大きなカーブを右に回り「川辺宿」に入る。道筋は当時とほぼ同じである。古い家が幾つか残っている。「旧山陽道」を西南に進み「川辺本陣跡」に着いた。跡地は「植村歯科」になっている。私は説明板の文面に目を通した。
![川辺宿本陣跡](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/89/391abfc6cb241494b9460d561237c21c.jpg)
川辺本陣は代々難波氏であるが生業は醤油屋であったと言われる。
川辺本陣は植村歯科医院の付近にあったが、明治26年大洪水で流失し資料も残っていない。兵庫県豊岡市で発見された川辺本陣間取図によると国指定重要文化財の矢掛本陣によく似ている。参勤交代の諸大名の川辺本陣の宿泊率はほぼ同じ40%強で、2ヶ月に1回の割合であったが、高梁川に橋はなく、舟や徒による渡しのため、氾濫があるとしばしば逗留を余儀なくされたことから、川辺宿の賑わいは矢掛を凌いでいたのではないだろうか。
‐ 川辺まちづくり推進協議会 ‐
本陣から数十m先に「脇本陣」があったようだ。明治の大水害でかつての町並みが失われたことはまことに残念である。
![川辺宿脇本陣跡](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/a9/2aeea30f6083def1943301c868f396d9.jpg)
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旧川辺橋西詰を左折するとすぐに道路が分岐する。右側の道が「旧山陽道」だ。下り坂の途中(左手)に「川辺宿一里塚」跡を示す標識が建っていた。もともと一里塚は対岸(高梁川右岸)に設置されたと説明板には書かれていた。
![川辺宿一里塚を示す標識](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/6a/5069c6363d939d8702afcd350d2bb3da.jpg)
川辺一里塚は、江戸日本橋より180里(約707km)である。川辺一里塚は、川辺の渡し(高梁川右岸)にあったが、明治40年から始めた高梁川大改修が完成した大正14年に現在地に移転した。一里塚の北側には松が植えられていたが松は大改修で伐採された。
倉敷市真備町川辺(旧川辺宿)は高梁川及び小田川の土砂が堆積してできた集落で、増水時の「暴れ川」は住民を恐怖に陥れた。今では強固な堤防が築かれて河川敷では市民が野球を楽しんでいるが、江戸時代の堤は相当貧弱であったと思われる。川辺を治めた伊東氏は度重なる水害に頭を悩ませ、ついに「陣屋」を岡田(現・真備町岡田)に移転している。
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JR伯備線は岡山県の「倉敷駅」から鳥取県の「伯耆大山駅」に至る路線である。距離のわりに移動に時間がかかるのは片側通行をしているからだ。私は何度か在来線を利用して米子方面に旅したことがあるが、とても疲れるので帰りはいつも特急に乗る(笑)
![JR清音駅](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/2a/322f062db7fba2ad23eed74fdd5a5cc5.jpg)
「清音駅」は「倉敷駅」から一駅目に当たる。改札を抜けると眠そうにしていたタクシーの運ちゃんが私に熱い眼差しを向けた。
「すまんが用はない。チンタラ歩くのが目的だからな」
![土手へ続く道(みどりの広場前から撮影)](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/2f/f0f423b5b5804f33cd1d4431d6a8bba5.jpg)
彼らには目もくれず交番前の歩道を通って土手に上がる。県道24号線は交通量が非常に多い。柄の悪い改造車が猛スピードで通り過ぎるのを見て私は苦笑した。信号機が青に変わった。横断歩道の向こうは「高梁川」である。
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広島の顔であった「東千田町の大学」が東広島市に移転して学生を相手に商売をしていた店の経営は苦しくなった。時は流れて飲食店や銭湯の多くが姿を消した。
懐かしい学生時代を振り返り「広島市内から消えた店舗」について時々書いてゆこうと思う。第1回目は非常にお世話になった店として「松浦商店(大学近くのお好み焼き屋)」をとり上げる。
店舗は東千田町1丁目4‐19にあり、大学会館から徒歩1分という位置だった。青いビニル屋根に白字で「お好み焼 松浦」と書かれていた。同門でこの店を知らぬ者はモグリである。
昭和55年開店だから私が利用したのはそれから7年後になる。いつ行っても学生であふれていた。同じ下宿の連中と日曜日の昼過ぎに訪れ奥の座敷に上がり手垢とソースで汚れた漫画を読みながら焼き上がるのを待ったものである。
とにかく量が多いことで有名で大食漢の学生には人気があった。入学から3ヶ月もしない内にマージャンを覚えた私は秋口から雀荘に入り浸るようになった。夕方から打ち始め、終わるのが0時過ぎだから、途中松浦から出前をよく取った。
「貧乏学生」の心の支えだった「松浦商店」が閉店したと聞いた時には流石に寂しかった。廃業後、店舗はしばらく残っていたが、とうとう取り壊されて現在は駐車場になっている。冒頭の画像は2004年3月の撮影である。
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懐かしい学生時代を振り返り「広島市内から消えた店舗」について時々書いてゆこうと思う。第1回目は非常にお世話になった店として「松浦商店(大学近くのお好み焼き屋)」をとり上げる。
店舗は東千田町1丁目4‐19にあり、大学会館から徒歩1分という位置だった。青いビニル屋根に白字で「お好み焼 松浦」と書かれていた。同門でこの店を知らぬ者はモグリである。
昭和55年開店だから私が利用したのはそれから7年後になる。いつ行っても学生であふれていた。同じ下宿の連中と日曜日の昼過ぎに訪れ奥の座敷に上がり手垢とソースで汚れた漫画を読みながら焼き上がるのを待ったものである。
とにかく量が多いことで有名で大食漢の学生には人気があった。入学から3ヶ月もしない内にマージャンを覚えた私は秋口から雀荘に入り浸るようになった。夕方から打ち始め、終わるのが0時過ぎだから、途中松浦から出前をよく取った。
「貧乏学生」の心の支えだった「松浦商店」が閉店したと聞いた時には流石に寂しかった。廃業後、店舗はしばらく残っていたが、とうとう取り壊されて現在は駐車場になっている。冒頭の画像は2004年3月の撮影である。
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敗戦色が濃厚になった頃、我が国では「建物疎開」が行われた。「建物疎開」とはアメリカ軍による空襲被害を最小限にとどめるために住居などを撤去して「防火帯」を作ることであった。地権者がお上のすることに異を唱えた場合、どうなるかは容易に想像がつく。この作業には主に学生が動員された。
昭和20(1945)年8月6日、天神町辺りで「広島市立第一高等女学校」の生徒が「建物疎開」作業に従事していた。爆心地から500m以内のため、生徒と引率の教師が全員(約550人)死亡した(大半が即死)。
「平和大橋」西詰の南側に「広島市高等女学校原爆慰霊碑」が建つ。もともとは母校(現・広島舟入高等学校)の敷地にあったものを昭和32年に現在地に移設したそうだ。「平和記念公園」内の「主語がわからない石碑」の前にはあえて近づかない私だが、ここは別だ。広島を訪れた際には時々立ち寄り、全ての原爆犠牲者の冥福を祈る。
原爆投下前の中島地区には寺社仏閣が多かった。慰霊碑から少し西南に行ったところに「持明院(東区戸坂千足に移転)」と「福壽院(廃寺)」があった。その跡地は「ニッセイ平和記念ビル」になっている。
江戸時代の古地図を見ると「持明院」「福寿院」両寺の南に「光明寺」が隣接しているが、ここがかつての「刑場」であった。「平和会館」の建っている辺りが「光明寺跡」であると推定する。
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旧中島本町に残る唯一の被爆建物がレストハウスである。昭和4(1929)年竣工の「大正屋呉服店」は戦中に閉鎖され、原爆投下時は「燃料会館」と名を変えていた。
爆心から約170mに位置し強烈な爆風および熱線を浴びて大破、内部は全焼したが、鉄筋コンクリート造りのために倒壊を免れた。たまたま地下にいた従業員は軽傷で助かり、消滅した町に関して重要な証言を残している。
歴史に「もし」は禁物だが、あの日「空襲警報」さえ解除されていなければ被害はこれほど大きくはならなかったはずだ。
レストハウスは現在「観光案内所」として利用され自販機が設置された「休憩所」の役割も兼ねている。ここに置いてある無料の「広島市中心部ガイド(地図、宿泊施設、交通案内などが両面に印刷されている)」は非常に優れものなので広島市内を観光される方はぜひ利用して欲しい。私がこれまで書いてきた旅の流れが簡単に理解できると思う。
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「平和記念公園」のベンチに腰掛けて堺町で買い求めた弁当の蓋を開けた。鶏の唐揚げがメインでカップに入った味噌汁がついて500円。熱々の肉にかぶりつく。コンビニの弁当よりははるかに旨い(笑)
私の学生時代は「ほか弁全盛期」で2日に1度は買いに行ったものである。最も人気があったのは「チキン南蛮弁当」でこってりしたタルタルソースを塗りたくって食べていた。
その頃はペットボトルのお茶などは買わずに缶ジュース(炭酸飲料)ばかり飲んでいた。炭酸飲料を卒業したのは東広島市に移ってスポーツに打ち込み始めた頃だった。
腹を満たした私はゆっくり歩いて元安川を目指した。「元安橋西詰」に着いた時、ちょうど遊覧船が橋の下を通過し「相生橋」の方に進むのが見えた。
![元安橋](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/a6/9f42bf38fe1d3aa98ab94812ebb9a571.jpg)
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私は本川橋(かつては猫屋橋といった)を渡り中島町(旧中島本町)に入った。「続がんす横丁」の「腐っても鯛の中島本町」には重要な記述が多いので参考までに引用しておこう。
…中島本町は、明治、大正、昭和三代にかけて、広島の盛り場のメッカといわれたものである。三代にわたってこの盛り場の思い出にはいろいろあるが、三代といってもすでに大正の終わりごろには中島界わいもさびれていた。そして原爆後は、かつての盛り場の中心地であったあたりは平和公園の中に吸い込まれてしまった。
中島本町は東西の繁華街へ通じる中心の地点で、昔は目抜き通りの一等地としてならした…しかし、この界わいはいわばお坊ちゃん育ちのお人よしがたたって急テンポの時代の波にあっけなく見捨てられて、せっかくの一等地もがた落ちになった。それでもはなやかな時代の惰性で、慈仙寺鼻と天神町寄りの一画にはカフェー七軒、料理屋五軒、一ぱいのみ屋が十一軒、映画常設館二軒と、繁華街らしいスクラムを組んでお茶をニゴしていたという。大正中期の話である。
ここでもっともみじめだったのは、かつての中島勧商場がまるであばら屋のような姿をされしていたことで、これらの土地が例外なしに担保流れで銀行の所有地になっていたという。そのかみの大商店の没落を裏書きしていちまつの哀愁を感じさせたものである。…
しかし、集散場とか勧商場とかいわれた時代までさかのぼると、中島界わいは広島人にはこの上もない心あたたまる歓楽境であった。広島の盛り場の第一は明治十五年三月にできた中島集散場で、まさに広島最初の歓楽街であった。最初の店舗は十七戸で、敷地は千三百坪(約四千三百平方メートル)と記録されている。第二が前にも書いた横町の商工倶楽部の三十戸で明治二十二年五月、そして三番目にできたのが明治二十五年四月同じ中島本町にデビューした中島勧商場で十二軒、さらに十年後の明治三十五年六月には中島本町に第二集散場として五軒の店ができた。
中島集散場のあとを追うように、十年後にできあがったのが中島勧商場である。すなわち、慈仙寺鼻の入口にあって、集散場と南北相対した存在であった。
明治二十五年四月の開設で、勧商場にあった商店は二十戸もあって、場内の広さは二百五十坪(約八百二十五平方メートル)で、その中央には寄席の鶴の席があった。
鶴の席といえば、舞台の上部に長さ六メートルぐらいの押し絵の鶴が飾ってあったのも忘れられない。この寄席は、集散場にあった胡子座のあとを追って明治四十五年に活動写真館に転向して、喜楽館という名の活動写真常設館になった。
![平和公園内に建つ「中島勧商場跡」の石碑](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/77/6893a3875ef1dbfa6d840cca6817ae05.jpg)
勧商場(勧工場)とは主に雑貨や荒物を扱う店の集合体になる。現在の百貨店やデパートの前身と思っていただきたい。勧商場の歴史は、明治時代に一世を風靡したが年号が変わる頃には閑古鳥が鳴いていた「浅草十二階(凌雲閣)」とよく似ている。
「中島勧商場跡」を示す石碑の前で時計を見ると午後1時を過ぎていた。腹が鳴るのも当然だ。近くで昼食をとることにした。
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堺町は天正年間(一五七三‐九二年)に泉州堺港から広島に居住した長谷川与右衛門尉が、この町で堺屋という名の店を開業したことに原因して堺屋町といわれたが、のちにつまって堺町と呼ばれ、一丁目から四丁目までの区画ができたといわれる。
と「続々がんす横丁」に町名の由来が書いてあるが、昭和40年4月からは三から四丁目が廃されて一から二丁目だけになっている。
商店が並ぶ通りを歩いていた私は「これは…」と言って立ち止まった。独特のバルコニーを持つ家は「玉の井」にあってもおかしくない造りである。
敗戦後、堺町や十日市辺りに「赤線」ができたという話もうなずける。当時はモダンで通行人の注目を浴びたであろう「歴史的建造物」はその役割を終えて町内にひっそりと建っている。
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