寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

両国橋と国技館(戦前の絵葉書)

2013年01月31日 | 日記
昭和7年(1932)9月発行・主婦之友の附録。私はこの絵葉書を梅田の古書店で200円で購入した。隅田川でボートを漕ぐ男性が印象的である。

兩國橋と國技

 昔はこゝが武藏と下總の國境であつたゝめに、兩國橋の名が附けられたものであります。震災後、現在の瀟酒な橋梁に改築されました。この右手にお茶の水と兩國を結ぶ省線電車の高架線があります。江戸風物の一つとして有名な兩國の川開きは、今でも毎年この附近で行はれます。先方に見える圓屋根は、角力で名高い國技の大鐵傘です。

両国橋西詰、東京都中央区東日本橋2丁目28辺りから両国シティコア(旧国技館跡に出来た)方面を撮影したものと思われる。風景はすっかり変わったが、橋は残っている。

切手を貼るところ

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住民を悩ませる犬猫の問題(その2)

2013年01月31日 | 日記
かつての港近くの工場前に道行く人の微苦笑を誘う傑作看板がある。下等な犬と同格に扱われる黒い動物、正確には畜生以下の人間を皮肉たっぷりに描いている。迷惑な動物への嫌悪感が増し「夏場はやれんな」と思う。道徳教育を疎かにすると景観にまでも悪影響を及ぼすのだ。

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住民を悩ませる犬猫の問題

2013年01月30日 | 日記
郊外を散歩するとこんな看板(警告)をよく目にする。ある町内ではおよそ10m置きに「フンニョウお断り」という直球表示があって思わず笑ってしまった。

犬や野良・放し飼い猫の問題で頭にきている住民の感情は尤もだと思う。私は看板の多い町で犬(稀に猫も)の散歩をする者がどういう行動をとるか早朝に調査した。電信柱の近くでキョロキョロするのは犬ではなく人間の方であった。

反社会的行為に罪の意識はあるが、自分1人くらいならどうってことはないという安易な逃げが見てとれた。袋を持っている飼い主が皆無だったのは大きな驚きである。

何故か誰も指摘しないが、「人情」をやたらと前面に押し出す田舎町の路地裏は汚物だらけだ。それは「民度の低さ(恥部)」と言い換えることができよう。私がこれまで旅した城下町の中で最も掃除が行き届いていたのは島根県松江市である。多くの住民が町を綺麗にすれば汚す者は確実に減っていくという良い見本だと思う。

「能書き」よりもまずは「実践」、そして非常識な人間を捉まえて「注意」することも重要だ。

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浅草公園の絵葉書(大正期)

2013年01月30日 | 日記
浅草十二階と呼ばれた凌雲閣は明治23年(1890)に完成。十二階前(下)の建物が大正6年(1917)に改称した吾妻座(芝居小屋で元浅草国技館)。瓢箪池の畔にはコンクリート建築が建ち並び、凌雲閣は既に過去の遺物になっていた。

左端の建物が万盛館(落語常設館)で大正12年9月1日の関東大震災で凌雲閣とともに崩壊する運命だった。大正9年3月に焼失した吾妻座が写っていることから撮影年代は大正6年以降の数年間と特定できる。

敗戦から暫くして瓢箪池は埋め立てられ現在は楽天地とウインズ浅草になっている。ちなみに万盛館の跡地が浅草ロック座(ストリップ劇場:台東区浅草2-10-12)で、ここから北へ行くと吉原(現役の色街)、すぐ東には有名な居酒屋・鈴芳(すずよし:浅草2-5-1)がある。浅草は時代と共に大きく姿を変えたが、今でも独特の魅力を持つ面白い街だ。

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焼きうどん(だし醤油味)

2013年01月29日 | 家飯
焼きうどんの味付けにソースではなくだしを使うのを見たのは大阪の某店であった。最初は「ほんまにうまいんか」と思ったが、実際に作ってみて好きになった。

豚肉と野菜をサラダ油で炒めて軽く塩・コショウで味をつける。レンジで温めた玉うどん(ゆでうどん)を投入し、だしも加える。汁気を吸わせながら醤油を足して仕上げに胡麻油を少し入れる。

様々な旨味の相乗効果で安いうどんでもそこそこの味になる。胡麻油と醤油の香りが食欲をそそる、素朴でやさしい味わいの食べ物だ。

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適度な距離を保つ

2013年01月29日 | 日記
それが関東の良さである。私は20代の約半分を異国で過ごした。文化の大きな違いに戸惑うことも時々あったが、今から考えれば貴重な経験をしたと思う。

向こうではいくら親しい仲になろうとも土足では入ってはならぬ領域があった。適度に距離をとることが人付き合いのコツであり「暑苦しい」のが苦手な私には合っていた。

生まれてからずっと西日本で暮らす人間はこの大人の対応を「冷たい」と捉えがちだが、「人情」という都合のいい甘えを排した地域が存在することを知るべきである。自分の好みの「押し売り」をしたり、異論を述べる住民を徹底的に「村八分」にする町が衰退するのは当たり前であろう。

どうでもいいような「血統」に拘泥するあまり優秀な人材がドンドン流出するのは実際傾斜地及び僻地が多い。

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辛口いかフライ(セブン&アイ)

2013年01月28日 | 食材
セブン&アイの100円シリーズのおつまみ、魚介加工品の辛口いかフライを試食した。パッケージで謳う「…ほどよい辛さ。サクサクとした衣…」が印象的な商品である。

辛口いかフライ

いかフライで有名なメーカー・なとりのノウハウを活かしつつセブン&アイの目指す味に仕上げたという感じだ。シーズニング(塗し調味料)の配合割合が見事で辛みは後からジワジワと効いてくる。

セブン&アイの製品が広く支持を集めるのはお客の声に真摯に耳を傾けている結果であろう。売れる(≒求められる)物を常に開発し全国のイトーヨーカドーとセブンイレブンで同価格で販売する戦略は当たり続けている。

辛口いかフライの原材料表示

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セロリの有効利用

2013年01月28日 | 食材
香味野菜のセロリは精力剤としても知られるが、茎だけ使って葉は捨てている人が多い。葉はチキンブイヨンをとる際の臭み消しとしていい仕事をする。またさっと茹でて佃煮にしたりチャーハンに入れても綺麗だ。

セロリの強い香りが苦手な人には天ぷら(またはフライ)が最も食べやすいと思う(クセが抜けて甘みが増す)。私は斜め切りにしたセロリを豚肉の薄切りと炒めてクリームシチュー風に仕上げて食べるのが好きだ。

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ひげ根を取ったもやし

2013年01月27日 | 日記
もやしのひげ根を取る作業はかなりの手間である。しかし、美味しいもやし炒めを作るためには重要な工程だ。

ひげ根が残っていると雑味が出て口当たりも悪い。高級料理店がきちんと根を取り除くには意味があるのだ。たかがもやし、されどもやし、である。

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寒い日にはミートソースでエネルギー補給

2013年01月27日 | 家飯
北イタリアではオリーブ油ではなくバターといった動物油をよく使う。寒い地方では体が熱量を必要とするのは理解できる。

私がミートソースを作るのはやはり晩秋から冬にかけてが多い。風がビュービュー吹くに日にはこってりしたものを無性に食べたくなる。

ワインと野菜の旨みを十分に吸ったひき肉にバターとパルメザンチーズが加わると最強だ。濃厚なソースで和えたスパゲッティはスルスルと胃袋に収まっていき頬が自然と緩む。

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国産ショルダーハムの完成度は

2013年01月26日 | 食材
かなりのものである。脂身が少なく旨みの強い豚肩肉を見事に活かしている。分厚くスライスしたハムをつまみにして洋酒を飲む時は幸せな気分になる。高級品はたまに口にするからこそ一層有り難味が湧くのだ。

国産ショルダーハム

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福山市の初雪

2013年01月26日 | 日記
あまりの寒さで午前5時過ぎに目が覚めた。便所に入って窓を開けると暗闇から綿のようなものがゆっくりと舞い落ちていた。1時間ほどで約1cm積もった。福山市の中心部で積雪を観測することは非常に珍しい。私は「今晩も鍋かな」と呟き石油ストーブに火をつけた。

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第2回かきフェスティバル(道の駅・笠岡ベイファーム)

2013年01月25日 | 日記
福山の中心部から笠岡まで約15km。ドライブにはちょうどいい距離で新鮮な魚介を買いに行く人は多い。最近できた道の駅・笠岡ベイファームはレストランのバイキングが人気で市外からも多くの客が集まっている。

この日曜日(1月27日)には「かきフェスティバル」が行われ、殻付きかきをバケツ詰め放題一杯1000円で販売する。道の駅の存続はいかに顧客満足度を上げるかにかかっている。「商品の能書き」よりも重要なのは「価格と品質(味)の兼ね合い」だ。お客に「また来たいな」と思わせるようなイベントを毎月企画している点もよい。

笠岡ベイファームのイベント予定

私は県外の商業施設を訪れる際にはまず長所に注目し、地元に何が足りないか、また欠けているかを調べるようにしている。笠岡ベイファームの取り組みから学び取ることは実に多い。

笠岡ベイファームの住所

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冷蔵庫にあるもので手早く作る炒飯

2013年01月25日 | 家飯
広東人(男性)は冷蔵庫の余り物で手際よく炒飯を作ると横浜中華街の料理人が語るのを見て私は「別に難しく考えることもないんだな」と思うようになった。

料理人が教えた炒飯作りのポイントは次の通り。①豚肉には下味をつけておく(塩・コショウ・酒)。②具材をあらかじめ炒めておいて最後に飯と混ぜ合わせると楽。油の使い過ぎに気をつけて作ればそこそこのレベルにはなる。

今回は醤油+オイスターソースで味を決めたのでソース焼き飯みたいな色合いになった。私の祖母はソース焼き飯が好きだったようで、時々味のぼやけた作品を家族に食べさせていた。懐かしいような恥ずかしいような思い出だ。

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歩兵第四十一聯隊練兵場跡地(三菱電機福山製作所) 

2013年01月24日 | 郷土史
平成20年代の市街地図(ポレスター緑町公園の広告)より兵営・練兵場跡地を拡大してみた。サンピア跡に複合商業施設のココローズ(エブリイ・ユーホー・ミスタードーナツなどがある)がオープンしたのは先に述べた通りだ。

沖野上町の練兵場が戦前深津高地に移転し、その後三菱電機ができた経緯は『風雪に耐えて』に詳しく書かれている。

東深津高地軍用地となる
 昭和十五年当時、東深津町(現在の暁の星学園のあたりの丘陵地)に陸軍作業場があって、陣地が構築され、交通壕が四方にのびていて、周囲に陸軍用地の石柱(一〇センチメートル角)があった。
その作業場を演習用地として大拡張することとなった。東深津町一帯の田五〇、〇〇〇坪、畑七〇、〇〇〇坪合計一二〇、〇〇〇坪(約三九・六ヘクタール)を市が買収し(買収価格三九〇、〇〇〇円)陸軍用地として提供することとなった。
その代り練兵場(現在の三菱電機工場のところ)三九、〇〇〇坪(一二・九ヘクタール)と現金七〇、〇〇〇円を市がもらうこととなり、昭和十五年十一月六日の市議会で全会一致で決定されている。
一二〇、〇〇〇坪の用地買収は大事業であるが、当時は国家のためという意識と軍の命令ということで、だれも異議をさしはさむ者もなく、第一回目の地主の会合で趣旨を説明し、第二回目の会合では買収契約書に調印し即日代金の支払が行われ、いとも簡単に買収が行われている。
市が代替地として軍からもらった練兵場三九、〇〇〇坪は、売却して換金しないと財政的に破たんを来す状況であったが、たまたま、寺田銀助氏(北海道旭川で成功財をなす)の好意により、昭和十六年七月同氏に売却して事なきを得た。
この土地は後三菱電機の用地となり、東深津の陸軍用地は、戦後一部は地主に返還され、一部は住宅団地となっている。
市議会会議録 瀧宮脩市氏談 上田政雄氏談(当時の買収担当者) 

『風雪に耐えて(福山市制六十周年記念誌 昭和五十二年三月三十日発行)』

福山市緑町の三菱電機株式会社福山製作所

さて三菱電機(第三工場・沖野上町・昭和20年当時)の空襲被害はどうだったのだろうか。現場で働いていた女性が克明な証言を残しているので、その一部を掲載しておく。

無惨の死者達(聞き書き)
宇井みや子
当時 三菱電機勤務 二十九才

 あの頃、私は霞町へ住み、三菱第三工場…へ勤務し爆弾投下器のスイッチをつくっていました。父母と私の三人住まいです。
 八月八日の晩、私は警戒警報が鳴るや、父母に瀬戸へ避難するよう告げ、直ちに会社へかけつけました。会社の門をくぐり、壕へ入って出勤の名前をかき、表へ出ると、すぐゴーという爆音が聞こえ、黒い機体のB29が、編隊をくんで、川口方面から次々とやってきました。それは実に見事なもので、私たちは防空壕にも入らず、バケツをもったまましばしみとれているほどでした。
 やがて、どっちを見ても、真黒いなんともいえないものが落ち、それが中間ぐらいでパッと散り、同時に、ヒラヒラと木の葉のようにゆれながら落ちたと思うのもつかの間、焼夷弾がまるで花火のようにシュー、シューとあちこちに投下されました。
 三菱へは、まず表門に三発落ち、たちまち青白い炎をあげたものの、すぐさま、守衛さんが消し止めました。その頃、現場では、担当区域をきめて護りについていましたが、私の担当区域の棟では、友長伍長さんの机の上に、焼夷弾が屋根を突きやぶって落ちました。しかし、何分にも周囲は全部金属類で、燃える物がなく助かったのです。
 間もなく、隣の兵舎が燃えはじめ、豚や、山羊や、鶏などのかな切り声がしきりに聞こえていました。燃える兵舎にはかまわず、高射砲で応戦していたものか青い火・赤い火がピイピイと飛んでいき、確かにあたったように見えるのですが、B29はいぜんとして編隊をくずさずに、来襲した方向へ、ゆうゆうとひきあげていきました。
 やれゝようやくおさまったと思いながら北方を見ると、お城が真赤になって燃え上がっているのです。すぐ、私たちの監督の清瀬中尉に知らせました。天守閣が、お城の姿そのままの格好で、紅蓮の炎につつまれながら、天をもこがすが如く燃え上がり同時に、火の粉が落花の如く舞い降りてくるのです。もう二人とも、ただしばしぼうぜんとみとれているだけでした。やがて、遂にむなしくくずれ落ちるときには、ドォーという轟然たる地響きを感じました。その状況たるや、とうてい、筆舌につくせぬ有様でした。

 …翌日からしばらくの間、瀬戸から通勤しました。その通勤の往復の二~三日の間に、兵営などから工業学校の救護所へ、大八車などで手当を受けにいく人をいろゝみかけました。
 …結局、三菱第一工場(現・天満屋)、三菱第二工場(郵便局、本局付近)及び社宅(紅葉町付近)はまる焼けとなり、工員さんもなくなられた人があるよう聞いていますが、第三工場は無事だったのです。このため、戦後しばらくは、工場の焼け跡の跡片づけと復興に努力しました。なお、第三工場付近には兵舎の訓練場があり、これは、船舶機関砲連隊がいたようです。

『福山空襲の記録(昭和五十年)』

敗戦から既に67年が過ぎ、街の様子は一変したかのように見える。しかし、現存する物だけで街を判断し文化について語るのは危険かつ傲慢である。過去と現在をつなぐ出来事(真の歴史)を独力で丹念に調べ上げることで街の輪郭はよりはっきりする。郷土史研究とは本来(個人的な感情を極力抑えて)現実を直視するものだと私は思う。一部の特定の人間が負の歴史として意図的に隠蔽することを続ければ「福山には何もない」と恥ずかしげもなく語る輩が増えるだけだ。無知・無関心はある意味罪と言える。

福山市緑町の航空写真

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