《次々と忘れ物》
いや~参った。本当に。
今まで忘れた事など無かったのに、今回は幾つも…。
1.先ず旅行で初めてホテル泊をした翌朝の事だった。着替えをしようと持って来た下着類を見たのだが、大事なBが1つも無い。忘れたのだ。
男性添乗員に事情を話し、「衣料品店があったら少しの時間、立ち寄らせて下さい。」とお願いした。
しかしBにはサイズがあるので、結局買うのを諦めた。
一人部屋なのを良いことに着て行ったBを毎晩洗濯し、バスタオルで水分を絞って干した。化学繊維が多く使われているので、乾きやすくて助かった。
添乗員氏曰く、「ブリーフを忘れて添乗し、穿かないで過ごした。」とか…
2.折角持参した薄地の浴用タオルを、ホテルの洗面所のドア裏に干したまま忘れた。
ドアを開けたら見えない所に干した私が馬鹿だった。
無いと洗面、入浴に困るので、アラビア語の単語『マンシュファ』を教えてもらい買うことにした。
ある衣料品店で単語を言うと、その店にはバスタオルしか置いて無かった。
すると店にいた10歳位の少年が「待っていて!今探して来るから。」とどこかに走って行った。
暫くしたら5種類のタオルを持って来た。まあまあ良いかなというのがあったので、「いくら?」というと「20DH。」という。明らかに吹っかけている。「高いからいらない。」というと「10DHでいいよ。」と来た。私が「5なら…」というと、「OK」だって。これがアラブ商法なのだ。
多分、実際価格は2~3DH(1DH=約50円)だったのだろうが、とりあえず手に入って良かった。次回は2枚持つ事にしたい。
3.集合時間が迫っていたので、スーツケースに荷物をまとめて蓋をし、鍵を掛けた。そしてベルトを掛けるために鍵を脇のテーブルに置いた。
ベルトが掛かったので、スーツケースを持ち出した。
何と鍵を忘れたことに気づいたのは観光後の夕方、別の町のホテルに着いてスーツケースを開けようとした時だった。
スペアキーがあったので助かったが、そうでなければ絶体絶命だった。
一昨日、地元の鍵専門店に行って合鍵を作ってもらった。630円だった。もう決して忘れないように大き目のキーホルダーを付けた。
4、帰宅後見るとテーブルに娘の書置きがあった。
「警察から窓が開いているので閉めて欲しいという電話が来たので、年休を取って閉めに来た」というものだった。
そういえば出かける日の朝、二階の部屋の掃除をした時に開き窓を少し開けたのだ。内側のレースのカーテンを引いてあったため、目視できずにそのまま出かけたのだ。
結局1週間もの間、強い風が吹く度に少しずつ戸が大きく開いて行き、家中に零下の寒風が吹き込んでいた訳だ。(近所の人の話では、吹雪の日もあったらしいとか)
屋内がすっかり冷え切っていて暖めるのに時間がかかり、省エネを実践しようとしている身には何ともやり切れないできごとだった。
警察に出向いてお礼を言って来たところ、「急ぐ時には忘れやすいから、気をつけて!」と言われた。
こんな訳で、私もいよいよ認知力の衰えかと情けなくなった。家族からは「旅慣れし過ぎて、気持ちに緩みが出て来たのでは…」との言。
今一度、気持ちを引き締めたい。
「また どうぞ」
《ローマの力を今に語る数々の壮大な遺跡》(3)
(3)世界遺産 チュニスの「アントニウス共同浴場」跡
ここには、チュニジア観光最後の日のカルタゴ遺跡見学後に行った。
ガイドブックによると、この浴場は2世紀にアントニウス・ピウスが建設したもので、2階建てで更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、噴水、談話室、トイレなど100以上の部屋が左右対称に配置されていたと言う。(入り口にあった立て看板の写真を見て欲しい)
当時、浴場の水は南に60km離れたザグーアンから水道橋で運ばれ、雨が少ない季節を考えて一端、貯水池に貯められていたそうだ。
しかしこの浴場は、5世紀のバンダル人の侵入で破壊され、その後、建築に使われた大理石や花崗岩は、トルコ、ピサ、ジェノバ、イギリスなどへ運ばれてしまったらしい。マーブル色の大理石の円柱が倒れて放置されていた。これも持ち出されようとしていたのだろうか。
《ローマの力を今に語る数々の壮大な遺跡》(2)
(2)世界遺産「ドゥガ」のローマ遺跡
「ドゥガ」の遺跡はチュニスの西南西100kmの内陸にあって、19世紀の末に発掘された新しい遺跡だ。4世紀に最も繁栄し、少なくとも1万人の人がそこで暮らしていたという。アフリカ最大のローマ遺跡だとして1997年に世界遺産に指定された。
①「円形劇場」
紀元168年に造られた観客席19段、高さ15m、3500人が収容できる大きさで、保存状態も良く、今でも野外劇場として使われている。
②「風の広場」と「キャピタル」「風の広場」は円形劇場から少し離れた場所にあった。「キャピタル」はジュピター、ジュノー、ミネルバの三神を祭った8mの高さの神殿で、当時はとりわけ壮大な建造物だったのだと思った。
③ローマ人の「住宅」やローマ時代の「売春宿」跡住宅の大きさで貧富の差が見て取れた。
丘の最も低い位置に小さい個室が並んだ売春宿があり、少し離れたところに男女共用で10人程が並んで腰掛けて使ったという水洗トイレがあった。
④浴場跡他
巨大な公衆浴場が残っていたが、冬場に営業したらしい。蒸気をパイプで通す蒸し風呂だったようで、粘土で造ったパイプがあった。
ローマ帝国は、支配地域になったカルタゴにも住民の憩いの場である公衆浴場と娯楽の場である闘技場を造ったのである。それは政治から目を反らさせるローマ帝国の基本政策であった。
《ローマの力を今に語る数々の壮大な遺跡》(1)
ガイドブックによると、カルタゴは農業技術と航海術に優れていて、紀元前8世紀から前2世紀まで地中海のシチリア島、サルディーニャ島、コルシカ島、モロッコ、スペイン南部にまで殖民市を築き上げ、繁栄して行ったそうだ。
※改めて現在の地中海周辺国とチュニジアの地図を載せる
ところがローマ帝国がイタリアをほぼ統一して勢いを増すに従ってカルタゴと敵対し、紀元前264~241年、シチリアの所有権を争う第一次ポエニ戦争が起きた。この時はカルタゴが敗北したが、スペインからの豊富な物資があったので国力は衰えなかったらしい。
紀元前218年、スペインにいた英雄ハンニバルが象部隊を伴ってフランスからアルプスを越え、北からイタリアに軍を進め、南からとの挟み撃ち戦法で勝利を収めたのが第二次ポエニ戦争(前218~前201年)として語り継がれている。
しかしその後次第にカルタゴの勢力は衰えて行き、遂にアフリカ以外の領土を失ってしまう。
ローマはカルタゴを諦めず、第三次ポエニ戦争(前149~146年)を起こして市街戦となり、ローマは5万人のカルタゴ人を奴隷にし、焼け残った建物を全て破壊、カルタゴは滅亡したという。
その後、前44年にローマ皇帝カエサルがカルタゴ再建に着手、後アウグストゥスに引き継がれた。
2世紀には巨大建造物が作られ、人口も30万人と膨れ上がり、カルタゴは第三のローマと言われる程になったという。
今回の旅では、先ず首都チュニスから南方約180kmにある地中海沿いの町「エルジェム」とチュニスの南西約100kmの町「ドゥッガ」、首都「チュニス」に残るローマ遺跡を見学した。
(1)世界遺産「エルジェムの円形闘技場」
紀元230年に建設された縦149m、横124m、鷹さ36mもの巨大な規模で地下もあり、現在でも3万人を収容することができるという。ローマのコロッセオと同様の作り方がされていた。今のエルジェムは静かな町である。
《遠いカルタゴの記憶》
紀元前9~3世紀にチュニジアの地で栄えたカルタゴの歴史は、フェニキア人を征服したローマが全て焼き尽くし、破壊しつくしたとずっと信じられていた。
しかし現在の首都チュニスの中心に程近いチュニス湾に面した海岸に「カルタゴの軍港と商業港」がある。湾を望む「ピュルサの丘」の上には都市の跡が発掘され、博物館に当時の町並みの想像図が展示されていた。
ローマに征服された時に焼き討ちにあった焼け跡が、遺跡のあちこちに黒く残っていた。
少し離れた所にある墓地も見て来た。子どもの墓も多く見られた。
遺跡から見つかった沢山の遺物は、現在遺跡がある「ピュルサの丘」に建てられた「カルタゴ博物館」に収められて一般に公開されていた。
地中海のシチリア島やローマと近かったこの港から、沢山の交易品を積んだ商船が出入りし、賑わっていたことが伺えた。
またチュニスから北東に80km程離れたところに位置する地中海に突き出たポン岬近くの「ケルクアン」からも広大なカルタゴ時代の都市が発掘されていた。
特に「ケルクアン遺跡」の住居跡からは、当時の人々の家庭生活(富裕層は二階建ての家に住み、多くの部屋を有していた。家庭には風呂があり、排水も設備されていた。共同の井戸もあるなど)を推測することができた。耳を澄ますと、カルタゴの町のざわめきが風に乗って聞こえる気がした。
いずれも二千数百年の年月を越えて、現代の私達が目にすることができることに不思議な感動を覚えた。
《エミレーツ航空利用体験》
とても変化に富んだ国なので、10日間があっという間に経ってしまったチュニジア。
何をどう話そうか悩むが、先ずは今回初めて乗った「エミレーツ航空」の利用体験団から話したい。
「エミレーツ航空」はアラブ首長国連邦に本拠地を置く航空会社である。
往路成田から顧客評価世界一と言われている「エミレーツ航空」のエコノミー席は機体が大きく、座席が広い。一般的な航空会社のよりも座席の幅が10cmは広いように感じた。だから体格の良いアラブ人が臨席に座っても、まあ我慢できそうに思った。
出て来た機内食はイスラム教の人たちのを標準食としているらしいが、それ以外の乗客にも対応していて美味しく、アルコール等の飲み物も色々あり、成る程と思った。
2階には立派なファーストクラス席があるそうだが、残念ながら見ることはできなかった。
(①最初に出た夕食。ご飯がキャベツで包まれていて、ビーフの煮込み、サラダも味が良かった。②私が頼んだ和食の朝食。成田空港から積んだのだろうが薄味で美味しかった。)
① ②
所がである。28日の帰国に当たりチュニジアのチュニス空港から14;30にドバイに向けて飛んだEK-0748の飛行機は、散々だった。
運悪く私の席は機体中程のトイレの前の2つ奥の席だったのだ。嫌な予感がしたが、離陸後間もなくそのトイレの水が出なくなったといって閉鎖されてしまったのだ。
「使用禁止」と書いた小さな赤い紙がドアに張られたが、故障を知らない人達が次々とやって来てトイレの前でドアが開くのを待ち続ける事態になり、ドア前の私の隣席に居た知人と私は、ついにその人たちへの説明のため5時間半全く寝られなかったのだ。
聞くと満席の乗客に対して、トイレが3箇所も同じ原因で使用できなくなっていたのだ。
だが乗員は「私達はメンテナンスができないので、直すことはできません。」というばかりだった。離陸前の機体点検に不備があったのだろうと思うが、これが世界一の快適さを誇る「エミレーツ航空」かと呆れ果ててしまった。
もしこれが日本の飛行機なら、こんな事態を許すだろうかと考えてしまった。
しかし悪い事ばかりではなかった。
ドバイで乗り換えた成田空港行きの「エミレーツ航空」機は、その日エコノミー席が空席だらけだったため、私達はそれぞれ3~4席を独占でき、機内食以外の時間は寝て来る事ができた。9時間25分ゆったりと足を伸ばして大きな飛行機に乗れて、全く文句なしだったのだ。お陰で溜まっていた疲れが少し軽くなった気がした。