鹿児島の自然と食

鹿児島の豊かな自然(風景、植物等)、食べ物、史跡を紹介します。

都八幡神社

2024-07-03 | 史跡

薩摩川内市の都八幡神社を紹介します。南九州自動車道都インターの近くです。

 

木々に包まれた都八幡神社。右がクスノキです。

 

鳥居です。

 

参道右側のクスノキ。

 

根元。

 

上部。

 

鬱蒼とした参道を進みます。

 

参道左の木です。

 

赤い屋根の社殿は、屋根が壊れてブルーシートで覆われていました。

ここは、ニニギノミコトの寓居地と伝えられています。また鎌倉期の薩摩氏の城、都城跡で堀割もあるそうです。

 

 

本殿は中にあり、無事なようです。御祭神は応神天皇、仁徳天皇などそうそうたる人物です。

 

社殿の横に巨木の倒木があります。もしかして、これが倒れて屋根を破壊したのでしょうか。

 

社殿の前から参道を見る。

 

自宅の庭のカノコユリです。

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皿山天主堂跡

2024-06-22 | 史跡

薩摩川内市皿山の皿山天主堂跡を紹介します。前回の平佐焼窯跡の隣にあります。

 

橋を渡って左(右岸)へ行きます。

 

階段の上の、木の向こうにあります。

 

階段を上がって行きます。

 

皿山天主堂跡の碑。

 

右手に石垣のある階段を進みます。

 

石垣は平たい石が積まれています。

 

皿山天主堂跡です。パリ外国宣教会のヨセフ・ベルナール・フェリエ神父により、明治24年に設立されました。

川内中心地から離れた辺鄙なところですが、当時は多くの窯があり、にぎわっていたでしょう。

 

十字架。荘厳な雰囲気が漂っています。

明治24年、大工の棟梁天辰忠兵衛によって石造り教会が完成しました。

 

造成時の崖に古木があり、根元にマリア像があります。

明治40年に市街地の向田町に教会ができるまで、川薩におけるカトリック宣教の中心地でした。

 

マリア像。

昭和26年に皿山天主堂が解体されました。

 

造成によって出た、このような平たい石を先ほどの石垣にしたのでしょう。

 

天主堂跡から、前回の平佐焼窯跡を見たものです。

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平佐焼窯跡

2024-06-20 | 史跡

薩摩川内市皿山の平佐焼窯跡を紹介します。川内川左岸側の山あいにあります。

 

民家の横から小川を山側へ行きます。

平佐窯は、平佐領主本郷家が天草や肥前から陶工を呼び寄せて築いた磁器窯です。

 

民家の裏に屋根のある窯跡が見えます。

1780年代に創業し、椀や皿などの日用品から、高価な美術品まで生産しました。

 

平佐焼の原料は、天草産の陶石と地元産の粘土で、釉(うわぐすり)にはイスノキの皮を焼いた灰を用い、青味がかった色を帯びていました。

川内川に近い、山あいのここに窯を築いたのは、原料や製品運搬の水運がいいのと、燃料の薪を手に入れやすかったからと思われます。

 

窯跡です。ここ以外にも多くの窯があり、薩摩焼史上最大の規模を誇り、欧州へも輸出されていました。

薩摩焼といえば美山が有名ですが、こんなところに大規模な薩摩焼の窯があったとは意外です。

 

昭和12年が最後の窯入れとなりました。窯跡は草が生え、劣化が進んでいます。

 

入口のアーチはパイプで支えられ、崩落しそうです。

 

内部。ここもパイプで支えられ、いずれ崩落するかもしれません。

 

隣の窯はシートで覆われ、ここも劣化しているようです。

 

案内板の平佐焼です。

次回は、隣の皿山天主堂跡を紹介します。

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天辰寺前古墳

2024-06-14 | 史跡

薩摩川内市の天辰寺前(あまたつてらまえ)古墳を紹介します。

 

天辰町の住宅地の中に小高い丘があり、この上に古墳があります。

平成20(2008)年6月27日、区画整理事業の工事中に、偶然石室が発見されました。

 

丘の上の古墳。直径27~28m、高さ3mの円墳です。右は石室のレプリカです。

 

石室は覆われていて見ることができません。

 

石室のレプリカ。

イモガイ製腕輪を身に着けた壮年女性人骨1体と、副葬品の銅鏡、刀子(とうす)が出土しました。身分の高い女性だったと思われます。

 

石室を覆っていた長さ1.3m、幅1m、重さ700kgの安山岩の天井石です。

この古墳は、今から約1500年前(古墳時代中期)のものです。

 

古墳の上から川内川と、向こうに川内の町が見えます。当時は、もっとよく川内川が見えたでしょう。

 

中央の小高い山は碇山城跡です。

 

向こうの山の上に、寺山いこいの広場があります。

 

丘の下に久木原神社があります。元は古墳の横にありましたが、ここに移設しました。

 

久木原神社。

 

天辰の石塔です。町内の石塔の一部をここに移設しました。

 

層塔です。

 

仏像が2体刻まれた石塔。

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加治木石を訪ねて(7)桃木野石

2024-05-31 | 史跡

このシリーズの最初に、加治木には二瀬戸石(白石)と桃木野石(黒石)があり、二瀬戸石だけを加治木石と言う、と書きました。

最後は桃木野石とその石切場跡を訪ねます。

 

隈媛神社の前に木田の田の神があります。

 

桃木野石(黒石)でできた神職型の田の神です。1767年に建立されました。

県内の衣冠束帯型座像の中で最も古いものです。

 

端正な顔立ちです。古い田の神ですが、ほとんど風化していません。

 

木田用水を渡って隈媛神社へ行きます。

 

木田用水の上流を望む。江戸時代の1663年、硬い岩盤のトンネルを掘る難工事の末完成しました。

 

参道に、両腕のない仁王像があります。

 

装飾が施された石灯籠。

 

隈媛神社社殿。

隈媛は人吉領主相良家の息女で、島津義弘公夫人でしたが、島津家と相良家が不和となり離縁させられました。隈媛は辺川のほとりで、17日間両家和睦と自分の復縁を祈りましたがかなわず、川に入水自殺しました。

義弘公はこれを哀れみ、宝現寺を建て媛の菩提を弔いました。廃仏毀釈で隈媛神社になりました。

 

桃木野集落へ上がっていく途中の道路脇に岩山があります。

 

桃木野石の石切場跡です。

 

右側の石切場跡。

 

切った跡の線が残っており、石切場跡と分かります。

 

石切場跡を流れる水路。

 

桃木野集落に田の神があります。

 

これも桃木野石のようです。

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加治木石を訪ねて(6)田の神と加治木肝付氏墓

2024-05-30 | 史跡

加治木石の田の神を訪ねます。

 

加治木石の石切場跡(右の山)の隣にある、加治木のシンボル蔵王岳です。

この山は火山岩頸(がんけい)といい、マグマが火道(マグマの通り道)に入って冷えて固まり、周りの軟らかい地質が浸食されてできた山です。

 

蔵王岳の麓の、イヌマキの古木の横に田の神があります。

 

日木山里の田の神です。

 

加治木石(二瀬戸石)でできています。

袖はたすきでたくし上げられ、左手はシキを支え、右手はメシゲを膝の前に持って、今にも踊り出しそうな田の神舞姿です。

 

微笑みの田の神。天保年間(1830~1843年)頃の石工名島喜六の作と言われています。

 

後ろ姿。

 

隣の石像です。

 

イヌマキの古木。

 

墓地の奥に加治木肝付氏墓があります。

 

石灯籠。

 

美しい加治木石の石灯籠です。

 

これは中央の灯籠部が加治木石。

 

宝篋印塔の加治木肝付氏墓です。肝付氏は加治木の後喜入に移りました。

小松帯刀は喜入の肝付家に生まれ、小松家へ養子にいき、島津家の家老として幕末に活躍しました。

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加治木石を訪ねて(5)日木山宝塔と石切場跡

2024-05-28 | 史跡

今回は加治木石の石切場跡を訪ねます。

 

正面の山は焼山で、ここに加治木石(二瀬戸石)の石切場がいくつかありました。左の尖った山は、加治木のシンボル蔵王岳。

 

焼山の麓にある日枝神社。鳥居は加治木石でできています。

 

日枝神社社殿。

 

日木山宝塔です。加治木親平夫婦の供養塔とも言われますが、定かではありません。

 

1243年建立の北(大)塔。

 

笠石は加治木石です。

 

梵字。これは加治木石ではありません。

 

1242年建立の南(小)塔。これも加治木石ではないようです。

これらは九州で6番目に古く、鹿児島で2番目に古いそうです。

 

石切場跡へ行きます。

 

石切場跡です。

 

垂直に切り出した石切場跡。

 

垂直の岩壁。

 

美しい黄色味を帯びた加治木石です。

この先に主たる石切場だった二瀬戸の石切場跡がありますが、地形が急で道もないため、妻には無理だと思い、ここまでにしました。

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加治木石を訪ねて(4)精矛神社

2024-05-26 | 史跡

精矛(くわしほこ)神社へ行きます。

 

鳥居は加治木石でできています。

 

参道の石燈籠も加治木石です。

 

二の鳥居も加治木石。

 

大河ドラマ「西郷どん」撮影風景の写真があります。

 

階段を上がって神社へ行きます。

 

精矛神社社殿。島津義弘を祀る神社です。

 

社殿の前に、加治木石でできた立派な石灯籠が二つあります。

 

御神木のクスノキです。

 

鳳山和尚が、島津義弘に従い文禄の役に従軍した時、朝鮮から持ち帰った石臼です。

 

この手水鉢も持ち帰ったものです。

 

義弘公ゆかりの小径。加治木名物が並んでいます。

 

このシリーズ2回目に出てきた、護国神社の欄干橋に付けられていた擬宝珠のレプリカです。

 

新しいトイレにも加治木石が用いられています。今は採掘していないのに、よく手に入ったものです。

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加治木石を訪ねて(3)八坂神社他

2024-05-25 | 史跡

八坂神社へ行きます。

 

神社前の通りの石塀は加治木石です。

 

正面から見た石塀と神社。

 

鳥居も加治木石です。

 

立派な石灯籠があります。

 

これも美しい加治木石(二瀬戸石、白石)です。

 

境内の恵比寿神祠。明治23年の建立で、商工業者、漁業者の守護神です。

 

これは桃木野石(黒石)でできています。

 

網掛川河口近くの左岸にある恵比寿神祠です。

 

加治木石(白石)でできています。

 

屋根部。

 

中の恵比寿様。

 

隣の石灯籠です。

 

美しい加治木石の石灯籠。

 

網掛川河口付近の左岸にある石積み護岸。これも加治木石です。

女性をここに案内している年配の男性がいて、その人によると、姶良市が舗装のためこれを撤去する計画があり、反対運動が起きて保存されることになったそうです。

 

案内板の、対岸から見た石積み護岸の絵です。

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加治木石を訪ねて(2)加治木島津家屋形跡

2024-05-24 | 史跡

加治木島津家屋形跡へ行きます。

 

 

柁城(だじょう)小学校の石垣です。

 

石垣は加治木石(二瀬戸石)でできています。形が違う石を、隙間なく積む技術には感心します。

 

屋形風の校門も加治木石でできています。

柁城小学校、護国神社、加治木高校を含むこの付近一帯が加治木島津家屋敷跡で、島津義弘が晩年を過ごしたところです。

 

隣の護国神社です。

 

ここの石垣も加治木石です。

 

護国神社の鳥居と社殿。

 

鳥居も加治木石です。

 

護国神社社殿。前に対の石灯籠があります。

 

美しい加治木石の石灯籠

 

境内にある石橋の欄干橋です。前は堀に架けられており、擬宝珠があったので擬宝珠橋と呼ばれました。

 

横から見た欄干橋。

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