ゼーゼー言いながら石造りの鳥居の下まで来た。中年がやっと辿り着いたという感じである。
境内に入り本堂、御影堂を感慨深く眺めてから大きな石碑の前に立つ。
「磯の上に 根這ふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか」
これは大伴旅人(おおとものたびと)が鞆の浦で詠んだ和歌の碑で平成22年(2010)4月27日に除幕式が行われている。旅人の亡き妻への切ない思いは現代人にも通じる。
真言宗・医王寺の歴史は『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』に特に詳しく記されている。中でも梵鐘鋳造の件は感動的だ。
弘法大師建立の医王寺(真言宗・元草戸明王院末)
薬師如来を本尊にお祀りしてある桃林山医王寺は、天長三年(八二六)に高僧空海(のちに弘法大師というおくり名)が創建されたお寺であったと伝えられている。亨禄年間(一五二八~一五三二)に院主の貞永上人という高僧が不可思議な法力(真言密教)をもって大衆の心身の障害を取りのぞいたので法灯は日に月に栄えたという。
永禄三年(一五六〇)に不運にも火災にあい、多宝塔、弥勒堂、えん摩堂を併せて一切が灰燼に帰してしまった。その後、慶長年間(一六一〇年ごろ)に芸備の太守、福島正則公の城代、大崎玄蕃の発起により再興されている。
次いで福山藩主となった水野勝成公の孫、勝貞公は、寛文元年(一六六一)に当る年に、えん摩堂再建の用材を喜捨されて居りその他仁王門については、元禄五年(一六九二)に竣工された記録が残っている。…
次の文章は、当代宇喜多元洞師にお願いして寄稿いただいたものである。
宇喜多元洞師の記述(原文のまま)
医王寺梵鐘の由来
医王寺現存の梵鐘は、明治十二年三月鋳造のものである。寺院の梵鐘としては決して古いものとはいえないが、この医王寺の梵鐘には、次のような美しい逸話がのこされているのである。
医王寺は今を去る千百五十有余年前、弘法大師の開創せる寺であるが、本尊薬師如来を勧請して以来七百有余年、老若男女の参詣あとを絶たず、信仰の道場として興隆してきたのであった。然るに当時の医王寺には梵鐘がなかったのである。
たまたま、平村に仁右衛門という漁師がいた。仁右衛門は決して裕福な漁師ではなかった。が、信仰に燃える仁右衛門の心は、いつも美しくそして豊かであった。仁右衛門は医王寺山より鐘の音が聞えざることを淋しく思い、「一生のうち、なんとしても梵鐘を供養したい」との一大誓願をおこした。
爾来粒々辛苦、ようやくにして財をたくわえ、六〇の賀(還暦)を迎える年、勇躍して上阪、ここにめでたく梵鐘鋳造の発願を達成したのである。時に寛永二〇年正月二三日のことであった。
時の城主、水野勝成公は、仁右衛門のこの浄行を耳にし、「鞆の津の漁師に、そのような篤信の者があるか、さらば余が鐘楼を建てて進ぜよう」とて、その年の十一月、堂宇を寄進建立されたのであった。現存の鐘楼堂がそれである。
然るに嘉永年間、海岸防禦のため、藩令により仁右衛門一建立の鐘は、供出の憂き目に遭った。主を失った鐘楼はさびしい沈黙の年月を続けた。
その後二〇年を経て、当代一七代泰真和尚は、尊き仁右衛門の悲願を継ぐため、檀信徒と協力して梵鐘を鋳造したが、初回のものはヒビ割れて失敗した。
これを見て泰真和尚は大いに慚愧し、仁右衛門の霊前に一座の回向を捧げ、供出の際もぎとって保存していた乳頭(鐘の上部についている、いぼ状のもの)を集め、清厳道浄の戒名と共に鋳型に鋳込んではじめて成功、ここにめでたく仁右衛門の赤心の鐘が再現されたのである。
爾来九〇有余年、尊い仁右衛門の鐘は鞆の浦曲に韻々として鳴り響き、今尚その浄行を伝えているのである。思うに医王寺の梵鐘は城主勝成公と一漁師との合作によって建立されたものであるが、あの封建といわれていたきびしい時代、信仰上からは、上下貧富の差別なき民主主義精神が顕現されていたことに、私は一段と意義ふかいものを感ずるのである。
桃林山医王寺二十一世 元洞 識
鐘楼からの眺めはまさに絶景と言ってよい。道越町の老婆が医王寺まで行くようにすすめた訳がよく分かった。私は「婆さん、やっぱりこの美しい景観は維持せにゃーいけんわ。一度壊したら二度と同じ状態には戻らんのだから…」と口ずさみ彼女に深く感謝したのであった。
後書き
これで「鞆の浦旅行記・第一部」は完結である。道越町、西町で計6人に架橋問題について話を聞くことができた。賛成派は私の立場を察してかあまり多くを語らなかったが、鞆の町が好きだということは伝わってきた。願わくば賛成派と反対派が自由に意見を言い合えるような雰囲気を作ってもらいたい。鞆の住民は気さくな人が多かったので実りある旅となった。この場を借りて厚く御礼申し上げる、そして今年1年お付き合いいただいた読者にも。皆さん、よいお年を!
境内に入り本堂、御影堂を感慨深く眺めてから大きな石碑の前に立つ。
「磯の上に 根這ふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか」
これは大伴旅人(おおとものたびと)が鞆の浦で詠んだ和歌の碑で平成22年(2010)4月27日に除幕式が行われている。旅人の亡き妻への切ない思いは現代人にも通じる。
真言宗・医王寺の歴史は『鞆今昔物語 / 表精(昭和四九年)』に特に詳しく記されている。中でも梵鐘鋳造の件は感動的だ。
弘法大師建立の医王寺(真言宗・元草戸明王院末)
薬師如来を本尊にお祀りしてある桃林山医王寺は、天長三年(八二六)に高僧空海(のちに弘法大師というおくり名)が創建されたお寺であったと伝えられている。亨禄年間(一五二八~一五三二)に院主の貞永上人という高僧が不可思議な法力(真言密教)をもって大衆の心身の障害を取りのぞいたので法灯は日に月に栄えたという。
永禄三年(一五六〇)に不運にも火災にあい、多宝塔、弥勒堂、えん摩堂を併せて一切が灰燼に帰してしまった。その後、慶長年間(一六一〇年ごろ)に芸備の太守、福島正則公の城代、大崎玄蕃の発起により再興されている。
次いで福山藩主となった水野勝成公の孫、勝貞公は、寛文元年(一六六一)に当る年に、えん摩堂再建の用材を喜捨されて居りその他仁王門については、元禄五年(一六九二)に竣工された記録が残っている。…
次の文章は、当代宇喜多元洞師にお願いして寄稿いただいたものである。
宇喜多元洞師の記述(原文のまま)
医王寺梵鐘の由来
医王寺現存の梵鐘は、明治十二年三月鋳造のものである。寺院の梵鐘としては決して古いものとはいえないが、この医王寺の梵鐘には、次のような美しい逸話がのこされているのである。
医王寺は今を去る千百五十有余年前、弘法大師の開創せる寺であるが、本尊薬師如来を勧請して以来七百有余年、老若男女の参詣あとを絶たず、信仰の道場として興隆してきたのであった。然るに当時の医王寺には梵鐘がなかったのである。
たまたま、平村に仁右衛門という漁師がいた。仁右衛門は決して裕福な漁師ではなかった。が、信仰に燃える仁右衛門の心は、いつも美しくそして豊かであった。仁右衛門は医王寺山より鐘の音が聞えざることを淋しく思い、「一生のうち、なんとしても梵鐘を供養したい」との一大誓願をおこした。
爾来粒々辛苦、ようやくにして財をたくわえ、六〇の賀(還暦)を迎える年、勇躍して上阪、ここにめでたく梵鐘鋳造の発願を達成したのである。時に寛永二〇年正月二三日のことであった。
時の城主、水野勝成公は、仁右衛門のこの浄行を耳にし、「鞆の津の漁師に、そのような篤信の者があるか、さらば余が鐘楼を建てて進ぜよう」とて、その年の十一月、堂宇を寄進建立されたのであった。現存の鐘楼堂がそれである。
然るに嘉永年間、海岸防禦のため、藩令により仁右衛門一建立の鐘は、供出の憂き目に遭った。主を失った鐘楼はさびしい沈黙の年月を続けた。
その後二〇年を経て、当代一七代泰真和尚は、尊き仁右衛門の悲願を継ぐため、檀信徒と協力して梵鐘を鋳造したが、初回のものはヒビ割れて失敗した。
これを見て泰真和尚は大いに慚愧し、仁右衛門の霊前に一座の回向を捧げ、供出の際もぎとって保存していた乳頭(鐘の上部についている、いぼ状のもの)を集め、清厳道浄の戒名と共に鋳型に鋳込んではじめて成功、ここにめでたく仁右衛門の赤心の鐘が再現されたのである。
爾来九〇有余年、尊い仁右衛門の鐘は鞆の浦曲に韻々として鳴り響き、今尚その浄行を伝えているのである。思うに医王寺の梵鐘は城主勝成公と一漁師との合作によって建立されたものであるが、あの封建といわれていたきびしい時代、信仰上からは、上下貧富の差別なき民主主義精神が顕現されていたことに、私は一段と意義ふかいものを感ずるのである。
桃林山医王寺二十一世 元洞 識
鐘楼からの眺めはまさに絶景と言ってよい。道越町の老婆が医王寺まで行くようにすすめた訳がよく分かった。私は「婆さん、やっぱりこの美しい景観は維持せにゃーいけんわ。一度壊したら二度と同じ状態には戻らんのだから…」と口ずさみ彼女に深く感謝したのであった。
後書き
これで「鞆の浦旅行記・第一部」は完結である。道越町、西町で計6人に架橋問題について話を聞くことができた。賛成派は私の立場を察してかあまり多くを語らなかったが、鞆の町が好きだということは伝わってきた。願わくば賛成派と反対派が自由に意見を言い合えるような雰囲気を作ってもらいたい。鞆の住民は気さくな人が多かったので実りある旅となった。この場を借りて厚く御礼申し上げる、そして今年1年お付き合いいただいた読者にも。皆さん、よいお年を!