寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市鞆町後地にある医王寺からの眺め

2011年12月31日 | 
ゼーゼー言いながら石造りの鳥居の下まで来た。中年がやっと辿り着いたという感じである。

医王寺本堂

医王寺御影堂

境内に入り本堂、御影堂を感慨深く眺めてから大きな石碑の前に立つ。

大伴旅人の歌碑

「磯の上に 根這ふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか」

これは大伴旅人(おおとものたびと)が鞆の浦で詠んだ和歌の碑で平成22年(2010)4月27日に除幕式が行われている。旅人の亡き妻への切ない思いは現代人にも通じる。

真言宗・医王寺の歴史は『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』に特に詳しく記されている。中でも梵鐘鋳造の件は感動的だ。

弘法大師建立の医王寺(真言宗・元草戸明王院末)
 薬師如来を本尊にお祀りしてある桃林山医王寺は、天長三年(八二六)に高僧空海(のちに弘法大師というおくり名)が創建されたお寺であったと伝えられている。亨禄年間(一五二八~一五三二)に院主の貞永上人という高僧が不可思議な法力(真言密教)をもって大衆の心身の障害を取りのぞいたので法灯は日に月に栄えたという。
 永禄三年(一五六〇)に不運にも火災にあい、多宝塔、弥勒堂、えん摩堂を併せて一切が灰燼に帰してしまった。その後、慶長年間(一六一〇年ごろ)に芸備の太守、福島正則公の城代、大崎玄蕃の発起により再興されている。
 次いで福山藩主となった水野勝成公の孫、勝貞公は、寛文元年(一六六一)に当る年に、えん摩堂再建の用材を喜捨されて居りその他仁王門については、元禄五年(一六九二)に竣工された記録が残っている。…

 次の文章は、当代宇喜多元洞師にお願いして寄稿いただいたものである。
       宇喜多元洞師の記述(原文のまま)
医王寺梵鐘の由来
 医王寺現存の梵鐘は、明治十二年三月鋳造のものである。寺院の梵鐘としては決して古いものとはいえないが、この医王寺の梵鐘には、次のような美しい逸話がのこされているのである。
 医王寺は今を去る千百五十有余年前、弘法大師の開創せる寺であるが、本尊薬師如来を勧請して以来七百有余年、老若男女の参詣あとを絶たず、信仰の道場として興隆してきたのであった。然るに当時の医王寺には梵鐘がなかったのである。
 たまたま、平村に仁右衛門という漁師がいた。仁右衛門は決して裕福な漁師ではなかった。が、信仰に燃える仁右衛門の心は、いつも美しくそして豊かであった。仁右衛門は医王寺山より鐘の音が聞えざることを淋しく思い、「一生のうち、なんとしても梵鐘を供養したい」との一大誓願をおこした。
 爾来粒々辛苦、ようやくにして財をたくわえ、六〇の賀(還暦)を迎える年、勇躍して上阪、ここにめでたく梵鐘鋳造の発願を達成したのである。時に寛永二〇年正月二三日のことであった。
 時の城主、水野勝成公は、仁右衛門のこの浄行を耳にし、「鞆の津の漁師に、そのような篤信の者があるか、さらば余が鐘楼を建てて進ぜよう」とて、その年の十一月、堂宇を寄進建立されたのであった。現存の鐘楼堂がそれである。

 然るに嘉永年間、海岸防禦のため、藩令により仁右衛門一建立の鐘は、供出の憂き目に遭った。主を失った鐘楼はさびしい沈黙の年月を続けた。
 その後二〇年を経て、当代一七代泰真和尚は、尊き仁右衛門の悲願を継ぐため、檀信徒と協力して梵鐘を鋳造したが、初回のものはヒビ割れて失敗した。
 これを見て泰真和尚は大いに慚愧し、仁右衛門の霊前に一座の回向を捧げ、供出の際もぎとって保存していた乳頭(鐘の上部についている、いぼ状のもの)を集め、清厳道浄の戒名と共に鋳型に鋳込んではじめて成功、ここにめでたく仁右衛門の赤心の鐘が再現されたのである。
 爾来九〇有余年、尊い仁右衛門の鐘は鞆の浦曲に韻々として鳴り響き、今尚その浄行を伝えているのである。思うに医王寺の梵鐘は城主勝成公と一漁師との合作によって建立されたものであるが、あの封建といわれていたきびしい時代、信仰上からは、上下貧富の差別なき民主主義精神が顕現されていたことに、私は一段と意義ふかいものを感ずるのである。
           桃林山医王寺二十一世 元洞 識

医王寺の梵鐘

医王寺境内から鞆港を望む

鐘楼からの眺めはまさに絶景と言ってよい。道越町の老婆が医王寺まで行くようにすすめた訳がよく分かった。私は「婆さん、やっぱりこの美しい景観は維持せにゃーいけんわ。一度壊したら二度と同じ状態には戻らんのだから…」と口ずさみ彼女に深く感謝したのであった。

鐘楼(左)と愛宕大権現(右)


後書き
これで「鞆の浦旅行記・第一部」は完結である。道越町、西町で計6人に架橋問題について話を聞くことができた。賛成派は私の立場を察してかあまり多くを語らなかったが、鞆の町が好きだということは伝わってきた。願わくば賛成派と反対派が自由に意見を言い合えるような雰囲気を作ってもらいたい。鞆の住民は気さくな人が多かったので実りある旅となった。この場を借りて厚く御礼申し上げる、そして今年1年お付き合いいただいた読者にも。皆さん、よいお年を!

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左党が悦ぶ青ナマコの酢の物

2011年12月31日 | 食材
ナマコのワタ(腸)を抜き塩もみするとブロンズの延べ棒のようになる。これを霜降りして親指大にカット。少し水で薄めた酢にナマコを漬け込む。タッパーに入れて冷蔵で軽く2週間は持つ。

好みの厚さにスライスして大根おろしと合わせポン酢をかけて食べる。コリコリのナマコはまさに正月のアテ。我が家が青ナマコを買い求めるのは安価でたくさん食べられるから。赤と比べて味が格段に落ちるというものでもない。懐と相談して選択すればよいのである(笑)

青ナマコの酢の物

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医王寺参道の途中にある平賀源内生祠(せいし)

2011年12月30日 | 
福山市鞆町後地の民家の間から細い道が山へ向かってのびている。民家の壁に取り付けられた消火器収納ボックスには江元西町内会と書かれてあった。上り坂は相当急である。私は東広島市の「心臓破りの坂」に匹敵すると思った。

江元西町内会の消火器収納ボックス

平賀源内生祠(石塔と卒塔婆)

しばらくして畑の近くに平賀源内生祠という標識が出ていた。矢印の方向に行くと石塔と卒塔婆があった。

平賀源内生祠の説明文


平賀源内の生祠(県史跡)
 宝暦年間(一七五〇年代)に天下の奇人として知られ、また江戸の人気者であった平賀源内は、一時、鞆江の浦の医王寺参道の旧家、溝川家に逼留して瓦や陶器を焼き、源内焼き‥‥の名と、源内生祀なるものを残して飄然と去ったという……その二百年前後の物語りを知っている人々は、鞆町でも年と共に消えていくようである。
 昭和の初期に、源内の生祠発見!!の情報(発見者=故桑田貞次郎氏)により沼名前神社宮司、金原利通氏が備後史談に取上げ、当時、生祠研究の権威者、加藤玄智博士の証言に依って鞆町役場は主務省に申請し、史蹟名勝地の指定を受ける為に奔走した。ついに、昭和十五年二月に「県史跡」に指定されたのであった。

 鞆に近い香川県志度浦で生まれた平賀源内は、高松藩の足軽、白石茂左衛門の三男に生まれたため、才気煥発の彼は足軽では我慢できず、ついに武家奉公に見切りをつけ、自由の天地を江戸に求めた。
 そして有能な彼は、本草学者として有名になり、狂文戯作者として世に知られ、また本邦電気学の始祖と言われ、他に陶器の製法、源内焼きを編み出すほどの活躍ぶり。それら学識は江戸から長崎に留学して欧洲文明をいち早く身につけたことから生まれたのであった。
 昭和初期のこと、源内生祠のある土地を、溝川家が大阪に転宅するために酒井郵便局長の所有となり、ついで株本岩夫書店の所有となった。………医王寺下の山畠の一隅に在る源内生祠は、夏草の茂る中に埋もれることもあるが、時に奇特な人の奉仕により概ねその周辺は清掃されている。
 源内の指導に依り、約百五十年に亘り代々、栄えたと伝えられる溝川家も、大正の末期に大阪方面に転出された…

 (註)源内生祠=丸い石を三つ積み重ね「地神、荒神、平賀源内神」‥‥と溝川家の人々に唱えさせたという。
 その左側の石標の正面は「南無妙法蓮華経平賀源内神儀」とあり、右側に「宝暦一四年甲申三月七日」左側に慶応四戌辰七月二十八日溝川栄助同茂助同利三郎立之」と刻んである。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

医王寺参道途中にある平賀源内生祠(見下ろした状態)

医王寺仁王門

平賀源内生祠を後にして仁王門前に到着した時には完全に息が上がっていた。医王寺の山号は桃林山である。奉納された大わらじを見て門を潜る。

医王寺仁王門に吊り下げられた大わらじ

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鞆の浦の西町浜通りから江之浦町へ向かう

2011年12月30日 | 
保命酒販売の岡本亀太郎本店を後にし再び西町浜通りに出た。江之浦町会館南の(元蕪屋)胡神社に寄る。

胡神社の注連柱(裏面)

胡神社の石碑(寄付者として大阪市の森下博氏の名がある)

注連柱には森下家一族、大きな石碑には森下博の名が刻まれていた(寄進者)。胡神社前、すなわち東側の敷地(県警待機宿舎や鞆交番)は明治末まで海であった。昭和2年の沼隈郡鞆町の地図からもその痕跡は伺える。

昭和2年の沼隈郡鞆町地図(あき書房による復刻)より西町周辺を拡大

鞆振興事業団が作成した鞆町観光地図より西町周辺を拡大


〔西町〕
慶長年中大崎玄蕃市區改正の時、治所の西に當れるより名く商家最も多し。
〔江ノ浦町〕
鞆の發地である。

『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』

◎渡守
 西町の中にある。もともと渡守大明神はここに祀られてあったが、慶長の町割の時に麻の谷の巽たつみ(南東)の方角に遷宮した。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

渡守神社御旅所

大井戸

私は江ノ浦町から西へ歩いた。渡守神社御旅所の対面辺りに大きな六角形の井戸があった。江之浦バス停まで来たところで原付のオッサンに追い抜かれた。

江之浦町バス停付近

この辺りが昔からの離合箇所である。おっさんのヘルメットの先に小さな石柱が建っているのが見えた。近づいて確認すると案内板が貼り付けてある。ここからが医王寺の参道(明円寺を通るルートとは別)だった。

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福山市三之丸町のキャスパ閉店セール

2011年12月30日 | 日記
福山駅に向かう途中にキャスパの前を通ったら東側の入口付近に閉店セールの看板が出ていた。イズミ時代から慣れ親しんできた者にとってこの商業施設が無くなるのはやはり寂しい。昭和50年代駅前にはデパートがたくさんあり人通りも多かったことをふと思い出した。昭和という時代は益々遠くなる。

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江戸情緒溢れる鞆の浦

2011年12月29日 | 
美容室隣の胡神社の角を曲がり辻に出た。民芸茶処・深津屋は約170年前に建てられたもの。忍び返し(盗人対策)を鞆町で見られるとは…。以前これと同様のものを音戸町の旧遊廓街周辺で見たことがあった。

民芸茶処・深津屋

太田家住宅本邸

太田家住宅本邸と別邸・朝宗亭(国の重要文化財)は人気観光スポットである。これらの建物周辺は江戸情緒が溢れている。

太田家住宅別邸・朝宗亭

鞆のシンボル・常夜燈と雁木

雁木まで下りて鞆のシンボル・常夜燈を撮影。いろは丸展示館はかつての浜蔵を再利用したものである。

いろは丸展示館

岡本家住宅

横長の岡本家住宅の前を通って西へ進み四つ角に出る道に入る。少し北上した所に保命酒を販売する岡本亀太郎本店はあった。

岡本亀太郎本店

保命酒粕入りアイスキャンディー(広島県府中市の東屋製)

喉が渇いた私は保命酒手作りアイスキャンディーを買い求め店先の縁台に座った。昔風の冷菓は体のほてりを取ってくれた。私の目じりは余程下がっていたのだろう。次のお客が同じ物を注文していた。

保命酒 約千七百年の昔、功皇后時代に始る。保命酒の起源について次のやうな傳説がある。當時吉備南海邊に、土豪、來熊國造きくまくにつこの祖來破屋子彦男おやこはやしひこをといういふものがあつた。一種の銘酒をつくつたのを、たまゝ功皇后が、筑紫へ下向の途次、この浦へ寄泊されたので献上した。翌春凱旋の時再び奉献したところ、三降酒みつのからもりざけと命名され、彦男に大酒主おおさかぬしの姓を賜はつた。
 三降酒は、俗にトモノリ酒ともいつてゐたが、保命延壽の効かあるとのことで、何時の頃からか保命酒と呼ぶやうになつた。
 降つて徳川時代になつて、延寳元年に幕府が酒造株の制度を設けた。この時釀造權は生玉いくたま堂中村氏の手に入り、稀代の珍品として聲價高まり、家門が非常に榮えた。
 中村氏の家傳によれば、萬治年間、大阪生國魂いくくにたま社の側から鞆に移つて、保命酒を創めてつくつた。故に屋號を生玉堂といふのだと、果して何れか。
 保命酒は、地黄劑じわうざいを主にし、他に芳香健胃の藥種十六味を調和して居るので、十六味地黄保命酒と稱し來つたものである。
 舊幕時代は、國産として備後表と共に一種の官營となり、山藩からは年々朝廷や幕府への献上品に用ひられ、江戸の藩邸では、藩吏が正服をつけて公賣し、大名や旗本等の贈答品として廣く賞用されたものである。尚月卿雲客詩人墨客等非常に之を珍重し、その容器の備前燒も亦鍾愛された。
 現今、販路が非常に廣く、海外へも盛んに輸出せられる。

『備後名所鞆津と阿伏兎 / 葦陽資料叢書第三集(大正十三年)』

岡本亀太郎本店前の幟

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年末の大掃除無事終了

2011年12月29日 | 日記
当初の計画通り大掃除は29日で終わった。今年特に力を入れたのが拭き掃除である。蛍光灯を交換した際にカバー類の汚れを家庭用洗剤で落としたところ本当に明るくなった(笑)

部屋の汚れを取るということは己の心の垢を落とすに等しい。片付け・掃除は生活する上での基本だ。基本をマスターしない人間は永久に応用編には移れないのである。

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頼山陽が命名した対仙酔楼を見て鯛亭で昼食を取る 

2011年12月28日 | 
県道47号線を海岸通りに向かって進む。精肉店が見えたところで右の細い路地に入る。この道はババ小路(八籠屋小路)と呼ばれ「関町大坂屋と八籠屋との間の小路(今の水道局裏の小路)…」(『鞆の地名あれこれ』より)のことを指す。

江戸時代末期の豪商・大坂屋の土蔵

ババ小路の途中に鞆の豪商・大坂屋の土蔵があった。私はどん突きを右折して新しい茶店の前に出た。

大坂屋の対仙酔楼

対仙酔楼1階入口付近に建つ「頼山陽先生 日本外史起稿史跡」の石碑

茶店の隣が大坂屋(明治になって没落)の対仙酔楼(長屋門)である。ちなみに楼の命名者は頼山陽で門の入口付近に「日本外史起稿史跡」という石碑が建つ。江戸時代は石垣までが陸で、現在の駐車場や海岸通りは海だった。

駐車場(江戸時代は海)から対仙酔楼と茶店を望む

鞆の浦魚処 鯛亭

鞆シーサイドホテル近くの鯛亭で昼食を取ることにした。客のほとんどが鯛めしデラックスか鞆の浦定食を頼んでいたが、私はあえて刺身定食にした。もちろん瓶ビールを飲むからだ。

この日の造りはスズキ、太刀魚などの厚引きで弾力に富んでいた。気の利いたアテがつきビールが美味しかった。主人は黙々と仕事をする人で好感が持てた。軽く飲んでも2千円で釣りが返って来る。ここの煮物はやや甘めである。

鞆の浦 魚処 鯛亭(龍馬ゆかりの地 鞆の浦食べ歩きグルメマップより)

力石が奉納された住吉神社

仲仕が力比べをしたという大きな石

休憩を挟んで住吉神社から観光を再開。仲仕が楽々と持ち上げたという力石、自分にはとても無理だろう。怪力の男たちが船荷を運んだ辺りを眺めながら松崎しげる氏がドラマの撮影で世話になったという美容室の方へ歩いて行った。

鞆の雁木(船着場の石段)

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徳川家康の苦言によって廃城となった鞆城

2011年12月28日 | 
広島県道47号鞆松永線(鞆のメインストリート)の四つ角と呼ばれる地点に建つアール・デコ風天ぷら建築、喫茶「友光軒」が観光客の注目を集めていた。この隣のスペースは元銭湯である。

移築された鞆城三の丸の石垣(徳永医院前)

徳永病院前の説明板

私は東へ歩いて行き徳永医院前の説明板(平成6年2月福山市教育委員会建之)に近寄った。この鞆城三の丸の石垣は現在地より約23m南にあったとのことである。

広島県道47号鞆松永線に新たに設けられた離合場所(食事処おてび周辺)

ちょうどいい機会なので鞆町の渋滞の原因になっている県道47号について触れておく。画像は徳永医院前辺りから東の方角を望んだもので白い車の左手(駐車スペース)が新たに造られた離合場所だ。大型車がギリギリ通行できるような狭い道のため、決められた場所で対向車が通過するまで待つのがこの地の長年のルールであり今なお大問題として残っているのだ。

真言宗・地蔵院(鞆城二の丸跡)

医院の対面(北)を見上げると地蔵院で、こちらには二の丸の石垣が残っている。山門から墓地を通って鞆城山公園に出た。

鞆城山公園

鞆城跡はそのすぐ東だった。福島正則が拡張した城が家康の逆鱗に触れ廃された後は町奉行所が置かれた。鞆の浦民俗資料館の前を通過し坂道を下り47号線に戻った。

鞆城跡

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滋味あふれる里芋

2011年12月28日 | 食材
秋から特においしくなる里芋。炊いてよし、蒸してよし、揚げてよしと料理をする者にとってこれほどありがたい食材はない。

ウチの御節料理の煮しめに里芋は絶対に入る。元旦にはねっとり滋味あふれる里芋をつまみ赤ら顔で盃を重ねていることだろう。

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福山市鞆町後地の寺を巡る(その3)

2011年12月27日 | 
鞆小学校の坂から少し南西に下った所に狭い坂がある。水路伝いに山裾まで上り無言で北の方角に目をやった。

断頭ケ原(推定)

現在石垣の他には何もないが、どことなく寂しい雰囲気が漂っている。昔この辺りは御仕置場だったようだ。

断頭ケ原
 処刑場跡と云う。江の浦町普門寺(公方谷北)あたりをいう。即ち南禅坊の北,小学校の坂あたり一帯と思う。何時の頃かわからない。

『鞆の地名あれこれ』

鞆の浦振興事業団が作成した観光地図より寺町周辺を拡大

浄土真宗・南禅坊の鐘楼門

朝鮮通信使の宿泊所になった浄土真宗・南禅坊。一風変わった二階建ての鐘楼門を見て私の心は漸く落ち着いた。ここから歩くスピードを上げた。

浄土宗・阿弥陀寺

キリシタンとの関係が深い浄土宗・阿弥陀寺から真言宗・医王寺へ向かうのが普通のコースであるが、「昼飯を食べてからにしよう」と考えが変わり伝道掲示板の文言をかみ締めながら町屋が立ち並ぶ鞆のメインストリートへ急いだ。

「掃けば散り 払えば またも 塵つもる 人の心と 庭の落葉も」(阿弥陀寺の伝道掲示板)

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師走の福山城公園 

2011年12月27日 | 日記
これほど寒い12月は久しぶりのような気がする。手袋をはめていても指の感覚がなくなるほどだ。早朝の福山城公園周辺は流石に人が少なかった。

福山城の伏見櫓

辛うじて焼失を免れた伏見櫓を見上げ公園に向かう。鯉のいる小さな池には薄氷が張っていた。身軽になった木々とは対照的に散歩する人は重装備だ。今年も残すところ5日となった。家の掃除の進捗状況はまずまずといったところ。29日で一気に片付けるつもりだ。

福山城公園

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福山市鞆町後地の寺を巡る(その2)

2011年12月26日 | 
鞆の浦振興事業団が作成した地図では法宣寺を「治病除災の神として武将・加藤清正の像が祀られている / 日蓮宗」と簡単に紹介している。「清正となぜ関係があるのだろうか」と疑問に思った方も多いだろうから『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』の詳細な記述を引用させてもらおう。

 お祀りしてある本尊は釈迦牟尼仏である。延文三年(一三五八)に大覚大僧正が創建した寺と言われる。大覚大僧正は、京都の妙願寺の開山で、この寺はその末寺となっている。北朝の後光巌院の綸命(天皇の命令)により三万部の法華経を読誦し、なお四海に普く法華経を布教する旨を蒙ったので、先ず布教の地を三備(備前・備中・備後)に求めようと、延文三年の春に鞆に上陸したのであった。
 鞆の地で現在地をえらんで、貴賎にかかわらず広く大衆を集めて説法し、かたわら天下の安穏を祈った。当時は西日本の法華弘通では最初の道場であったので大法華堂と称えていた。それが天文年間(一五三二 一五五四)に惜しくも火災で消失した。
 寛永の末(一六四三年ごろ)、第一七代に当る人、日宥律師が中興されたのであった。当寺について記録に価するものが三つある。その一つは寛政六年(一七九四)に刻んだ門前の大法華堂の石碑で裏の銘には寺歴の概要を…刻んでいる。
 今一つは境内の一隅に寺には全たく縁故のない清正堂が祀られている。この堂内には加藤清正の自作と言われる木像が安置されてある。
 もと熊本城内にあったが、加藤家没落後に江戸の富士の山後殿に移され、たまたま明治の始め、三条公爵の息、上田御前といわれる人が鞆に流寓して居たころ、斡旋して鞆に運こび当寺に収めた。
 最後の一つは当時の誇る大覚大僧正手植えの松である。樹齢六二〇年以上と言われる大松は「天蓋の松」と名付けられて居り広島県の指定する天然記念物となっている。
 胸高周囲三・九米、樹高五・四米、地上一・六米の位置から二枝に分かれて四方にひろがり樹冠一八〇坪と言われる世にも珍しい松の大木は、鞆を訪れる旅人の目を楽しませている。 文献 沼隈郡誌

天蓋の松(てんがいのまつ)は残念なことに私が大学を卒業した年に枯れたそうである。大松があった場所(大法華堂の手前)にはその歴史を説明するプレートが設置されている。

鞆小学校に続く急な坂道

寺を出て更に南へ向かう。私は鞆小学校へ上がる坂道を一瞥して「この先だな」と呟いた。少し行くと寺町通りから道が枝分かれするところに井戸(手押しポンプ)があり、水神様が祀られていた。こういう物が残っているのが鞆の魅力だ。

鞆町後地の井戸と水神

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福山市鞆町後地の寺を巡る(その1)

2011年12月26日 | 
鞆町後地は寺が密集する地域である。ささやき橋を(西へ)渡った所が鞆で最古の歴史を持つ臨済宗・静観寺で大同元年(806)の建立と伝わる。門前には山中鹿之助の首塚がある。

 …山中鹿之助幸盛は、主家、尼子家再興に一生を捧げ、戦国時代の武士の鑑みとして今も尚、大衆に親しまれている悲運の武将である。その鹿之助は天正六年(一五七八)の七月某日に、備中甲部川(岡山県)の阿井の渡しで、河原の石に腰をかけ渡船を待っていた後から、河村新右衛門という護送の武士に、不意打ちをかけられ、卑怯なり!!と叫んで鹿之助は川の中に飛び込み、刀の柄に手をかけ、ハツタ!!と睨んだ。河村ははその猛威にうたれ岸から辷り落ちた。その隙に福間彦右衛門が後からムンヅと組みついた。
 鹿之助は少しも撓まず、福間の上帯を取って河の中へ投げ込んだ。しかし不意を衝く五、六人の刀槍の襲撃のため傷つきついに首を刎ねられてしまった。これが驍将(勇将)山中鹿之助の最期の場面であった。
 鹿之助の首は首桶に塩漬にされ、安国寺恵瓊が警護の一団を宰領(とりしまる)して将軍足利義昭の流寓るぐう(京都から逃げた仮住居)の館、鞆の仮公所に持参し、毛利輝元、隆景を加えた三人の検視に供えたのであった。
 毛利家に久しく敵対した尼子家の忠臣、山中鹿之助の首はかくして鞆の路傍に梟されること三ケ月、心ある者がそれを気の毒がり、毛利家に願出て路傍に埋め、一個の墓標を立てた。それが今日建ててある自然石であるといわれる。

『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』

臨済宗・静観寺門前にある山中鹿之助の首塚

私は墓に手を合わせて通称:寺町通りを南へ進んだ。そして右手に大法華堂の石柱を見つけ日蓮宗・法宣寺の境内に入った。

日蓮宗・法宣寺

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我が家の関東煮(後編)

2011年12月26日 | 食材
下ゆでした牛肺臓の串をまず糖液で10分煮る(弱火)。煮汁の目安は串がひたひたになる状態、落とし蓋を使うと効率が良い。続いて醤油を加えて30分炊き火を止める。このまま冷まして肉に味を浸透させる。シンプルなレシピの関東煮(あっさり味)は日本酒が合う。

肺はフワと言われるようにモチモチの食感で独特の旨味がある。大阪市西成区萩之茶屋の「ホルモンうどん」にはフワがたっぷりと入るし、広島市西区名物の「でんがく」も同様である。安価で美味しくボリュームが出るため昔から使われているものと思われる。

煮汁のレシピ(串10本に対して)
水:5カップ
日本酒:1カップ
砂糖:大さじ3
薄口醤油:大さじ2(後添)
濃口醤油:大さじ2(後添)

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