福山空襲で城の周辺の寺院がすべて焼失したと思っている人が多いらしいが、それは違う。北吉津町1丁目辺りは戦災を免れた地域で観音寺は非常に見所の多い寺である。由緒は『新版福山城 / 福山市文化財協会(2006年)』が詳しい。
観音寺(福山市北吉津町一丁目五‐二三)
艮社の東側にあって、艮神社の別当寺である。福山城築城の時草戸より引く(『福山志料』より)とも、また一説には、深津にあった古い由緒の寺を、城下町形成時代にもとの永徳寺跡地に建立(『水野記』より)とも伝えられている。真言宗で、本尊は観音菩薩。
平成十五年(二〇〇三)の解体修理により、神辺西福寺の築材が発見されている。
本堂・表門ともに広島県重要文化財である。慶安四年(一六五一)建築の棟札を有する本堂は、和様・唐様・天竺様の手法を用いた折衷様式である。表門は、本堂と同時期に建てられたものと見られ、どちらも装飾に桃山建築の遺風がうかがえる。
観音寺仁王門の右手奥に見えるのが妙政寺で現在本堂は平成の大修理工事が行なわれている。施工業者は丸之内の鈴木工務店(シネフク大黒座の解体工事などを手掛けている)である。
妙政寺(福山市北吉津町一丁目六‐七)
中世に存在した永徳寺跡の東端に位置し、両社八幡(現・福山八幡宮)を西に、城背の丘陵一帯に社寺を配した近世城下町の防備をも考慮にいれた一環の立地に存在する。
妙政寺の創建は天正年中(一五七三‐九一)三河国刈屋に於て水野忠重(勝成の父)の家臣上田正勢が菩提寺として建立したが、水野家の福山移封に際し、寛永年中(一六二四‐四二)寺町寂円寺前に引き、後に寛文六年(一六六六)、福山家老上田玄蕃(正勢の孫)が現在の地に在った弘宗寺を桜馬場に移して建立した。
本寺は、日蓮宗で長久山を号す。慶安五年(一六五二)に福山城主水野勝俊の息女万壽が病を得た際、この寺に祈祷を命じ、一代かぎり妙政寺を菩提寺とした。…
本堂前に宮本武蔵ゆかりの石灯籠が移設されていることはあまり知られていない。11月初めの3連休を利用して福山の中心部に遊びに来る人が足を延してみる価値はあると思う。
観音寺(福山市北吉津町一丁目五‐二三)
艮社の東側にあって、艮神社の別当寺である。福山城築城の時草戸より引く(『福山志料』より)とも、また一説には、深津にあった古い由緒の寺を、城下町形成時代にもとの永徳寺跡地に建立(『水野記』より)とも伝えられている。真言宗で、本尊は観音菩薩。
平成十五年(二〇〇三)の解体修理により、神辺西福寺の築材が発見されている。
本堂・表門ともに広島県重要文化財である。慶安四年(一六五一)建築の棟札を有する本堂は、和様・唐様・天竺様の手法を用いた折衷様式である。表門は、本堂と同時期に建てられたものと見られ、どちらも装飾に桃山建築の遺風がうかがえる。
観音寺仁王門の右手奥に見えるのが妙政寺で現在本堂は平成の大修理工事が行なわれている。施工業者は丸之内の鈴木工務店(シネフク大黒座の解体工事などを手掛けている)である。
妙政寺(福山市北吉津町一丁目六‐七)
中世に存在した永徳寺跡の東端に位置し、両社八幡(現・福山八幡宮)を西に、城背の丘陵一帯に社寺を配した近世城下町の防備をも考慮にいれた一環の立地に存在する。
妙政寺の創建は天正年中(一五七三‐九一)三河国刈屋に於て水野忠重(勝成の父)の家臣上田正勢が菩提寺として建立したが、水野家の福山移封に際し、寛永年中(一六二四‐四二)寺町寂円寺前に引き、後に寛文六年(一六六六)、福山家老上田玄蕃(正勢の孫)が現在の地に在った弘宗寺を桜馬場に移して建立した。
本寺は、日蓮宗で長久山を号す。慶安五年(一六五二)に福山城主水野勝俊の息女万壽が病を得た際、この寺に祈祷を命じ、一代かぎり妙政寺を菩提寺とした。…
本堂前に宮本武蔵ゆかりの石灯籠が移設されていることはあまり知られていない。11月初めの3連休を利用して福山の中心部に遊びに来る人が足を延してみる価値はあると思う。