最近は愛車に乗ると五代目圓楽の落語が流れるようになっている。名人の落語はやはり聴きごたえがあり、B級落語家の話は残念ながら平板で品がなく話の彫りもない。さて、落語の「王子のきつね」はいろいろな人が演じているが、ひとを化かすキツネが人間から化かされるという「逆さ落ち」の代表的な噺。
絶世の美女に化けたキツネがインド・中国そして日本に流れたものの、正体を見破れられて硫黄の臭う那須に逃れて「殺生石」になったという話が残っている。芭蕉が「飛ぶものは雲ばかりなり石の上」を紹介するところは圓楽らしい。その辺から、噺が展開されていく。
さて、そんな噺を聞いて間もなく、内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社、2007.11)を読み終わったところだった。哲学者の内山氏はいつものように易しい言葉を重ねつつも、ずっしりした中身は変わらない。著者によれば、1965年(昭和40年)ごろを境にキツネに化かされるという話が消滅していったという。当時と言えば、東海道新幹線や東京オリンピックをやりきったことに象徴されたように、日本は高度経済成長を遂げ、世界第2位の経済大国ともなった。
(王子キツネの行列webから)
それまでの日本は、「我執を捨て、煩悩を捨て、知性によって物事を解釈しわかった気になる精神を捨て、自然の一員になっていく」という、つまりは自然に帰ること、自然と一体であることであった。ところが、「伝統的なヨーロッパの思想は人間が知性をもつことで文明が開けたと考える」。その影響が本格的に日本に浸透していくのが1965年以降というわけだ。
さらには、勝ち組の権力者の「中央の歴史」や「国民の歴史」は、過去より現在のほうがマシだという擬制を無意識のうちに醸成させていくものだ。しかし、「自然環境という視点からみれば、歴史は<後退の歴史>であった」にもかかわらず、だ。ある国の発展は同時にある国の後退・崩壊をもたらしていくのが現実だ。
(大日本図書から)
西洋で言う「発展とか発達」とかいう直線的な言葉の魔術でわれわれをだまくらすが、日本の循環的な里山文化は、キツネにだまされてきた歴史を包含する「見えない歴史」の一つではないかと著者は提起する。
そして、今日の豊かさのさなかにありながらも、同時に「身体の充足感・生命の充足感」に乏しいという現実にある。それは、「知性を介してしかとらえられない世界に暮らしているがゆえに、ここから見えなくなった世界にいる自分の充足感のなさ」があると指摘する。
(三重民話webから)
「現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった」という文脈から、キツネに騙されなくなった理由を位置づける。
キツネにだまされた物語は、自然と人間との生命の歴史の中で見いだされた共存的な暮らしが成立していた時代だ。しかしその歴史を読み取れなくなった私たちは、見えなくなった世界の迷宮に彷徨っているということになるのだろうのか。
圓楽が、静岡の学校寄席でこの「王子のキツネ」をやったところ大好評だったという。人間に追われて生き物は絶滅状態にあるいま、それは現代にも通じるもので、地球上でいちばん悪いものは人間なんだと子どもたちは理解したようだったと述べている。それは童話作家・新見南吉の『ごんぎつね』の名作にも、キツネと人間との哀しみとして結実・昇華されている。