奥さんと私は会話を楽しみながら湊明神社まで戻ってきた。「この辺りは横島と言います。横に広がっているように見えることから名がついたようですが、昔は地続きじゃなくて島だったんですね」と奥さんから聞いて「福山市における箕島みたいなものだな」と思った。
旧明神港前の道を南西の方向に進む。道路の左手(海寄りの広場)が昭和に入ってから埋め立てられたものであることを即座に悟った。私の頭には大正十五年五月二十日発行の廣島縣賀茂郡竹原町の地図(あき書房による復刻)がしっかりと入っていたからである。
湊明神社
横島の東端にある。この社の近くに船が停泊したので湊明神と呼ばれ、古くからの鎮守社があり、明暦(1655~1657)年中に厳島の神をこの社に移し塩浜の守護神としたという。江戸期は湊明神社付近の沖が湊で諸国の廻船が集まり、潮によって大船はここで荷あげをし、中船、小船は本川堀を利用した。また的場山の北側にも船入があった。明治以降、大阪商船、尼崎汽船が寄港し呉線開通までの内海航路の港として栄えた。
『安芸の小京都たけはら / 太田雅慶(昭和62年2月10日発行)』
旧明神港前の道を南西の方向に進む。道路の左手(海寄りの広場)が昭和に入ってから埋め立てられたものであることを即座に悟った。私の頭には大正十五年五月二十日発行の廣島縣賀茂郡竹原町の地図(あき書房による復刻)がしっかりと入っていたからである。
湊明神社
横島の東端にある。この社の近くに船が停泊したので湊明神と呼ばれ、古くからの鎮守社があり、明暦(1655~1657)年中に厳島の神をこの社に移し塩浜の守護神としたという。江戸期は湊明神社付近の沖が湊で諸国の廻船が集まり、潮によって大船はここで荷あげをし、中船、小船は本川堀を利用した。また的場山の北側にも船入があった。明治以降、大阪商船、尼崎汽船が寄港し呉線開通までの内海航路の港として栄えた。
『安芸の小京都たけはら / 太田雅慶(昭和62年2月10日発行)』
竹原のブドウ畑を初めて見たという男のために奥さんはこの地でぶどう栽培の基礎を作った神田家の話を3分ほどしてくれた。今ではデラウェア以外の品種の栽培も盛んに行われているということだった。
そして明神地区の居住者の4人に1人は三井金属鉱業関係の仕事に就いているという情報も得た。行きの途中で気になっていた大きな食品工場について私が質問すると、それは忠海のジャム製造会社の関連企業だと奥さんは言う。地元の人の話は非常にためになる。
竹原ブドウの沿革
明治三年ごろ神田信助翁は、神田家の池畔に二、三本の甲州葡萄を植え、栗材やモロ木をもつて池上に棚をつくり、葡萄蔓を誘引して年々美果を得、晩年これを竹棚に改良して、畑作に転換する動機をつくつた。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年五月五日発行)』
そして明神地区の居住者の4人に1人は三井金属鉱業関係の仕事に就いているという情報も得た。行きの途中で気になっていた大きな食品工場について私が質問すると、それは忠海のジャム製造会社の関連企業だと奥さんは言う。地元の人の話は非常にためになる。
竹原ブドウの沿革
明治三年ごろ神田信助翁は、神田家の池畔に二、三本の甲州葡萄を植え、栗材やモロ木をもつて池上に棚をつくり、葡萄蔓を誘引して年々美果を得、晩年これを竹棚に改良して、畑作に転換する動機をつくつた。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年五月五日発行)』
土建屋の先で私はついに立ち止まった。進むか、それとも引き返すか、ここで決断しなければならないと思った。ちょうどその時である。ブドウ畑の向こうに人影が見えた。
国政では疫病神(愚相)が最後の悪あがきをして賢国民の顰蹙を買っていたが、竹原町明神地区には真の救世主が現れたのである。私は女性(以後奥さんと呼ぶことにする)に「寺に向かう途中なのですが、近道はありますか」と尋ねた。やはり答えは「ありません」だった。
彼女は落胆する旅人を慰めた上で「私もそっちへ帰る途中ですからお寺まで一緒に行きましょう。以前は庵主様が住んでおられましたね、確か」と言った。私は有難く申し出を受け入れ、もと来た道を引き返した。
国政では疫病神(愚相)が最後の悪あがきをして賢国民の顰蹙を買っていたが、竹原町明神地区には真の救世主が現れたのである。私は女性(以後奥さんと呼ぶことにする)に「寺に向かう途中なのですが、近道はありますか」と尋ねた。やはり答えは「ありません」だった。
彼女は落胆する旅人を慰めた上で「私もそっちへ帰る途中ですからお寺まで一緒に行きましょう。以前は庵主様が住んでおられましたね、確か」と言った。私は有難く申し出を受け入れ、もと来た道を引き返した。