前々から読みたいと思っていた武道家で思想家の内田樹の「街場…」シリーズ。『街場の共同体論』(潮出版社、2017.1)をやっと読み終える。創価学会系の雑誌『潮』に連載してきたものを単行本にまとめたものが本書である。目次を見ると、家族論、格差社会、学校教育、コミニケーション能力、師弟論などで、共同体という言葉が見当たらない。ムラ社会に生きていると共同体とのかかわりは無視できない。内田氏の生きている世界は都会中心であるのがやや気になる。
ムラで生活していると、水源地・生活道路・草刈りなどの整備や神社・祭り・防災訓練の行事がらみの共同作業が少なくない。水源地の泥の除去や林道の枯れ枝・土砂の撤去や水道のメーター点検などは、グループの当番制で三カ月に一回廻って来る。その意味では、群馬県上野村にも居住している哲学者・内山節氏の本のほうがムラの様子がリアルに出てきて身近な感じがする。とはいえ、二人とも易しい言葉で活字化しているので哲学に縁遠いオラたちにとって入り口は入りやすい。
さて、本書では内山氏が自分の意見を断言する過激な物言いに引っかかる人もいるかとも思えたが、「まえがき」に「当たり前のこと」を言っているだけだと強調する。続けて著者は、政治家・エコノミスト・メディアらの指導者や大衆の幼児化が甚だしく、経済成長がすべてという呪縛から解放されないまま、国土や国民の荒廃が進行してしまったと指摘する。「そのような集団的な思考停止状態に現代日本人は置かれ」、「この深い絶望感が本書の基調低音をかたちづくって」いるとしている。
オラも、専門家にとっては厳密な表現はあるだろうが内山氏のそのくらいの断言は容認できると思えた。そして、阪神大震災を体験した著者は、「絶望的な状態に置かれたときには、まず足元の瓦礫を拾い上げることから始める」、そうした当たり前の行為が「自分にできること」だったという。そこに、絶望状態から自分を救う第一歩があるというところに著者の真骨頂がある気がする。
共同体論については、「現代日本における共同体の危機は、いきなり天から襲来した災厄ではなく、何十年もかけて、僕たち日本人が自らの手で仕込んだ」「国民の営々たる努力の<成果>」であり、その「仕組みが破綻し始めた以上、それを補正するための努力にも同じくらいの時間がかかると覚悟したほうがいい」と結ぶ。
この著者の終末観というか、絶望感はよくわかる気がする。オラもいろいろ地域づくりなどの活動もしてきたが、その壁の厚さに絶望的にもなったが、最近は自分が終末高齢者になって体や大脳のあちこちが齟齬することが増えたこともあり、「今自分ができることをする」ことをベースに日々を迎えてきた。姜尚中の言う、自分の中の「根拠地」を構築していく大切さを実感している。その意味で、著者の「初めの一歩」に大いに共感してやまないことしきりだ。