寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

京都

2004年11月25日 | 日記
私はこの街が嫌いだ。理由は自分でもよく分からないのだが、柔軟性と革新性の無さが気にくわないのかもしれない。ひょっとすると、その昔京都で食った親子丼の不味さ(薄味も度が過ぎると間抜)が引っかかっているのかな(笑)。宝塚出身の大学の同期も今暮らしている古都のことをボロクソに言っていた。先人が作りあげた文化の継承で金を稼ぐところなど、日光と同様で、品がないという見方もできる。京都へはもう行くこともなかろう、見るべきものもないし、懐石など食いたいとも思わん。懐石がどんどん高級化したことに対して、苦言を呈した茶人がいた。私はその人の文章を読んで、日本にもまだ「まともな人」がいると感じた。身分相応という言葉を噛み締めざるを得なかった。
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食文化の違い3

2004年11月24日 | 食材
関東でネギと言えば白ネギを指す。だが、西日本の人間にとっては青ネギが一般的である。うどんの薬味に白ネギが入ることは(まず)ない。冷奴についても同じだ。天カスは関東では揚げ玉という言い方に変わる。大阪などでは素うどん(関東ではかけ)を頼んで、天カスを好きなだけ入れても値段は変わらない。無料の天カスが、関東では揚げ玉として値段を加算される。馬鹿げた話だ。関東の友人がJR大阪駅の立ち食いうどん屋でその事実を知って驚いていた。大阪では女が平気で立ち食いをするし、実際に女性メニューというものが存在する(笑)。
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食文化の違い2

2004年11月23日 | 食材
北関東では薄口醤油が入手困難である。これはショックであった。東京まで買いに行くのもアホらしいので、ヒガシマルのペットボトルを実家から定期的に送ってもらっていた。関東の濃口醤油オンリーで煮物を作ると実にしまりのない味になる。出汁には薄口を使って塩味をつけ、少量の濃口を加えて味に丸みを持たせる。鯛の潮汁を例にとってみよう。昆布出汁に鯛アラの濃い旨味が加わり、天塩で味を決める。薄口は隠し味程度に少し使う(鯛がよければ使わなくてもよい)。これを濃口でやってしまうととんでもないことになろう(笑)。吸い物とドブ汁の違いかな。
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食文化の違い

2004年11月22日 | 食材
私は北関東(転勤)で4年暮らし、食レベルの低さに呆れていた。そば、豚肉、鰻(これはやや泥臭かった)は旨いと思った。それ以外はダメである。海無し県に魚介を求めても仕方がない。片道3時間半かけて常陸那珂港まで魚を買いに行ったものだ。だから茨城県のことは悪く言わない(笑)。アンコウは鮮度の良さで決まる。美味しい箇所は肝と内臓と皮で、身は大したことはないのである。10月の初めのことだったと思う。体長40cmのアンコウを1000円で購入し、オヤジが嫌がるのもかまわず、捌かせた。アンキモは蒸したものをポン酢で食べるのが、一般的であるが、活きがよければ、さっと霜降りにしてポン酢で食うに限る。この時食った肝は最高だったのだろう。カワハギの肝よりもはるかに上品で感動のあまり言葉を失った。この時の旨さを超える肝にはまだ出会っていない。ちなみにフグの肝(条令で食べるのは禁止されている)はあれこれ語られているほど旨くはない。
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一般教育課程その10

2004年11月16日 | 学生時代
保健体育理論は1年の前期に履修している。その試験の出来は酷いものであった。5問の中で答えられそうなのは1つしかなかった。他の設問が授業で触れられたのかも怪しかった。怒りがこみ上げてきた。白紙で答案を出し、退室する手もありだ。しかし高い授業料(半期が15万円)を親に出してもらっており、それはあまりに愚かだと判断した。とりあえず、講義で聴いた内容を適当につなぎ合わせ、答案用紙をうめる空しい努力はした。単位はあきらめていた。10月初めに成績表をもらい、確認すると何と【良】がついていた。『こんな答案にこの評価もなかろう』と思った。その代わりと言ってはなんだが、適応理論と経済学AはD(不可)となっており、少し不安を感じた。このツケは2年の前期まで回ってきた。要領のいい奴は1年で単位を取り、2年前期は体育と語学の時間だけに顔を出していた。私は中央郵便局で夜勤のバイトをしながら、すべてのコマを埋め、留年防止策を取った。そのバイト代で買ったのが、クラプトンの4CDBOXだった。
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一般教育課程その9

2004年11月14日 | 学生時代
忘れられない老教授が一人いる。保健体育理論を講義したNさんだ。もともと医学部進学コースの指定の時間に私が入り込んだのだから難解な内容に文句を言うことはできぬ。この授業を選択したのは同じ学部からは“元締め”だけだった。聴講受付期間に当たる初回の講義で20分遅れて来て、言うのだ。『私の講義は面白くないから止めた方がいいでしょう』と。すみませんの一言もなしにだ。そして20分早く講義を切り上げ、紫色の風呂敷でノート類を包み、教室を出て行った。翌週も開始は20分遅れ、終了は定刻の20分前だった。ゆえに100分の講義が60分に短縮され、これが最後まで続いた。説明もほとんどなしに血流速度の数式などを黒板に書いていき、これに耐えられた学生は少なかったのではないか。老人の言葉に嘘はなく、1時間の講義に(勝手に)したのもある意味理解はできた。そのうち毎週出るのも馬鹿らしくなり、元締めと喫茶部でアイスコーヒーを飲んだりして、時間を潰すようになった。
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一般教育課程その8

2004年11月13日 | 学生時代
下宿には私と総合科学部のMと工学部4類のAの3人が居た。4畳半の部屋で入口の横に小型のプロパンを置き、簡単な料理を作った。大津出身のAは料理はせず、実家でとれた米を一度に2合炊き、秋刀魚の缶詰(88円)をオカズにして平らげていた。その空き缶を重ねて廊下に置き、私達を呆れさせた。缶で作ったビルは15階にもなった。同じものを食っても飽きない人間はいるのだ。学部が違うと一般教養の講義で顔をあわせることはなかったが、同じ教官の講義を別の時間に聴くことはあった。情報通のMは『今日、あのおっさん、抜き打ちでテストをやりやがった。お前、気~つけた方がええぞ』とホカ弁を頬張りながら教えてくれたりした。私は下読みをした上で友人にこの情報を流し、おおいに株を上げた。Mは環境地理学のF氏、一般化学のT氏の下らないギャクについても手厳しい評価をつけていた。その話で笑って、それぞれの教官の講義に出ると、まったく同じネタで喋っている。『あまりにも芸がない』と私は思った。それが現実であった。
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一般教育課程その7

2004年11月12日 | 学生時代
第7・8時限(4時間目)の講義を最後列で聴いてると、肩を叩く者がいる。振りかえると裏美だ。『今日打たんか』『またかよ』マージャンの誘いで退室することもあった。我々が通っていた【三階荘】は大学から近かった。大概は学生会館で晩飯を済ませていくのだが、打ちながら出前を頼むこともあった。お好み焼を食って力をつけ、24時近くまでそこにいた。2週に1度は卓を囲んでいたように思う。
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一般教育課程その6

2004年11月11日 | 学生時代
『一般教育課程ほど無駄なものはない』と言う友達がいた。私はその意見には賛同できなかった。自分には教養が欠如していたから。そもそも一般教育過程は昔の旧制高校にあたるものだ。いまだに付き合っている友はこの時代に遊んでいた連中である。勉強は確かにしていなかった、試験期間に入って、ノートをぺらぺらめくって、いちかばちかで答案を書いたものだ。それでも余程的外れなことを書かなければ単位は出た。『勉強するのはバカの証拠だ』と言い切った奴もいた。私のまわりにはバンカラな人間が多かった。
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一般教育課程その5

2004年11月10日 | 学生時代
第二外国語はドイツ語を選択した。週に2回講義があった。K里さんの時間はよく休講になったし、講義をはやく切り上げたりしたので、学生のウケはよかった。昼飯時の行列を避けられることは非常に有難かった。学生会館食堂でゆっくりランチを食べるのはこの時だけだった。会館食堂はメニューが多かった。カレーライスはここが一番旨かったし、焼肉定食(マトンだが)もあった。晩は18時15分にオーダーストップになった。これが大きなマイナスポイントであったと思う。
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一般教育課程その4

2004年11月09日 | 学生時代
煮死駄教官の英語が面白かったことは前に書いたが、苦痛を伴う英語もあった。これは2年の前期のことだ。Yというハワイの大学を出た教授は毎回アット・ランダムに学生を指名し、訳させた。彼曰く、読みで何回も間違うと×、下手糞な訳でも×にすると。2回続けて×になった段階で単位は不可になると声高らかに宣言し、学生の度肝を抜いた。確かに×になった学生は何人もいた。哀れにも×を2回つけられた男(ウノコウである)もいる。だからYさんが教室に入ってきて、『学生番号○□ #★君』と指名があるまでは、ものすごい緊張感があった。でも、この先生は優しい人であった。ウノコウは単位をもらい、専門に進んだ。理系学部の学生には温情があったということだろう。
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一般教育課程その3

2004年11月08日 | 学生時代
語学は1週間に5回あった。英語が3、ドイツ語が2。それぞれ教官が違った。語学嫌いの人間には地獄であっただろう。〝煮死駄〟のおっつぁんの英語の授業だけは例外で楽しめた。1時間に2名くらいしか当らない、しかも学生番号順である。学生番号の遅い私は下読みの必要がなかった。TIMEの原文からエイズに関する記事を訳していくのだ。その中にはチャタレー夫人の恋人からの露骨な性描写が多く含まれていた。その箇所はことごとく女子学生に訳させた。私は裏美と顔を見合わせて、ニヤニヤしていた。『絶対ワザとやっとるぞ、このおっさん』『間違いない』〝煮死駄〟という助教授(当時)はテニスをしてアキレス腱を切ったことがあるという話をして、学生から冷ややかな笑いをとっていた。彼のギャクにはキレというものがまったく感じられなかった。
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一般教育課程その2

2004年11月07日 | 学生時代
大講義室に冷房はなく、6月後半からは地獄となった。寝るか、退室するしかない。出席をとる先生もいたので、返事を済ませてからタカノ橋商店街のパチンコ屋へ入った。退席者があまりに多いので、その先生は腹癒せに講義終盤にもう一度出欠をとるのだ。私はこの話を他学部の友人から聞いていたので、ひと稼ぎして再び最後列に座り、にやっとしていた。社会学でのマルクス賛美に私はついていけなかった。森戸道路には中核派のケバケバしい立看が置かれてあった。食堂に行く際に否が応でも目に入った。私は呟いた、『ひっきょう時代遅れだ』と。
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一般教育課程

2004年11月06日 | 学生時代
入学して一年半は千田キャンパスで一般教養の講義を受けた。話には聞いていたが、退屈さは高校の授業並であった。そして教室の痛み方は高校以上で呆れるしかなかった。その頃は友達の話の方がはるかに有益であったと思う。経済学のNという教授が「ジャンルは何でもいいから、本を片っ端から読みなさい」としきりに講義の中で説いていた。友達の影響もあり、私は見事に本の魅力にとりつかれた。暇だけは十分にあり、夜から小説を読み始め、気付いたら朝刊が届けられていたということもしばしばあった。本を読むことによって、長い文章が書けるようになった。飛ばし読みの技術を身につけたのは18、19歳のあたりであったと思う。
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竹屋町

2004年11月04日 | 学生時代
下宿から最も近い竹屋町のコンビニ(セブンイレブン)へはスナック菓子と炭酸飲料を買いに行っていた。1987年の冬、コンビニの隣に【タコ道楽】というたこ焼屋ができて、そこへも寄るようになり、体重は増加の一途を辿った。とりわけ旨いということもなかったが、なぜかそれを買い、甘いジュースを飲んだ。その店が翌年も営業していたのかはわからない。今ではレンタルビデオ屋になっている。
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