オイラが40代のころだったと思うが、都会で「境界ウォーク」というのをやったことがあった。そのとき印象的だったのが、都内の品川・目黒区の境界にあった「長者丸」という地区だった。高級住宅街の高台の一角に石碑を発見。武蔵野の一角だった荒野を先導的に拓いた吉田弥一郎(大正13年没)を崇敬し讃えたものだった。
今では家賃が85万円という高級マンションや瀟洒な邸宅が並び、銀を保有していたという白金長者の名残が周辺に続く。大名城跡の「自然教育園」、旧朝香宮邸の「庭園美術館」、美智子上皇后の出身地の池田山、港区の白金地区へと。しかし、吉田親子碑のことは全くというほど知られていない。もちろんガイドブックにも出ていない。ネットではマンションの宣伝ばかりが目立つ。
今では高速道路に追いやられたようにその片隅に「吉田翁碑」がひっそりたたずんでいた。昭和3年に建立されたその顕彰碑は、弥一郎の温容で高潔な人柄で地域の「自治の美風」を広めたとされる。広大な地主でもあった弥一郎は呉服商だった。その石碑の隣には、円筒型の銅製の碑があった。それは三男の幸三郎(1887-1980)の顕彰碑だった。
そこには、幸三郎は、日本の演劇・美術・伝統音楽の保存・発展に大きな貢献をしたことが刻まれていた。早稲田大学に入学した幸三郎は、坪内逍遥のすすめで坪内邸に設立した「文藝協会演劇研究所」に入り、近代劇の生成発展のために尽力。同窓生に、黙阿弥の家を継ぐ河竹繁俊、日本初の新劇女優・松井須磨子がいた。(つづく)