古典落語「厩(ウマヤ)火事」は物語の展開といい、中身の時代性といい、優れた噺として多くの落語家が演じている。生粋の江戸の落語で、文化4年(1807)、ネタ帳「滑稽集」に「唐の火事」を元にしたといわれる演目。最近では、三遊亭円輔三代目や桃月庵白酒がEテレで演じていて、ストーリーは外していないが物足りない。人間国宝の柳家小三治のきめ細かい描写は期待通りだ。
夫婦喧嘩をする度に兄さんへやって来る髪結いのお咲きは、亭主の本心を知りたいと相談する。
兄さんは、馬小屋の火事で白馬を失った中国の孔子と、皿を持ったまま階段を滑り落ちる奥様に驚いた麹町の旦那の話を比較して聞かせて、亭主の本心を試そうという物語だ。
やはり5代目圓楽の視点が深い。「オチ(下げ)」は最高のブラックユーモアで誰もが同じ「オチ」ではあるものの、圓楽は、妻の「女性のはかなさ、哀れさというものが」際立っていて、また亭主の「半公」という稼ぎのない男の酷さに人間の本性を踏まえながら「オチ」にしている。
当時の髪結いと言えば自立した羨望の職業婦人で、安定した暮らしができていたぶん、亭主は遊んで暮らせてもいたわけだ。その甲斐性のない亭主のあり方・性格をいかに演じるのかが決め手だと圓楽は言い切る。その意味で、この噺は「今後も多くの噺家が演じるでしょうけれでもやはりこの世に男と女がある限り、不滅の名作だ」と語る。
『論語』(郷党篇)では、孔子の馬小屋が火事になって白馬が焼死したとき、「だれか怪我した者はいなかったか」と問い馬のことはなにも言わなかった、と言う。
孔子がなぜ馬を問わなかったのか、この点について『新釈論語』(1947年刊)の穂積重遠(シゲトオ)は、「まず人を、次に馬を、と解する人があるが、それは考えすごしだ」と記している。つまり、責任問題の起こることを避ける意味で馬を不問に附されたのだ」と穂積は言う。
(画像は国会図書館webから)
昭和24年12月28日、東宮仮御所が全焼したときのこと、殿下の留守中のことだったので、「身の回りの品を何一つ取り出せなかった」ことがあった。その時、殿下は「人にけがはなかったか」とおっしゃったきりであられたと言う。穂積はすぐにこの「論語」の話がよぎったという。(myコンテンツ工房/丸山有彦さんから)
穂積重遠と言えば、まもなく終了する朝ドラの「虎の翼」に登場した穂高教授(小林薫)のモデルとなった日本の「現代家族法の父」である。渋沢栄一の初孫にあたり華麗な一族の男爵でもあった。
古典落語に出てくる長屋のキャストには善人が多い。そこには口は悪くても性格破綻者でも仲間にしてしまう寛容な精神がある。金持ちや武士をコケにしてしまう庶民感覚が健在でもある。しかも、知識や常識でみんなをまとめる相談役の「大家」さんもいる。この落語を聞いて、一人前のおとなになっていくモラルというものが秘められてもいる。
現代では、こういう笑いや知恵ではなく瞬間的な笑いをとるために汲々としている。その意味で、古典落語がお笑い芸人にジャックされたマスメディアになかなか登場しないところに落とし穴がある気がしてならない。同じお笑いでも本質的にこの違いが日本の文化の亀裂となっていく。