中山間地に住みながら、森や川はよそ事になっている。森や川は生活から遊離して抽象的な存在になっている。近くの国道では太い木材を高く積んだ大型トラックにしばしば出会うが、それとふだんの暮らしとはつながらない。そんなとき、いつも利用者のまれな図書館の新刊コーナーで、海野聡『森と木と建築の日本史』(岩波新書、2022.4)をたまたま借りてくる。
わが家は360度小さな山並みに囲まれた場所にある。数十年前、白銀の南北アルプスのふもとのいくつかのキャンプ場に泊ったことがある。その雄姿のスケールにほれぼれしてそこで暮らしたいと思っていた。しかし、その寒さをどこまで耐えられるかということ、乏しい懐事情との現実とかで、断念したことがある。そうして、都落ちするように「なんにもない」辺境の現在地に不時着した次第である。
この地も昔は林業が盛んで、山奥には立派な邸宅も散見できたし、まわりの隣人も山持の地主や林業関係者も少なくない。しかし現在は、そうした山の恵みを実感できる環境にはない。著者は、「日本の歴史は木とともに歩んだ歴史であるといっても過言ではない」というが、現実はそれを受け止めるのは難しい。本書は木にかかわる入門書との意図もあったのか、前半の記述は教科書を読んでいるみたいだった。
概論から各論に入っていくや、興味が刺激されていく。日本の<古代>は、「豊かな森のめぐみ」のおかげで、法隆寺のような寺院の大量造営の時代を実現した。それは巨木を供給できる森がすぐそばにあったからでもある。<中世>は、大仏殿造営などによる巨材の枯渇で全国から集積しないと作れなくなってきた。<近世>は、森の荒廃と保全のせめぎあいの中から森林の育成がめざされた。<近代・現在>巨材の確保はむずかしく、台湾など海外からしか確保できなくなった。同時に、古材の再利用や木材の循環サイクルが模索される。
従来の建築史は、建築様式の違いが強調されてきた。しかし著者は、森の在り方・木材の運搬方法・技術や道具の改善・樹種の活用・柱間の規格化・治水などに視点をおき、その史的変遷を描いたところが斬新だった。とくに、巨木の運搬がいかに大変だったかがよくわかった。むかしは陸上というより川や海が運搬の主力でもあった。
宮殿の多くから「コウヤマキ」の利用が多いというのを初めて知った。つい、ヒノキ・杉・ケヤキなどに目を奪われてしまうが、出土した「柱根」には水に強いコウヤマキが利用されていた、つまり木の特性がすでに奈良時代には認識されていたということだ。しかも、日本特産のコウヤマキは朝鮮にも輸出されていたというのも驚きだ。
西洋の「石の文化」に対して日本の「木の文化」は木に特化した暮らしと精神性がある。それを展開してしまうと紙数が足りなくなってしまう。無理な要求であろうが、そこを鋭く端的に斬りこむ掘り下げが欲しかったというのが率直な感想だ。それには民俗・技術・林業・文化・宗教・文学など総合的な配慮が求められる。著者もそれは充分わかっていて随所にそれが散見できたが、その膨大な知識量をいかにまとめて料理するかの迷いがあったように思う。