金粹食堂(駅前1丁目7‐4)の角を曲がり北へ向かう。道路右手、西総社公会堂(同7‐8)の背後(東側)の大きな建物が取り壊されていた。
立ち話をしていた地元のお母さん方にビルの名前を尋ねたところ、「天満屋があった所ですよ」と教えてくれた。ハピータウン総社駅前店は昭和48年12月に開店し平成8年2月に営業を終了した。同じ建物内にあった総社国際ホテルと共に長い間放置されていたという話である
私は「閉店が決まった福山市緑町の天満屋ハピータウンも同様になるのかな」と呟き跡地に出来るかもしれぬマンション群を少しだけ想像してみたのである。解体工事は昨年中に終了し現在は更地となっている。
立ち話をしていた地元のお母さん方にビルの名前を尋ねたところ、「天満屋があった所ですよ」と教えてくれた。ハピータウン総社駅前店は昭和48年12月に開店し平成8年2月に営業を終了した。同じ建物内にあった総社国際ホテルと共に長い間放置されていたという話である
私は「閉店が決まった福山市緑町の天満屋ハピータウンも同様になるのかな」と呟き跡地に出来るかもしれぬマンション群を少しだけ想像してみたのである。解体工事は昨年中に終了し現在は更地となっている。
総社1丁目10‐28のお宅の前に建つ「史跡探訪 松山往来筋」の石柱。側面に「是より東へ田町 北へ門田」の刻銘あり。
往来をしばらく西へ進む。私は塀に囲まれた空き地に南無妙法蓮華経のヒゲ題目を見付けた(中央2丁目20‐2の隣、向かいが山陽設計の総社営業所)。脇の石灯籠は明治四十一年製だが、供養塔の方はどう見ても江戸期のものだろう。
住友生命保険相互会社岡山支社新総社支所(駅前1丁目6‐43)前を流れる東川水路。源流は高梁川で数ヶ所の分水ポイントを経て市の中心部へと広がっている。福山市の芦田川同様に総社では高梁川が母なる川なのである。川の水は畑の作物を実らせる他に庶民の文化的生活を維持するためにも重要であった。
往来をしばらく西へ進む。私は塀に囲まれた空き地に南無妙法蓮華経のヒゲ題目を見付けた(中央2丁目20‐2の隣、向かいが山陽設計の総社営業所)。脇の石灯籠は明治四十一年製だが、供養塔の方はどう見ても江戸期のものだろう。
住友生命保険相互会社岡山支社新総社支所(駅前1丁目6‐43)前を流れる東川水路。源流は高梁川で数ヶ所の分水ポイントを経て市の中心部へと広がっている。福山市の芦田川同様に総社では高梁川が母なる川なのである。川の水は畑の作物を実らせる他に庶民の文化的生活を維持するためにも重要であった。
赤血谷から峠に下りた私は市内(旧松永エリア)にもっと強烈な地名が存在することを思い起こした。羽原川上流に「血吹地」という場所を発見した時には背筋が寒くなったものだ。血を含む地名には御仕置場や古戦場の言い伝えが残っている例が非常に多いのである。
北美台から千田町大字薮路にかけての坂道を「薮路大峠」といい、かつては城下から横尾方面に抜ける主要な街道であった。旧村境付近に南無妙法蓮華経のヒゲ題目があり、そこから先は緩やかな下りが続く。「天保十三壬寅正月…」の文字が刻まれた石塔は赤間(現下関市)の人が建立したものである。
坂から平地に変わった先にフェンスで囲まれたにごり池が見える。池のすぐ近くの山裾には2つの石造物が祀られ、傍らに説明板が立つ。仏さんの隣の小さな石(可愛い馬が彫り込まれている)は過酷な荷運び中などに息絶えた馬を供養したものという。
当時斃牛馬の捨て場(草場とか旦那場と称した)は明確に定められており、農民が勝手に処分することは許されなかった。遺骸の回収場所が当地かどうかは不明だが、江戸期の庶民の暮らしぶりや資源リサイクルを理解する上で重要な文化財と言えよう。
北美台から千田町大字薮路にかけての坂道を「薮路大峠」といい、かつては城下から横尾方面に抜ける主要な街道であった。旧村境付近に南無妙法蓮華経のヒゲ題目があり、そこから先は緩やかな下りが続く。「天保十三壬寅正月…」の文字が刻まれた石塔は赤間(現下関市)の人が建立したものである。
坂から平地に変わった先にフェンスで囲まれたにごり池が見える。池のすぐ近くの山裾には2つの石造物が祀られ、傍らに説明板が立つ。仏さんの隣の小さな石(可愛い馬が彫り込まれている)は過酷な荷運び中などに息絶えた馬を供養したものという。
当時斃牛馬の捨て場(草場とか旦那場と称した)は明確に定められており、農民が勝手に処分することは許されなかった。遺骸の回収場所が当地かどうかは不明だが、江戸期の庶民の暮らしぶりや資源リサイクルを理解する上で重要な文化財と言えよう。
木之庄と吉津の村境にあったという石鎚神社の残骸を確認できず諦めかけて帰ろうとした時、偶然私は奇妙な姿をした石仏を見つけた。場所は韜光寺墓地の北端辺り、住所は木之庄町6丁目(北吉津町3丁目との境界近く)と思われる。
片足を上げているのが金剛蔵王権現である。おそらく祠の中にあったもので今でも関係者(土地所有者か?)が祀っているようだ。赤血谷に関する伝聞の真偽は不明だが、藩政時代の御仕置場(斬首・火あぶり・磔・獄門が行われた)の位置を考えると興味深い脚色話ではある。
赤谷という地名がある。ここに妙齢の美女が住んでおり、…近隣の者はその容姿に心を奪われる日々が続いた。ところがその美しさが人の口に上ると、やがて噂となって城中奥深く迄語られることとなった。やがて殿様の耳にも聞え、殿様も娘に思いを寄せるところとなった。募る思いは第二夫人にという願望となり、人を送っての懇願の仕儀となったが、親は悲しみ、娘は嘆き、幸福な結婚を願って、頑強に奥に上がることを拒んだ。拒まれれば尚慕情はいやまし、とうとう慕情は憎悪に変わって「我が意に逆らう者」と、彼女をこの谷間にひき出して斬殺してしまった。赤い鮮血は、しぶきとなって谷を染めた。以後土地の人はこの谷を赤い血に染まった谷、赤血谷と呼ぶようになったという。
赤血谷は年を経るにつれていつのまにか、いまわしい血の字を避けて赤谷と名を変えたらしい。今三津木山と教可堂の丘の中間からRCCのテレビ塔に至る谷あいを「赤谷」と呼んでいる。時代は何時頃のことか、殿様というから江戸期の話かも知れない。…
『いとしき故郷 ‐本庄・木之庄・北吉津‐ / 鎌田一(平成四年)』
露骨な営利活動とは無縁の聡明な郷土史研究家に「黒歴史との絡みを臭わせますなー」と私が話を振ると彼は「推して知るべし」と言ってニヤリとした。そして暫くの間沈黙が続いたのである。
片足を上げているのが金剛蔵王権現である。おそらく祠の中にあったもので今でも関係者(土地所有者か?)が祀っているようだ。赤血谷に関する伝聞の真偽は不明だが、藩政時代の御仕置場(斬首・火あぶり・磔・獄門が行われた)の位置を考えると興味深い脚色話ではある。
赤谷という地名がある。ここに妙齢の美女が住んでおり、…近隣の者はその容姿に心を奪われる日々が続いた。ところがその美しさが人の口に上ると、やがて噂となって城中奥深く迄語られることとなった。やがて殿様の耳にも聞え、殿様も娘に思いを寄せるところとなった。募る思いは第二夫人にという願望となり、人を送っての懇願の仕儀となったが、親は悲しみ、娘は嘆き、幸福な結婚を願って、頑強に奥に上がることを拒んだ。拒まれれば尚慕情はいやまし、とうとう慕情は憎悪に変わって「我が意に逆らう者」と、彼女をこの谷間にひき出して斬殺してしまった。赤い鮮血は、しぶきとなって谷を染めた。以後土地の人はこの谷を赤い血に染まった谷、赤血谷と呼ぶようになったという。
赤血谷は年を経るにつれていつのまにか、いまわしい血の字を避けて赤谷と名を変えたらしい。今三津木山と教可堂の丘の中間からRCCのテレビ塔に至る谷あいを「赤谷」と呼んでいる。時代は何時頃のことか、殿様というから江戸期の話かも知れない。…
『いとしき故郷 ‐本庄・木之庄・北吉津‐ / 鎌田一(平成四年)』
露骨な営利活動とは無縁の聡明な郷土史研究家に「黒歴史との絡みを臭わせますなー」と私が話を振ると彼は「推して知るべし」と言ってニヤリとした。そして暫くの間沈黙が続いたのである。
松山往来の本町筋、現住所:総社1丁目14‐20のお宅の前に「頼山陽来遊の元夷屋跡」を示す石柱が建っている。道の向かい(南)が「肉の三協(同4‐15)」だ。
旧賀陽郡八田部村の豪商元戎屋・亀山徳右衛門道本(号は北翁)は頼山陽と親交があった人物。郷土の偉人・雪舟の碑を宝福寺へ建立することを念願し、師の国学者・藤井高尚(たかなお)に撰文を依頼し、頼山陽に揮毫してもらった。ただし、碑が完成するまでには相当の年月が流れている。
石碑から西へ約50mの地点に白壁の美しい「井上老松園(同14‐26)」がある。「瓊乃柚(たまのゆ)」という小洒落た和菓子で有名な店だ。
菓子屋の隣が総社カルチャーセンター(同14‐1)。この対面に位置する「かめや呉服店(同4‐8)」はモルタル建築と思われる。昭和30年頃の総社商店街絵図ではセンターの場所が総社郵便局建設予定地となっていたが、真相はどうなのだろうか?
旧賀陽郡八田部村の豪商元戎屋・亀山徳右衛門道本(号は北翁)は頼山陽と親交があった人物。郷土の偉人・雪舟の碑を宝福寺へ建立することを念願し、師の国学者・藤井高尚(たかなお)に撰文を依頼し、頼山陽に揮毫してもらった。ただし、碑が完成するまでには相当の年月が流れている。
石碑から西へ約50mの地点に白壁の美しい「井上老松園(同14‐26)」がある。「瓊乃柚(たまのゆ)」という小洒落た和菓子で有名な店だ。
菓子屋の隣が総社カルチャーセンター(同14‐1)。この対面に位置する「かめや呉服店(同4‐8)」はモルタル建築と思われる。昭和30年頃の総社商店街絵図ではセンターの場所が総社郵便局建設予定地となっていたが、真相はどうなのだろうか?
小さな石材店事務所の前(木之庄町6丁目11‐3)を通過し更に下りると墓苑の駐車場がある。駐車場から林の中に入っていく。韜光寺境内から山頂辺りまで墓地が続いているという話は本当だった。
木之庄焼は、赤かっ色の外観が、備前焼によく似ているため、これまで大抵「備前焼」で通用していた。市教委が、福山市木之庄町(旧木之庄と吉津の村境)にある窯跡を、四十五年十二月発掘調査、出土したとっくりの破片を調べたところ、焼き上がりが硬くしまった感じで、陶土に砂粒を少量含み、光沢があるなど備前焼と違った特徴を持っていることがわかったとある。
…ここは村境にあり、境界を示すために、山の立ち木をもってした。山の頂上に今も松の大木が残っており、その下にかつて石鎚神社があったが、いまは残骸を残しているのみである。
『いとしき故郷 ‐本庄・木之庄・北吉津‐ / 鎌田一(平成四年)』
鎌田さんの説明と昭和30年代の住宅地図を頼りに私はしばらく山の中を歩き回った。地図では石鎚神社が北美台の「中国放送(RCC)福山放送局」の下(南)側に位置しているのだ。北美台の区画が完成した頃(※高美台の造成は未着手)までは神社は存在したようである。それから数年後(昭和40年)の地図で既に神社は消えていた。
木之庄焼は、赤かっ色の外観が、備前焼によく似ているため、これまで大抵「備前焼」で通用していた。市教委が、福山市木之庄町(旧木之庄と吉津の村境)にある窯跡を、四十五年十二月発掘調査、出土したとっくりの破片を調べたところ、焼き上がりが硬くしまった感じで、陶土に砂粒を少量含み、光沢があるなど備前焼と違った特徴を持っていることがわかったとある。
…ここは村境にあり、境界を示すために、山の立ち木をもってした。山の頂上に今も松の大木が残っており、その下にかつて石鎚神社があったが、いまは残骸を残しているのみである。
『いとしき故郷 ‐本庄・木之庄・北吉津‐ / 鎌田一(平成四年)』
鎌田さんの説明と昭和30年代の住宅地図を頼りに私はしばらく山の中を歩き回った。地図では石鎚神社が北美台の「中国放送(RCC)福山放送局」の下(南)側に位置しているのだ。北美台の区画が完成した頃(※高美台の造成は未着手)までは神社は存在したようである。それから数年後(昭和40年)の地図で既に神社は消えていた。