古井由吉の晩年の短編集「この道」を読み終わった。8編の短編がおさめられている。2017年8月から翌年10月まで隔月で「群像」に連載となったもの。連作のようで、短編集というよりも一つの作品とも言える。
戦中の空襲体験、戦中・戦後の飢餓の体験、阪神淡路大震災、西日本豪雨被害などの災害時における体験の挿話、長期入院時の死が色濃く漂うエピソードなどなど、さまざまな死の淵を巡る断章ともいうべきものである。
これほど死が通奏低音のように連綿と続く小説というものが、私の心に響くということは、私もまたそのような老年の自覚が強まっていることの証でもあろう。
「‥孫を持つ身になり、里方でもあるので、生まれ立ての子を預かって日やその泣き声の中で暮らしたことが四度もあり、そのつど、小さな命の盛んさに舌を巻かされた。まるで母体の内からこんな荒涼とした世界に放り出されたことを怒っているように泣き叫ぶ。盥の湯に漬けられると、とたんに泣きやんで、これで医院だといわんばかりの、満足の歓声を洩らす。‥小さい命のいきおいに負けていると感じるにつけ、‥さすがに置いたと思い知らされた‥。」(雨の果てに)
「夜半の机に、一日分の力を使い果たし、肘をついて向かう闇に窓の外の、雨の果てに、赤子の声の立つのを思うことはある。空耳にまでも至らない。あやかしの気配もない。ただひたむきに呼ぶように感じられる。いよいよ命の尽きる間際に、産声を遠くに聞くという話しもある。死んで帰って来た者はいないので、誰も知らぬ境のことだ。遺された者の、死後の生まれ変わりへの願望なのだろう。あるいは飢えに追いつめられた世の、捨てた子や土に返した子の、雨の夜に遠くから呼ぶような声が、寿命を感じた年寄りの耳について、促されて家の者たちもひそかに耳をやったという一同の体験が、年寄りもとうに無くなったころに雨の夜話になり、末長く伝えられたものかもしれない。幻聴に触れた年寄りにとっては、お迎えはお迎えでも、長らく呼んでいた子を、ようやく迎えに行くことになる、こは末期の、はかないながらになぐされとなったか。」(雨の果てに)
「壮年の頃にもそんな離魂めいたこともあったが、よほど追いつめられた折に限った。窮地にあってこそ、短いながら深く眠る。魂を吐き出すほどに昏々と眠る。老年はそんなことがなくても、昨夜の眠りが苦しかったというばかりで、終日、魂がしっくりと身につかぬような心地で暮らす。身体の繋ぎ止める力が弱ったせいなのだろう。来年のことも知れない身には、平穏無事の日常がそのまま、差し迫っていると言えば差し迫っている。午後からまた半日の仕事に就いて、昨日見失った手がかりを何とかつかみなおそうとやや呆然と思案するのも、離れた魂を寄せようとする、招魂に似たところがある。」(行方知れず)
「静まりを忌む習性が今の世の人間にはついている。話の切れ目のわずかな沈黙も怖れる。耳は遠くなったのに騒音に苦しんで世の活動から遠退いて暮らす私自身も、深夜にありたが静かになった上に、もうひとつ静まったように感じられると雑念でもって紛らわしている。‥厄災がいよいよ身に降りかかってくる間際には、内であるか外であるか、瞬時の静まりがはさまるものなのか。」(行方知らず)
「西日本の水害の死者が二二〇人を超えた。行方不明者の数もすくなくない。この行方不明という言葉がまた、私には余計におそろしいように聞こえる。無事と知られる人もあるだろう。死者の数に加えられる人もあるだろう。しかし行方不明のままになる人もある。‥戦争では大勢の人が死んでいる。‥わずかな差で死をまぬがれた人も多かったはずだ。それぞれにとって誰かが行方しれずであり、それぞれが誰かにとって行方知れずであった。行方不明の身を各々、分有していたことになる。行方不明のまま生き存らえた人もあると聞く。‥ひとりの子を遺して、一家一族が全滅したという悲惨な例もある。‥子は親を探そうにも、自分が何処の誰であるか思い出せないので、尋ねる縁もない。‥晩年になり、行方不明の自身を見ることがあるらしい。世の中全体が行方知れずのままに、おのれの行方知れずをいつか忘れて来たようにも思われる。」(行方知れず)