寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

ツメタガイ

2006年11月30日 | 食材

スーパーではツブニシという名で売られている。アサリなどの二枚貝に穴を開けて酸で肉を溶かして食べる獰猛な貝である。

砂に潜る性質のため臭みが気になる。また砂をかんでいることが多いので、茹でこぼして身を抜き水洗いするのがいいと思う。

水・日本酒・醤油・砂糖を合わせて煮詰めると酒のアテになる。味はタニシに少し似ているが、あまりおいしいものではない。

ツメタガイの甘煮

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ある生き方

2006年11月29日 | 日記
サライ2000年第11号に掲載された大野晋さんのインタビュー(12~16P)を読んで、しきりに首を縦に振った。

-どうしたら日本語は上達しますか-
‥まずものごとをきちんと見る目を養うこと。しっかりと見て、よく理解できたことなら、簡単な言葉で表現できる。推敲というのは、それから後の作業です。だいたいね、分かりにくいことをゴチャゴチャ書くというのは、本人がよく分かっていないんだ‥

-日本人の“ものを見る目”は曖昧ですか-
‥日本人は事実を重んじる意識が弱いと思う。ヨーロッパ人学者の事実に対する執着度たるや、我々日本人学者よりはるかに鋭い‥島国だから外国から侵略される可能性は極めて低いし、その昔は農業をまじめにやっている限り、特別なことをしなくても食っていられた‥みんなと歩調を合わせてトットコトットコ、仲良しクラブをやっていればよかったんだ‥

-気候が国民性を育んだわけですね-
‥デリケートな変化に対応するうち、適応というものを学習した。相手が変わったら自分も変えると。そこには周囲がどうであろうが自分を貫く、なんていう精神はない。それがね、日本人の気質の根本だと僕は思う。事実か否か、本当か嘘か。自分の目で見て検証するという姿勢がないんだ。あんまりキシキシやらずに、みんながいいというなら、いいのかな……という調子だね‥

-日本語が英語に席捲されてしまう?-
‥過去の歴史を振り返ってみても、すぐれた文明を持つ言葉は生き残り、文明の力を失ったほうの言語は優越文化の言語に踏みにじられて消えていく。言葉は、文化の高いほうから低いほうへと流れていくもんなんですよ-

-日本語が生き残る手だてはありますか-
‥日本で発明した技術を、日本語で世界中に広めること。それしかないと思うな。文明的に新しいもの、独自のものを持っていない文化は、より強い文化に巻き込まれる。それは人間も同じです。自分の目を持たない人は、受け入れるばっかりの人間になっちゃう。だからこそ、自分の目で見て、自分で考え、自分の力で事実を追求していく力が必要となる‥

-学問への姿勢と同じですね-
‥自分が確信を持ったものについては譲らない、あきらめない。逆に、もしも自分の研究結果が間違っていたと思ったら、今日にでもすぐ撤回するよ。たとえ、それが何十年かけた研究でも、間違いは絶対にがんばらない‥事実というもの、そいつは絶対に動かすことができない。メンツだとかなんとか、そんなことで粘ったって、しょうがないんだ‥

ドロドロした社会で限りなく灰色に近いものを白と言わされそうになった場面が自分には何度もあった。しかし、黒を白だと言ったことはない。その線引きだけは忘れられなかった。「畜生以下」の人間が増殖しているのは、自分なりの生き方を捨て去った結果なのかもしれない。

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酸っぱくなった白菜キムチの使い道

2006年11月28日 | 家飯

発酵の進んだ白菜キムチは酸味が強くなる。これでピリ辛鍋や豚キムチを作るのが好きだ。我が家の豆腐チゲは本場のものとは大きく異なり、あっさりした味である。

だし(煮干と昆布)で野菜と豆腐と霜降りにした豚肉を煮込む。キムチを加えて醤油・砂糖・日本酒で味つけ。キムチの酸味が独特の旨味に変わる。フーフーと息を吹きかけながら食べると体が心から温まる。

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昔の絵

2006年11月27日 | 日記

休日に物置の整理をした際に古い画板を見つけた。中からは見覚えのある絵が幾つか出てきた。公園の色鮮やかなバラを母と眺めている絵は9歳の時の作品である。拙いが、楽しい雰囲気は感じられる。黄色の帽子に黒い半ズホンは当時の小学生のトレードマークだった。

絵の他にも【まことちゃん】のカードが2枚入っていた。楳図かずお氏の下品なギャク漫画が爆発的な人気を博したのは1976~77年頃だ。私はこれよりも怪奇作品の方を好んで読んでいた。

懐かしのまことちゃんカード

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ブリ大根(後編)

2006年11月26日 | 家飯

◇鍋に霜降りにしたあら、面取りした大根、だし昆布を移してかぶる位の水を加える
◇日本酒と砂糖を少し入れて火にかける
◇沸騰したら昆布を引き上げ、アクを取りながら5分煮る
◇生姜を加え醤油(薄口:濃口=3:1)を落とし10分煮る

私は大根の歯ざわりを残すようにしている。大根を色濃く仕上げたい人やこっくりした味が好きな人は濃口醤油を多く使うとよいだろう。骨のまわりについている肉は味が強い。髄や皮から出たコラーゲンと旨味を吸い込んだ大根と一緒に食べるからあらのくどさを感じずにすむ。

私達の身近には【おいしくても体に悪いもの】がいっぱいある。そんな食べ物は控えて【おいしくて、なおかつ体によいもの】を摂るようにしたいものだ。この点に関してだけは中国人を見習わなければならない。気持ちでは「まだ若い」と思っていても体の方が危険信号を発していることは多いと聞く。体が悲鳴を上げてしまった時には既に手遅れである(笑)。

ブリ大根(織部三角鉢)

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ブリ大根(前編)

2006年11月25日 | 家飯
新鮮なブリのあらを見て「ブリ大根」を作ろうと思った。この料理で一番重要なのは下処理である。あらに強塩をして1時間放置する。

あらに強塩

ここにお湯を回しかけ(霜降り)濁った汁は捨てる。この工程で臭みと脂を抜く。

霜降り処理

あらを冷水で手早く洗って、血のかたまりなどの汚れを取り除き水気を切る。こうすると後でアクを取る手間がかなり省けるし、味もよくなる。煮魚料理には必須のプロセスだ。

下処理が済んだ「あら」

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ポークカツレツ

2006年11月24日 | 家飯

気分転換に肉を焼く。料理の楽しさは無心になれるところだろうか。

◇室温に戻した豚肩ロース肉を筋切りし、厚さ7mm程度にたたきのばす
◇肉に塩とコショウをして10分おく
◇卵液(全卵1個+小麦粉大さじ1+水大さじ1)をつける
◇細かく砕いたパン粉をつけて余分な粉ははたいて落とす、10分馴染ませる
◇フライパンにサラダ油を注ぎ170℃に熱する ※油の量は肉の厚みの半分を目安とする
◇中火弱で3分ずつ片面を揚げ焼きする
◇油をよくきって皿に盛りつける

トンカツほどしつこくないので、今の自分にはこれがいい。細かいパン粉を使うのは衣に油を過剰に吸わせないためである。サクサクの衣の下からまろやかな肉汁があふれ出る。カツレツは家庭で作ってもそれなりの味に仕上がる。

我が家のポークカツレツ

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雰囲気を買う

2006年11月23日 | 日記
何気なく手に取ったちらしにおせちの通信販売が載っていた。二段重が一万円前後と手軽な値段である。

「料亭の細やかな心遣い」
「洗練された技」
「正統派おせち」
「京料理特有の薄味」
「伝統の味を、ご家庭で手軽にご堪能」

その宣伝文句に笑いが止まらなくなった。家庭の味の伝承がなくなり、クリスマスケーキの如く既製品を買う傾向。楽しみ方は人それぞれだ。

私はちらしを丸めてゴミ箱に投げ入れた。

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豊作に泣く農家

2006年11月22日 | 日記
テレビのニュースを見て顔をしかめた。サンマの漁獲規制の次はこれか、と。気温が高かったために、白菜と大根の出荷量が増加。大量廃棄して価格調整を行うとのこと。

罰当たりな行為をせざるを得ない人達の心情を考えるといたたまれなくなった。私達は近い将来大きなしっぺ返しをくらうような気がする。

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ハフハフ言って食べるキムチ雑炊

2006年11月21日 | 家飯

煮干と昆布でだしをとり、この中に荒微塵切りにした野菜と霜降り済みの鶏肉をぶち込み、少々煮込む。冷やご飯とキムチを加えて、塩と薄口醤油で味つけ。ねぎと溶き卵を入れて蒸らす。魚と肉と野菜の旨みを吸った米粒のおいしいこと。キムチの辛味と酸味が舌と胃に心地よい刺激を与える。食べ終わった時には額に汗がにじみ出ていた。

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フグは食いたし、されど懐は寒し

2006年11月20日 | 外食
同僚と寒さのやわらいだ街にくり出し、地魚料理専門店へ。ネタケースにはコモンフグとショウサイフグ、生け簀には小さなトラフグと三種類置いてあった。私は偏屈な料理人に尋ねた。

「やっぱりトラフグが一番うまいのか」
「そうとは一概に言えんわ。大きさもあるから。そこのトラフグなんかはさばいて寝かせると身がやわらかくなり過ぎてダメだ」
「コモンとショウサイは外見がよく似てるけど、どうやって見分けるの」
「しりびれの色が違う。コモンは黄でショウサイは白。コモンの白子を食べるとあの世逝きだ」
「そうなのか…」
「コモンをぶつでいこうか」
「‥‥‥」

聞くだけ聞いてフグは頼まずにスズキの刺身にした。料理人は露骨に嫌な顔をしていた。

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平和記念公園

2006年11月19日 | 日記
‥広島市中区の平和記念公園が国の名勝に指定されることが17日、決まった。‥当時、中島本町や材木町と呼ばれた一帯は昭和初期まで広島随一の繁華街‥〔2006年11月18日中国新聞朝刊〕

広島平和記念資料館

私が両親と初めて広島平和記念資料館を訪れたのは小学校に上がる直前のことだ。開通したばかりの山陽新幹線に乗ってはしゃいでいたが、中に入って言葉を失った。幼い子どもには大変ショッキングな展示内容である。「人間は時に悪魔となる」とその時思った。宮島で鹿と戯れても私の心は沈んだままであった。両親は「物事の上っ面だけを見るんじゃない」ということを暗に教えたかったのかもしれない。

下の絵葉書は大正後期から昭和初期に撮影されたものであろう。かつての猿楽町(さるがくちょう)、細工町(さいくまち)辺りである。木造の旧相生橋にたたずむ少年はその後どのような運命を辿ったのだろうかとふと考えてしまった。

旧相生橋(昭和14年解体)から県立商品陳列所を望む

広島市旧町名について
ヒロシマの記録-細工町地図(中国新聞)

平和記念公園から見た原爆ドーム

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『やぶれかぶれ青春記』小松左京

2006年11月18日 | 書籍

1990年1月5日第1刷発行、勁文社、定価980円(古本で購入)

小松左京さんの自伝的小説。旧制神戸一中二年生から新制京都大学文学部入学までの六年間が舞台となっている。戦時中に教師や上級生や軍事教官から受ける理不尽な暴力に屈することなく、図太くしかも楽しく生きようとする様をリアルにユーモアを交えて描いた傑作である。陰湿ないじめに悩み苦しんでいる今の学生にぜひ読んでもらいたい。

戦後は違法な闇商売に手を出したり、秘密の喫煙所でプカプカやったりと札付きの不良ぶりを発揮する。そして米軍が持ち込んだ民主主義によって、かつての品行方正な生徒がなるべきクラス委員に当選してしまう滑稽さ。

‥暴力を我が身にうけた経験のないやつのほうが、ひどい暴力をふるう-これは、あとあと何回も経験したことだった。‥私たちは、手も足も出ない状態下で、さんざん集団的暴力をふるわれて、暴力をふるわれるということのいやさが骨身にしみてわかっていた。だからこそ、他人にむかって、暴力をふるうにも、他人の身になって、そのいやさ加減がよくわかった。戦後のもっとも大きなよろこびは、とにかく暴力をふるったり、ふるわれたりする必要がなくなった、ということだった‥〔159~160P〕

小松さんは旧制三高入学を「人生最高の日」と記している。皮肉にもその幸せは学制改革によって僅か一年で終わる。

‥ただの一年であったが、青春の中であんなすばらしい時期をもてたということが、その後の陰惨といっていいほどメチャクチャな人生において、どんなにささえになったろう‥〔172P〕

人間は生れ落ちた時から孤独である。この現実をいかに早く受け入れられるかで人生は大きく変わると思う。成長するにしたがって様々な困難が降りかかってくるが、それは自力で解決するしかない。

大多数の教師がポンスケなのはなにも今に始まったことではない。私は高校時代に嫌というほど見てきたし、卑しい人間のする職業とさえ思った。その馬鹿垂れどもと永久に決別した大学入学の日は嬉しくてたまらなかった。

声を大にして言いたい。無限の可能性を自らの手で潰してはならない、絶対に!

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京都その6‥Porta

2006年11月17日 | 
駅前地下街の寿司屋に入った。お品書きを一通り読んで鯖姿寿司にしたが、これがいけなかった。

ごつい鯖寿司に胸がいっぱい

分厚すぎて食いにくい。酢飯の割合が多くて、でき損ないのおむすびみたいだ。筋っぽい尻尾は特にうまかない。洗練された東京のにぎりの方が口に合う。

「もう来ることもなかろう」そう言い残して雑踏に消えた。

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京都その5‥旧制三高のあった場所

2006年11月16日 | 
今出川通から本部構内に入り、赤レンガ造りの土木工学教室本館を一瞥し、法経北館の角を左に曲がった。図書館の前を通って正門を抜け東一条通に出た。

旧第三高等中学校正門

向かいが総合人間学部。ここがかつての旧制第三高等学校である。野球部員が走りこみと柔軟体操を行っていた。明治時代の建造物が残っているのは戦災を受けていない「まち」の強みである。

旧第三高等学校正門

旧第三高等学校門衛所

補足説明:三高の歴史
1886(明治19)年4月 大学分校が第三高等中学校と改称
1889(明治22)年8月 第三高等中学校が大阪から京都の吉田本町へ移転
1894(明治27)年6月 第三高等学校と改称
1894(明治27)年7月 大学予科解散
1894(明治27)年9月 第三高等学校発足
1897(明治30)年4月 大学予科復活
1897(明治30)年6月 京都帝国大学設立
1897(明治30)年9月 校舎、敷地を京都帝大に譲り吉田二本松町へ移転・大学予科実施
1949(昭和24)年4月 新制京都大学に吸収され京都大学第三高等学校と改称
1950(昭和25)年3月 三高解散式

参考文献
三高八十年回顧(関書院)
わが青春旧制高校(ノーベル書房)
資料神陵史-舎密局から三高まで-(神陵史資料研究会)

参考ホームページ
三高私説
旧制学校校舎写真集

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