十数年前に読んでからわが座右の書ともなった本は、英米文学者・加島祥造『求めない』という詩集だった。一人暮らしをしている兄にこの本の贈ったらぴんと来なかったようだったが。翻訳者としても有名だった加島氏はすべてを捨てて山奥に移住する。そうして、「伊那谷の老子」とも言われ、そこで出会った外国人女性と意気投合する。しかし、そのパートナーの死に直面しふさぎこんでいたが、彼女の骨を庭に散骨することでようやくそれを受け容れるようになる。その様子はNHKで ”Alone, but not lonely.”として放映された。そうして、続編『受いれる』(小学館、2012.7)も刊行された。
そのあとがきで、「私のいちばん近くにいて絶えず支えてくれた人を失いました。私にはどうすることもできない別離でした」という絶望的状況の中で、「こんな私を彼女が望んでいるわけはない」と思い直してから、「受いれる」という言葉にたどり着いたという。不条理がまかり通る世の現実や経験則から、「受け入れる」という言葉はオラには禁句でもあった。
著者は、「現代に生きる人は 社会の自分にばかり支配されて 心は固くなり 柔らかな命の自分を 受いれることが 難しくなっていく それがすべての苦しみの 原点だと言えるんだ」と指摘する。だ が、尖ったオラの心はいまだに「伊那谷の仙人」の境地には達していない。日本も世界も殺戮や収奪をやっている権力者・財界やフツーの「善人」が少なくない。そうした現実に対して加島さんのお坊ちゃん体質がぷんぷんしてならなかったのだが。
それでも著者は宣言する。「人は陽を背に負い 陰を胸に抱いて 和に向かって進む」と、老子の言葉を引用する。さまざまな苦難に直面してその結果伊那谷の山奥に「逃避」したくらい、絶望と対峙していた英米文学者は東洋の「老荘」に出会う。そこから、ベストセラーともなる『求めない』の境地に至る。そして、出会った女性を看取って『受いれる』の境地に達する。そこには、本書に出てくる「はじめの自分」が発揮されている。
つまり、そこには社会に出た「次の自分」の蒙昧を脱した少年がいた。どんなに苦難が襲うとも「はじめの自分」を温存していたということだろうか。「はじめの自分に還って 自分は自然の一部、 大きな力につながっている、と思えば はじめの自分は息をふきかえすんだ」と、覚醒する。だから、「天と地につながる目で見ると 歴史上の英雄は みんな 大たわけさ」と喝破する。
なるほど、英雄好みのおじさんの「博識」は絶好の視聴率獲得の餌食にもなる、ってわけさ。「悲しみを受いれるとき 苦しみを受いれるとき <受いれる>ことの ほんとうの価値を知る」ことになる。「すると、運命の流れが変わる」という達観した仙人になれるわけだ。
いっぽう、今話題ともなっている「政治とカネ」や闇バイト・通り魔殺人事件なんかにもつながっている現実も無視できない。オラも尖ってしまった牙をソフトな入れ歯にするつもりだけどね。