寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

若かりし頃(その6)

2005年05月31日 | 学生時代
一年生の前期の必修科目は下記の通り。(語学、体育実技及び理論、概論を除く)

一般微積分学、基礎物理学、一般化学。どの講義も退屈であったが、落とすわけにはいかないので、出席はしていた。興味を持てたのは選択必修で受講した細胞生物学のみである。

予備校に通っていた連中はセンスのない教官をけなしていた。大学の先生にそれを求めること自体間違いだと私は思っていた。だらしない高校の教師にくらべればはるかにましであった。
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若かりし頃(その5)

2005年05月30日 | 学生時代
入学式の翌日から2日間、新入生のオリエンテーションが行われた。初日は10時から学部長の挨拶で始まったらしいが、全くその記憶はない。みすぼらしい教室で単位の取り方について一年上の先輩からいろいろ教えてもらったのは覚えている。

次の月曜から講義が始まった。楽勝科目というのを取ることにしたが、内容はチンプンカンプンで100分間席に座っているのは苦痛であった。聴講受付期間は4月13日から25日までだった。必須科目以外は気楽に聴いていた。
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若かりし頃(その4)

2005年05月29日 | 学生時代
もう一人の住人〝ヤンキー〟は我が道を行く男であった。格好からして、遊び人風である。『サングラスをかけて大津駅でうんこ座りしていたら、そばに誰も近寄って来なかったわ』と嬉しげに語っていた。おそらくその道の人と思われたに違いない(笑)。

ヤンキーは柔道黒帯のようにパチンコにのめりこんでいながったが、マージャンが好きであった。黒帯は言わずもがなだ。私はこの二人からマージャンの手ほどきをうけ、卓を囲むようになった。

工学部のEというひげもじゃを連れてきて、黒帯の部屋で何度かジャラジャラやった。その音と下品な会話が隣の大家に知れて、こっぴどく叱られた。『今度やったら、下宿を出てもらいますからね』

この時ばかりはさすがのヤンキーも首を縦に振るしかなった。それでも私達はトランプマージャンをその後数回やった。しかし、あの音が出ないと盛り上がらない。私達は雀荘へ入りびたるようになった。
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若かりし頃(その3)

2005年05月28日 | 学生時代
同じ下宿の住人〝柔道黒帯〟は面白い奴だった。『予備校の帰りにパチンコ屋へ入ったものだ』と真顔で私に語るのである。彼は香川県の名門T松高校出身であった。

『T高のいいところは、出来の悪い生徒にも赤点をつけんことや。俺の成績はケツから数えた方が早かった』と教えてくれた。成績順が分かるということ自体、私には驚きであった。

彼とは夜遅くまでいろんな話をした。語るのも好きだが、他人の話を聞くのも上手であった。『勉強なんか、すんな。お前は馬鹿か』という名言を残した人物でもあった(笑)。
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若かりし頃(その2)

2005年05月27日 | 学生時代
下宿での酒盛りで打ち解けた私達は入学式を迎えた。古い資料をめくるとこう書いてある。

「昭和62(1987)年4月8日(水) 広島県立体育館 午前9時15分集合、開式午前10時」

私は真新しい背広を着た。ネクタイのしめ方もマスターできていなかったので、大家さんにやってもらった。 三人はタクシーをひろい、体育館に向かった。入口付近には覆面をしてヘルメットをかぶったおっさん等(中核)が、訳の分からない演説を派手にやっていた。

晴れがましい日にこのような時代遅れの連中がいること自体不愉快で堪らなかった。私達は所定の席に着くため別れた。私の学部は偏差値の低さゆえか最後尾に位置しており、苦笑を禁じ得なかった。
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若かりし頃

2005年05月26日 | 学生時代
悪名高き高校を卒業後、一年半の間、広島市内で生活した。下宿には私を含めて三人いた。私達は理系学部かつ貧乏人ということで、すぐに仲良くなった。現役合格は私だけで、二人はなにかにつけてガキ扱いした。

その下宿で『酒盛りをしよう』と言い出したのは工学部の〝ヤンキー(見た目)〟であった。ビールまではよかったが、彼の買った安いウォッカは大不評であった。酔いが回って『歓楽街へ出かけよう』と今度は総合科学部の〝柔道黒帯〟が提案した。

平和大通りを横断し、初めてネオン街を歩いた時の興奮は忘れられない。客引きに冷やかされて私はおどおどするばかりであった。この様子を見て、浪人組は大笑いしていた。結局、金のない若者は酔いざましに散歩しただけなのだ。写真は現在の薬研堀界隈。

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小林薫

2005年05月24日 | 日記
この俳優の名前はNHKのテレビドラマで覚えた。1987年の1月から3月にかけて「イキのいい奴」という番組があった。受験の最中であるにもかかわらず、全て見た。人情味あふれる寿司屋の親方を小林は好演していた。

好評ゆえに翌年「続イキのいい奴」が作られた。大学生になった私はそれを見たくてたまらなかったが、自分の部屋にテレビはなかった。一度だけ銭湯でちらっと見た記憶がある。

『NHKさん、ぜひDVD化して下さい。』
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大和ミュージアムその2

2005年05月01日 | 
ここのウリは戦艦「大和」の模型(10分の1)であろう。息を飲むような美しさだ。


三階は松本零士氏の世界というコーナーになっている。宇宙戦艦ヤマトとアナライザーの模型に私は見入っていた。ざっと見学して外へ出た。波止場からは母校の実習船が確認できた。
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大和ミュージアムその1

2005年05月01日 | 
広島呉道路を走り、呉に入った。呉駅の近くの駐車場から自由通路を歩いて目的地に到着した。予想したよりは混んでいなかったので入場券を買った。ミュージアムの入口の右手に巨大な主砲(戦艦陸奥)が設置されている。


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