山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

小津安二郎の様式美そのものの風景

2024-09-07 09:09:20 | アート・文化

  大雨が続いた台風だった。土砂崩れの情報が多かったので念のため寝る場所を山側から居間に変更した。このところ、ムカデの親子がしばしば出没するので簡易テントの中での家内キャンプだ。雨が多いとDVDの映画を見るチャンスでもある。1951年公開の小津安二郎監督の「麦秋」を観る。キネマ旬報ベストワンを誇った作品だ。監督は「人生の輪廻・無常を描きたかった」と言う。いつもの映像パターンからそれをいかに表現できるかが見どころだ。 (画像は松竹webから)

 

 

 小津安二郎の基本構図は、日本的な襖・障子・柱・窓の真ん中にちゃぶ台があり、箸でごはんやおかずを食べ、何気ない会話が交わされ、それをローアングルのカメラが追っていくというものだ。本作品もその通りのパターンだった。そして、今回はおしゃれな喫茶店が出てくるのがポイントの一つだ。小津作品には絵画がそれとなく出てくるが、今回は大胆でシュールな壁画が印象的であるのと、登場人物の和洋のファッションが見どころだ。

   

 海外のデザイナーが服装・場所・小物などのこれら和洋の組み合わせから、日本の美の緩やかさに注目しているという。原節子や三宅邦子らのファッションは当時としてはかなりニューモードな革新性があったと思われる。

 父と娘のとの会話で、康一・笠智衆「終戦後、女がエチケットを悪用してますます図々しくなってきつつあるあることは確かだね」、紀子・原節子「そんなことはない。これでやっとフリーになってきたの。今まで男が図々しすぎたのよ」という場面があったが、そこに戦後まもなくの当時を切り取って見せているのもさりげない。(上の2枚の画像は、「カイエ・デ・モード」から)

  

 また原節子のご飯を食べる所作の大胆な食べっぷりにびっくりしたが、ありふれた日常生活の中に違うリズムをひょいと投げ入れるのが監督の特異性と言えるかもしれない。オラが若い時は小津の映画を見てもいつも寝てしまっていたが、今見るとその斬新さというか熟成を感じ入る。さらに、子どものやんちゃな場面を挿入して淡々としがちな日常の画面にユーモアを撮り入れることも忘れない。

 監督の色紙には何気ない湯呑の絵に「車戸の重き厨や朧月」という俳句を発見したが、そんなところにも監督のまなざしがある。

 

  1937年に徴兵された小津は、中国戦線で毒ガス部隊にいて上海・南京などの主要都市の侵略にかかわり軍曹にも昇進。その後、軍部映画班員としてシンガポールに従軍、1946年帰還。そのあたりの戦場の阿鼻叫喚は黙して全く語らないが、「麦秋」では、次男省二の戦死という形でヒロインの紀子・原節子の結婚を決める背景になっている。戦火で見たであろう経験は作品の中では具体的に描かれず、家族という狭い小宇宙に安堵と陥穽と無常を刻んでいる。

 終章には、家族がバラバラになっていくなかでの、村の花嫁行列や麦畑を描写することで、日常生活の喜怒哀楽の中に人生の亀裂やはかなさを静かに諦観する監督のまなざしがローアングルでとらえている。東山千恵子の凛とした表情と悲哀とが作品の中での存在感を増している。原節子の美しい笑顔と東山千恵子の安定した重量感が対照的だ。

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エアコンなくても涼を呼んだかつての叡智

2024-09-04 22:53:34 | アート・文化

 東団扇(アズマウチワ)とは、 江戸特産のうちわで、初めは割り竹に白紙を張っただけの無地のものをカラーなどの絵にした江戸うちわシリーズ。それを役者絵にしてしまう江戸の絵師・版元が斬新だ。モデルは、両国橋で夕涼みする歌舞伎役者・4代目市村家橘(カキツ)。画像の浮世絵は慶応3年発行、慶応4年(1868/8)に市村座で5代目尾上菊五郎を襲名したが、翌月明治維新で明治に。幕末から明治に活躍したいなせな役者だ。四角い「版元」印と丸い許可印の「改印」は、黒塗りされているかのように絵師のサインの隣にあるが解読できない。

   

   藍染めの浴衣は、「橘屋」の家紋をアレンジした「橘鶴(タチバナツル)」なので、ファンは当該の役者は市村家橘であることがわかる。背景には、緑の「麻の葉模様」と「レンガ柄」を配置。「八百屋お七」を扮した岩井半四郎が女形の役でこの「麻の葉模様」の衣装を着たことから江戸で爆発的に大流行。とくに、麻の葉模様を白玉で描いた赤地の衣服は若い女性はもちろん子どもや男性にも使われた。

 

 画像左上には、軒から吊るした風鈴が涼を呼ぶ。その「しのぶ玉」は苔と土とで球を作り周りにシダ植物の「ノキシノブ」で形を整えている。このノキシノブは、「水がなくとも耐え忍ぶ」という江戸っ子らしい粋が込められている。この「釣りしのぶ」の形も「橘鶴」を考慮しているらしい。しかもその短冊には、「たちばなの 薫るもうれし 橋すずみ」との家橘が詠んだ句が挿入されている。当時は橘が身近にあった植物だったようだ。これでもかの「橘づくし」の役者絵は家橘のPRちらし・プロマイドのようなものだ。

  

 同じような表現パターンがいくつかあるようだが、なかなか資料が出てこない。左手に楊枝を持つこの役者は、幕末から明治にかけて人気のあった4代目「中村芝翫(シカン)」であることが短冊からわかるが、崩し字がなかなか解読できない。歌舞伎役者の俳諧はけっこう盛んだったらしいが、その研究もまだまだ発展途上のように思える。背景の模様・釣りしのぶ・風鈴の形がそれぞれ微妙に違うのが面白い。きっと、それぞれに意味があるのだろうが、オラの能力を超えている。

    これらの役者絵の絵師は、「豊原国周(クニチカ)」で、同時代の月岡芳年・小林清親と並ぶ「明治浮世絵の三傑」と言われ、最後の浮世絵絵師である。しかし、生涯で妻を40人余りも変え、転居の回数も本人曰く117回といい、さらに「宵越しの金は持たない」とばかりに散財したため極貧の暮らしだった。船越安信氏の『豊原国周論考』は海外の資料をも駆使した優れたweb上での労作があり、その情熱に敬意を表したい。

 なお、絵師のサインでは、「国周画」は30歳まで、「国周筆」は30歳から、「豊原国周筆」は36歳からということだ。したがって、当該の家橘の役者絵は30歳代の作品ということになる。

 

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エビスグサが占拠したので

2024-09-02 22:47:38 | できごと・事件

 畑と畑の間にあるわが荒れ地をエビスグサが見事に占拠してしまった。エビスグサはハブ茶の原料として希少な「ハブソウ」の代用として注目されたハーブである。知り合いからいただいた種を蒔いたらあっという間にこぼれ種が野生化していった。花は控えめでしっかり開花したのを見たことがない。

 

 その野生化した苗が知らないうちにあまりに見事に広がっていたので、真ん中に道を作った。収穫をやりやすくするためでもある。オラの野生化農法のパイオニアだ。このハブ茶の効能は、高血圧・便秘の予防をはじめ整腸・利尿・目の改善にも役に立つ薬草でもある。オラの経験では便秘・利尿はてきめんだった。

 

 昨年収穫した種はまだ十分あるが、夏の間中は冷えたドリンクとしてお世話になった。もちろん、同じ野生化農法の巨頭である「ハトムギ」とブレンドして飲んでいる。このエビスグサは、線虫の増殖を抑えるコンパニオンプラントとしても注目されるが、エビスグサに占有される恐れがあるのでおすすめできない。畑以外で放任するのがいちばんいい。オラも毎年畑にやってきたエビスグサを除去しながら、次はどこに芽を出すかを楽しみに、いや警戒しながら待っている次第だ。

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