共振れのようなものが見え隠れしています。‥それは確実に、東日本大震災以降の、わたしたちの生きる現場へと繋がっています。‥震災の年に、福島第一原発が撒き散らした放射性物質はだれのものかを問いかける小さな裁判が行われました。そのなかでね東電側が主張し、裁判官もあいまいに認めた奇妙な論理らしきものがありました。つまり、放射性物質は本来的に「無主物」であり、それはいまゴルフ場に付合しているから、その所有権はゴルフ場にあり、東電の所有物ではなく、したがって東電には除染の責任はない、という論理立てでした。‥この時代には、あまりに言葉が傷つき、行き場もなく足掻いています。わたしの耳にはあの「無主物」という言葉が息も絶え絶えに漏らすうめき声が聴こえてきます。」

・九相図の彼方に            長谷川櫂
「骸骨の土を粧ひて花見かな    鬼貫
 死んでしまえばみな骸骨。髑髏が紅をさし眉を引き白粉を塗りたくっているようなもの。‥鬼貫はきっと九相図を思い浮かべていたにちがいない。九相図はしによて人間の肉体が腐乱し、ついには野辺の土となり果てるまでを九つの絵にしたもの。‥」
「よく生きてよき塵となれ西行忌  山田洋
 西行のように存分に生きてこそ、よき塵になれる。塵とは九相図も描くとおり骨のことだが、人間も動植物も命あるものが死ねば肉体は塵となって宇宙に散らばる、その散りである。」
「癌の芽を摘みて涼しき体かな   山田洋
 睨みゐる目玉が一つ原爆忌
 鶏頭や闇より黒く闇の中
 夏痩せや地獄草紙の鬼に似て
 この旅に生きては行けぬ花野あり
 帰るなら眠れる山へ帰りたく」