丘のほぼ頂に空き地があった。三密院の標識を見た私は「ここだったんですね」と言った。案内役を務めた男性は満足げな表情を浮かべて頷いた。


昭和23年生まれの男性の話では小学校5年の頃までは廃屋が建っていたという。敷地の隅の方には五輪塔や地蔵がまだ残っている。江戸時代の文献の記述通り見晴しのいい場所だ。
松柱庵
三密院といふ、眞言地なり、松柱と云ふ處にあり。昔、世羅郡高山今高野山の僧來りて艸創と云。桂(佳か)景なる地なり。
『西備名區』
深津高地は開発によって様々な建物ができたが、独特の形状や高低差の把握は今でも可能である。存在する物だけにとらわれると大切な物を見落とすということを悟った。
田舎者の郷土史研究が陳腐な過去マンセー調になりがちなのは現在と未来に希望を抱けないためだろう。市中心部の発展と鰻の寝床のような僻地の没落、民度・産業・立地条件が複雑に絡み年々格差は広がるばかりである。私は丘の上で「想像してごらんよ」と実現不可能な理想郷を歌った男が蜂の巣になって最期を迎えた例を静かに思い浮かべていた。



昭和23年生まれの男性の話では小学校5年の頃までは廃屋が建っていたという。敷地の隅の方には五輪塔や地蔵がまだ残っている。江戸時代の文献の記述通り見晴しのいい場所だ。
松柱庵
三密院といふ、眞言地なり、松柱と云ふ處にあり。昔、世羅郡高山今高野山の僧來りて艸創と云。桂(佳か)景なる地なり。
『西備名區』
深津高地は開発によって様々な建物ができたが、独特の形状や高低差の把握は今でも可能である。存在する物だけにとらわれると大切な物を見落とすということを悟った。
田舎者の郷土史研究が陳腐な過去マンセー調になりがちなのは現在と未来に希望を抱けないためだろう。市中心部の発展と鰻の寝床のような僻地の没落、民度・産業・立地条件が複雑に絡み年々格差は広がるばかりである。私は丘の上で「想像してごらんよ」と実現不可能な理想郷を歌った男が蜂の巣になって最期を迎えた例を静かに思い浮かべていた。


葉隠饅頭から南へ更に下ってすぐ東方向へ延びる道が現れる。深津の歴史に詳しい男性は「ここがアサムラサキの工場跡だよ」と指差した。

建物にはハイムモルゲンロートという名がついておりA~C棟まであった。アサムラサキという社名はもともとは商品名(醤油)だった。昭和51年に社名変更する前は藤國醤油株式会社で、創業者の藤井國五郎さんの2文字を取ったものと思われる。
明治43年(1910)に醤油製造専業となり大正12年宮内庁御用達の醤油として朝紫(朝廷に納める醤油という意味)の名をいただいたという話である。

私が数年間追い求めてついに分からず仕舞いだった廃寺跡について男性に話を振ると「オタクは深津高地に興味があるんじゃな。ワシは昔そこでよう遊んだが、知っとる者はほとんどおらんじゃろう。久し振りに行ってみるかな」と言った。予期せぬ素晴らしい展開に胸が躍った。私達はミラーの先から洋館の建つ方向へ進路を変更して話を続けたのである。


建物にはハイムモルゲンロートという名がついておりA~C棟まであった。アサムラサキという社名はもともとは商品名(醤油)だった。昭和51年に社名変更する前は藤國醤油株式会社で、創業者の藤井國五郎さんの2文字を取ったものと思われる。
明治43年(1910)に醤油製造専業となり大正12年宮内庁御用達の醤油として朝紫(朝廷に納める醤油という意味)の名をいただいたという話である。

私が数年間追い求めてついに分からず仕舞いだった廃寺跡について男性に話を振ると「オタクは深津高地に興味があるんじゃな。ワシは昔そこでよう遊んだが、知っとる者はほとんどおらんじゃろう。久し振りに行ってみるかな」と言った。予期せぬ素晴らしい展開に胸が躍った。私達はミラーの先から洋館の建つ方向へ進路を変更して話を続けたのである。


母から大体の位置を聞いた私は現地調査を行った。三枚橋を渡り松原通りを真っ直ぐ東へ向かうと薬師寺門前である。


門前から右折して細い路地に入り南下する。少し先の小高い丘が王子山、山裾で道は丁字路となる。

丁字路を左に曲がってすぐ王子神社の鳥居や葉隠饅頭が見える。私はゴルフクラブを持って神社の方へ歩いて行く男性を見つけて声を掛けた。この日は本当に運が良かった。その人は深津高地について驚くほどよく知っていたのである。「案内してあげよう」と言われ私は深々と頭を下げた。

参考までに福山空襲焼失家屋地図を用いて進路を黄色の矢印で示した。蓮池川(溜池)西側の文のマークが現在の福山市保険センター(三吉町南2丁目・戦前は盈進商業学校の敷地で校舎は空襲でほぼ丸焼けとなった)、川東側の卍マークが薬師寺である。


門前から右折して細い路地に入り南下する。少し先の小高い丘が王子山、山裾で道は丁字路となる。

丁字路を左に曲がってすぐ王子神社の鳥居や葉隠饅頭が見える。私はゴルフクラブを持って神社の方へ歩いて行く男性を見つけて声を掛けた。この日は本当に運が良かった。その人は深津高地について驚くほどよく知っていたのである。「案内してあげよう」と言われ私は深々と頭を下げた。

参考までに福山空襲焼失家屋地図を用いて進路を黄色の矢印で示した。蓮池川(溜池)西側の文のマークが現在の福山市保険センター(三吉町南2丁目・戦前は盈進商業学校の敷地で校舎は空襲でほぼ丸焼けとなった)、川東側の卍マークが薬師寺である。
