このところ、現在では目立たないが戦前で活躍したキーパーソンに注目してきた。今回は、「国父」と呼ばれた『百年先を見た男-孫文』(新人物往来社、2011.5)を読む。著者は朝日新聞の記者だった田所竹彦。孫文の遺言が表紙に出ている。「革命はいまだ成功していない。あとを頼むぞ。」というわけだが、確かにそれは現在も成功していない。
(ナガジンwebから)
孫文が起こした「辛亥革命」は、始皇帝以来続いた数千年にわたる中国の皇帝支配を一時的にせよストップさせたことに歴史的意味があることに気づいた。しかし、孫文が提唱した「三民主義」は実現しているとは思えない。異民族支配からの独立の「民族主義」、主権が君主ではなく国民とする「民権主義」、地主・資本家の独占支配を打破する「民生主義」。残念ながら日本は孫文死後も植民地支配を侵した。
(画像はasahi.comから)
本書は、人物論、孫文思想、日本人との交友、の三分野にわけて展開している。やはり、関心があったのは、辛亥革命を推進していく前線基地は日本だったことだ。したがって、犬養毅・内田良平・頭山満・梅屋庄吉など多くの日本人が支援している。とりわけ、宮崎滔天(トウテン)は生活苦にあえぎながらも終生孫文を支援した。そのことで、彼の家族は中国にたびたび国賓として招待されている。
滔天というと何となく、内田・頭山ら国家主義者と同じ仲間のように思っていたが、純粋に孫文のアジア主義を応援しているのがわかった。彼の欧米の植民地支配からアジアを守るという信念は本物だった。日本の大東亜共栄圏構想は結局のところ利権を獲得するところにあった。
また、資金援助を惜しまなかった梅屋庄吉は、孫文と宋慶齢の結婚披露宴をも引き受けている。また、田岡嶺雲もそうだったが、うずもれた英傑がまだまだいる。それを積極的に掘り起こさないマスコミの責任も大きい。
(画像は南方熊楠顕彰館から)
孫文と南方熊楠とがイギリスで交友を深めたというエピソードも意外だった。医師でもあり理工系にも強い孫文も博覧強記な知識を持つ熊楠とがかなり話し込んだようすが描かれている。
表題にあるように、「百年先を見た男」と題した理由について著者は、孫文は階級闘争至上主義を危惧し、中国伝統思想の調和を重んじた平和路線の改革開放の道を模索していたからだという。毛沢東と周恩来との暗闘も読み応えあった。欲を言えば、国家主義者・右翼の人との交友や大企業・軍部との交渉も展開してもらえたら、より総合的に孫文が見えてくる。