寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

黒豆の枝豆をゆでて味わう楽しさ

2008年10月31日 | 食材

黒豆の枝豆はこれから約1ヶ月の間食べられる。普通の枝豆より値段は張るが、松茸のべらぼうな高さに比べればかわいいものだ。

黒豆は粒が大きくて甘みと旨みが強い。またねっとりとした食感が特徴である。万人受けするような深みのある味わいだ。

群馬県の枝豆生産農家が某紙に公開したおいしい枝豆のゆで方を参考にすれば失敗がない。

【枝豆のゆで方】
・汚れを落とした枝豆を塩もみして10分置く
・沸騰した食塩水(湯1ℓに対して塩が大さじ1)に枝豆を入れる
・再沸騰してから6分ゆでる
・冷水に移して色止めしてザルにとり水気をよく切る
・再度軽く塩をまぶして冷蔵庫で1日寝かせて味を馴染ませる

私は天塩を使用している。塩が程よく馴染んだ枝豆はどんな酒にも合う。魚や肉に飽き飽きした人は畑の肉を調理してみるのがよかろう。手頃な値段で旬の食材を購入し調理するのは実に楽しい。

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三国湊の神社巡り

2008年10月30日 | 

三国町神明1丁目にある「月窓寺」。老婦人が境内に入っていくのを見て私も後に続いた。この寺も遊女の哥山(かせん)と何らかの関係があるらしく彼女の墓があった。

神明2丁目の「神明社」

「神明社」は祭神として天照大神と継体天皇を祀る。本堂の裏手に回り「辰巳川神社」の由来に目を通し時計の針を見た。帰りの電車が出るのは10分後だ。残された時間は少ない。

神明2丁目の「辰巳川神社」

北本町3丁目にある「マルカ食堂」

早足で「三国駅」に向かう。昭和初期の造りを思わせる「マルカ食堂」がいい味を出している。そばの「盛安」はこの界隈では有名店である。

そばの「盛安」

私は「高見順(本名:高間芳雄)生家跡」の前で足を止めた。高見は県知事の非嫡出子として三国町に生まれ、数え年2歳までこの家で育った。彼の自伝的小説には屈折した感情が露骨に描かれていたことを思い出してほろ苦い気持ちになった。
「高見順生家跡」

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三国遊廓跡の静かな佇まい(その4)

2008年10月29日 | 

「弁天宮」を出て細い路地を進むと突き当たりである。クリーニング店の看板を確認して神明2丁目6~7辺りに自分が居ることを悟った。

「弁天宮」前の細い路地

元「妓楼」

更地の斜向かいに「桃」という字のついた妓楼があった。それを珍しそうに眺める余所者に町内の年寄りが険しい視線を浴びせた。

浄土真宗本願寺派「西光寺」

どん突きを右に曲がり次の辻を左折し、浄土真宗本願寺派「西光寺」の門前に到着した。私は掲示板の貼り紙に目を向けて破顔一笑した。

「善人になるより悪人と気付くのは難しい」

非常に奥の深い言葉である。口ではきれいごとばかり言う連中が裏に回って平然と悪事を働くのに加えて、汚らわしき「黒い組織」の準構成員であるケースが多いことを連想し、可笑しくて堪らなかった。

一般市民を装った「畜生以下」の悪人は「学習能力が欠如」しているため詰まらないことに病的に拘泥し、「無駄な金・時間・労力」を費やす。その結果、賢者にあっさりと見放され信用を失い、一緒に遊んでくれるポンスケと群れることで自分の居場所がまだあると錯覚する。仏がこんな思い上がったロクデナシを助ける訳がなかろう(笑)

「子安地蔵尊」まで歩いた私はかなり疲れていたが、最後の力を振り絞って神社巡りをしてから坂井市三国町を去ることにした。

「子安地蔵尊」

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三国遊廓跡の静かな佇まい(その3)

2008年10月28日 | 

料理茶屋「魚志楼」から通りには旧い木造家屋が建ち並び「花街」の面影が強く残っている。「つたや」横のすりガラスには「大和」という屋号が確認できた。もう一軒の居酒屋と合わせると非常に大きな建物だ。

「つたや」と「蝶恋花」

「赤線」を思わせる造り

その先に小料理屋風の家を見つけた。玄関には家紋と「二十歳未満立ち入り禁止」の表示があり、元「赤線」だった可能性が高い。

玄関に「二十歳未満立ち入り禁止」の表示あり

ゴーという騒音が聞こえ車が背後から迫ってくることに気づいた。小汚い紺色のバンを運転していた日陰者は二階大臣を更にひょうきんにしたような面だった。どうやら狭い町内を巡回しているようだった(笑)

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三国遊廓跡の静かな佇まい(その2)

2008年10月27日 | 

坂井市三国町滝谷3丁目の「滝の湯」から東に移動して、それらしき建物を見て回るうちに「迷えるおっさん」になってしまった。

入口が小派手な家

手の込んだ作りの木戸

お洒落な木戸が印象的な家を後にして九頭竜川に近いメインストリートに戻った。スナック「北国」の前の小道を北東に進む。

スナック「北国」

すぐ右手に料理茶屋「魚志楼」が見えるが、以前は「置屋」であったらしい。神明3丁目7-2X辺りには「遊廓建築」が数多く残っている。

料理茶屋「魚志楼」

「遊里」には繁盛を祈願して目出度い地名(栄や日の出)や神様にちなんだ地名(天神など)が多い。「悪所」の近くに「神明神社」があるのは長浜市の南片町遊廓跡と同じだ。

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三国遊廓跡の静かな佇まい(その1)

2008年10月26日 | 

福井藩三国湊の「川口御番所跡」を示す石碑を感慨深げに眺めた。私の目の前を細い「辰巳川」が流れている。「思案橋」を渡れば丸岡藩領の滝谷出村(たきだにでむら)であった。福井藩は正保元(1644)年に番所を置き湊に出入りする貨物を監視した。

「思案橋」

滝谷出村に「色街」ができたのは17世紀の終わり頃とみられている。「思案橋」は福井藩領と丸岡藩領を結ぶ道である他に「遊廓」への入口でもあった。

串焼きの「思案橋」

「煙草元売捌所」

「思案橋」という串焼店を通り過ぎ、メインストリートを北西の方向に進む。「煙草元売捌所」を見て神明2丁目の「永正寺」に向かった。

「永正寺」

「永正寺」境内にある「哥山」の墓と句碑

ここは荒町屋のお抱え遊女で俳人としても有名だった「哥山かせん」の菩提寺とされ境内には句碑が建つ。銭湯「滝の湯」は「永正寺」の近くで営業を続けている。

滝谷3丁目の銭湯「滝の湯」

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三国湊に残る古い町並み(後編)

2008年10月25日 | 

「松ヶ下西光寺」はかつて湿地だった場所に建っている。正保3(1646)年創建と伝わるが、今の堂宇は寛政年間に再建されたものだ。

西光寺の南側に「遊廓」ができたのは17世紀に入ってまもなくのことである。その後「遊廓」は湊が西に拡張するにしたがって万治2(1865)年に作られた上新町周辺(旧森田銀行がある北側)に集中するようになった(『三国町史』)

「三国大野屋」

西光寺門前の細道を下ると元「三国大野屋」がある。越前大野藩が起業した産物会所で、現在の言葉で置き換えると商社になろうか。

南本町3丁目の「宮太旅館」

ここから更に東に足を進めた。「宮太旅館」は回漕業を営んでいた宮本家が明治になって創めた旅籠屋がもとになっている。これもやはり「カグラ建て」だ。「三国神社」まで行く時間の余裕はなく引き返した。

北本町3丁目にある「坂井家」

福井県道119号を横断して北本町3丁目に入る。江戸時代に米などを商っていた「坂井家」を基点にして九頭竜川に沿って古い町屋が西にのびている。昔は大量の物資が荷揚げされてさぞかし賑わったのであろう。

私は「遊里」があった神明3丁目に向かって歩き始めた。

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三国湊に残る古い町並み(前編)

2008年10月24日 | 

三国駅を出て氷川神社、法円寺にお参りして北本町に移動した。「三國湊座」の辺りから東に向かって古い建物が並び、散策コースとしては一押しだ。

「種苗店」と「三國湊座」

「旧岸名家」

材木商の岸名惣助が住んでいた町屋(カグラ建て)が復元されていたので外から様子を窺った。三国湊には古くから廻船業で財を成した内田家と森田家があった。明治以降廻船問屋は次第に衰退し、内田家は没落した。

「大木道具店」

「内田本家跡」に残るタブノキ

骨董を扱う「大木道具店」の隣の空地には「内田本家跡」の石碑が建つ。大きなタブノキは当時の庭に植えられたものである。一方の豪商森田家は明治27(1894)年に銀行業に鞍替えして生き残りを図った。

「旧森田銀行本店」

タイル貼り鉄筋コンクリート造りの「旧森田銀行本店」は大正9(1920)年竣工。その後福井銀行と合併して近年まで福井銀行三国支店だった。現在は三国町の文化遺産として公開されている。

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えちぜん鉄道(三国芦原線)に乗る

2008年10月23日 | 

私は坂井市まで足を延ばすことにした。JR福井駅東口からバラックのような「えちぜん鉄道」の乗り場に向かった。終着駅で降りた客がすべて改札を抜けたのを確認してから入場が許される。これは松江の「一畑電車」と同じやり方だ。

「三国芦原線」

三国芦原線に乗って10分もすれば田舎の風景が延々と続く。女性サービス係(アテンダント)が愛嬌を振り撒くので辛うじて眠らずに済んだ。

山川豊にそっくりな与太者が肩を怒らせて「あわら湯のまち」駅で降り、車内は僅か数人になってしまった。福井駅を出て約40分後、鄙びた「三国」駅に到着した。

えちぜん鉄道の「三国」駅

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福井はそばどころとして有名である

2008年10月22日 | 

はるばる福井市までやって来て「越前そば」を食べなかったとしたら大間抜けであろう。都合をつけて二軒でそばを手繰った。

先ずは立ち食いの「にしんそば」。モサモサしていて私の口には合わなかったが、甘辛く煮たにしんで酒を飲むのは悪くないと思った。

越前おろしそば

次にかなり有名な店で「おろしそば」を頼んだ。幅広のそばは噛み応えがあって気に入った。予めもり汁に大根おろしが加えてあった。薬味はねぎと花かつおで、汁は辛口だ。甘ったるい汁を出す店が多い中真っ当な仕事をしていた。

そばは土地ごとで大きく味わいが変わるのが面白い。関東や長野のそばを高く評価する私だが、福井県を再び訪れて好みのそばを探そうという気になった。

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福井市の大衆割烹で美酒を飲む

2008年10月21日 | 

福井市の繁華街まで戻った私は大衆割烹の暖簾をくぐった。気の利いた先付けをつまんで冷たいビールを飲み干した。

造りの盛り合わせはキジハタ、生サバ、ボタンエビ、近海マグロ、イカ。キジハタは申し分のない食感と旨みである。癖が全く無いサバの美味しさは瀬戸内産のはるか上を行っている。他のネタも良質だ。

カイワリは感動の味(安価なのが嬉しい!)

目つきの鋭い店主は問われたことに要領よく答えていたし、魚を知り尽くしている感じがした。主がすすめてくれた珍しいカイワリの一夜干しが大当たりだった。年寄りならばあっさりしたカマスに、元気な中年は脂のよくのったカイワリに軍配を上げるのではないだろうか。

福井の魚介のレベルの高さは私の予想以上だった。この店は料理の「種類が多い」し、何より「柔軟性」がある。しかも「値段が手頃」だ。高ければいいという時代はとっくの昔に終わっている。

瀬戸内の魚が一番と平気でのたまう連中には「田舎から外に出たことがない」のが結構多い。狭い領域で経験したことから「安直な結論」を出し、他人に「下らない自説」を押しつけようとする。白黒映像しか見えないために腹が減れば己がひねり出したク●すらかじる「犬」と同じくらいアホだ(笑)

日本は狭いようで実は広い。全国を旅するたびにその思いを強くする。「謙虚さ」と「本質を見抜く眼力」があれば旅先の良い所がたくさん見つかるはずだ。そしてじっくり消化した後には新たに「自分の血と肉」になる。

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福井市の赤線跡には異様な空気が漂っている

2008年10月20日 | 
北に進み交通量の多い道路を横断して有楽町に入る。これまで見てきた町とは明らかに雰囲気が違う。ジメジメした空気を肌で感じ若干の寒気を覚えた。

スナックの残骸

栄町遊廓は福井空襲で消失し、敗戦後、赤線が作られた。戦前の栄町は現在のつくも2丁目から有楽町辺りを指すのであろうか。赤線の痕跡は「総光寺」の西側で確認できた。

赤壁の家

赤壁の家の表玄関

私は赤壁の木造建築を見つけて「あっ!」と大きな声を上げた。複数の入口を持つ家屋は色街で目にすることが多い。驚きはなおも続いた。この建物の傍には大きな木製の表札をかけた「事務所」がどーんと建っていたからである。

つくも2丁目から「花月橋」を望む

長居はできんぞ、と思い「安穏寺」の前を通って「花月橋」を急いで渡った。ちょうど日暮れ時で足羽川が茜色に輝いていた。

夕日を浴びて赤く輝く足羽川


追記(2016.4.26) 
妓楼のその後についてはこちらにまとめた。 

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心月寺の門前はかつて遊里だった

2008年10月19日 | 

「九十九橋」から足羽川を望む。橋の南詰に堤防が築かれるまでは大雨が降るたびに氾濫を繰り返して河原の近くで暮らす人達を苦しめた川である。

「心月寺」と「みどり幼稚園」

「心月寺」の門前は江戸時代、「誓願寺町」と呼ばれ、城下で唯一の「遊廓」があり芝居役者も住んでいたという(『福井県史』第二冊第二編)。現在の足羽1丁目に遊里の痕跡は見当たらない。

足羽1丁目界隈

「遊廓」は明治18(1885)年に「九十九橋」南詰西方の川沿いに移ったが、大火に遭って栄町(石場畑方)に移転している。

「みどり幼稚園」を出て「そば四ヶ浦屋」の横を通って最初の十字路を左折した。西に200mほど行くと銭湯「たきのゆ」がある。駐車場は完全に埋まり繁盛しているのが分かる。私は漸く「赤線跡」に近づいた。

銭湯「たきのゆ」

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北の庄城址公園で休憩

2008年10月18日 | 

「城の橋通り」を西に歩いて行くと右手に「北の庄城址公園」がある。約420年前、この辺りに北の庄城が築かれていた。「柴田神社」の前に城主であった柴田勝家の像が鎮座する。

再現された昔の「九十九橋」

北陸道と足羽(あすわ)川が交わる所に架けられた「九十九橋」は当初、半石半木の橋だったが、その頃の石柱を使用して公園入口に昔の橋が再現されている。

「旧浜町」を示す石碑

公園で休憩をとってから旧浜町(現中央3丁目)に移動した。「桜橋」から「九十九橋」の北詰はかつての料亭街である。華やかな時代は過ぎ去り料亭の数は激減した。今も営業を続ける大きな構えの「香爐園」が一際目立っていた。

中央3丁目の「料亭」

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福井城内堀周辺を散歩して「北の庄通り」方面へ

2008年10月17日 | 

天守台を「福井神社」の前から眺めた。城跡には県庁、県警本部、県議会議事堂が建っている。最近復元された「御廊下橋」は本丸と西三ノ丸御座所の間を結ぶ専用の橋だった。

「御廊下橋」

「御本城橋」

「御本城橋」から「歴史のみち」を通って南に向かう。「中央大通り」そして「電車通り」を横断して細い路地に入り込んだ。雀荘の先に場末のサロンがあった。

「女湯」

「女湯」というのは本○ロだろう。ホステス募集の年齢の上限が40才位までとあったので恐ろしくなった(笑)。目の前が小奇麗な「北の庄通り」だった。ここから「もとまち横丁」を抜けて「城の橋通り」まで来た。

「もとまち横丁」

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