寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

恫喝まがいの言動は逆効果

2010年10月31日 | 暗黒の無政府時代
恫喝はならず者やキン●マの小さい男が必要以上に己を大きく見せようとして用いる古典的な手法である。政治の場においても恫喝まがいの言動を繰り返す人がいて新聞や週刊誌のネタになっている。

気にくわない者に対して汚い言葉を吐くことは誰にも経験があると思うが、多用すると品位はガタ落ちになる。毒を和らげるだけの諧謔もないのがつらい。暗記学問によっては決して身につかないセンスなのである(笑)

そんな政府高官の問題発言に始まり10月は異常気象、燻り続ける政治と金の問題、2番底の恐怖、そして中国との小競り合いとろくでもないことが続いた。政府の対応がことごとく裏目に出てしまい、与党支持者でさえも「もうアカンわ」と言う始末である。

激しい浸水に気付かない鈍カンな船長ら(末期カン内閣)らに対して早くも勝手に避難し始めた船員(=見切りをつけ始めた国民)。手薄の状態で無数の穴を埋めるのは非常に困難になっていることだけは確かだろう。

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野菜の南蛮漬け

2010年10月31日 | 食材
南蛮漬けを作る際に魚だけでなく野菜も一緒に仕込むとバランスが良くなる。焼いたものでも生(スライス)でもどちらでも良い。彩りと味の面から最近ではパプリカが人気である。

漬け込んだ汁をすぐに捨てるのは勿体無い(笑)。味を見て薄いと感じた場合は(漉した上)で加熱し微沸騰後すぐに火を消す。ここに酢(必要に応じて醤油も)を足せば1~2回は野菜漬け専用として再利用できる。

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ママカリ南蛮漬け

2010年10月31日 | 食材
南蛮漬けとは魚を油で揚げた後調味酢に漬け込む料理と思われているが、昔のやり方はそうではなかった。私の祖母は素焼きした小魚を熱い調味酢の中に投入していた、ワタもウロコも取らずに(苦笑)。だから骨がやわらかくなるのに2日はかかった。油で揚げたものよりはあっさりしている。

彼女の南蛮漬けはママカリよりもキスで作ることが多かった。しかしキスの骨は何故かかたいままであった。夏場の疲労回復および食中り防止には絶大な効果があった。

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広島市西区古江西町の樽ヶ崎宮(その6)

2010年10月30日 | 
薄田太郎さんは「がんす夜話」で重いテーマについても触れている。高度経済成長期に生まれた者にとっては非常に役立つ記述だ。

 樽ヶ鼻は維新前に刑場となった(※1)が、古江古老の話によると文政八年(一八二五年)十一月二十六日に古江村の百姓勘四郎が、この樽ヶ鼻の刑場で斬首の上獄門にかけられた。

 (中略)

 その後の樽ヶ鼻刑場の記録では、文政十年十一月二十六日、鳥屋町に店を構えた八百屋卯右衛門が御蔵預差紙を偽造して大金をリャク奪した罪に問われ、市中引き回しの上、樽ヶ鼻で斬首獄門にかけられている。…

 刑場といえば、寛永十一年正月十二日(一六三四年)に己斐村の河畔で行われたヤソ教徒の火刑(※2)がある。この日処刑されたのは、麹屋の乳母である。

 なお城下の刑場は寛永十年十一月から材木新開の材木屋敷に置かれていたという。材木新開というのは、のちの船入新開(※3)のことである。

行刑に従事した者達の苦悩、見返りに得たものなどを調べていくと世の中の明暗が見えてくる。現在の死刑制度を再考する上でも江戸期の実態はしっかり押さえておくべきだと思う。

私は樽ヶ崎宮の隣に立ち草津・庚午地区を見下ろした。干拓によってできた庚午地区を青色に塗り潰して古代の海岸線を頭の中で描いてみた。

※著者注1 「知新集」には浅野長晟(ながあきら)が入封した頃はここが御仕置場であったという記述がある。また「広島県の地名 日本歴史地名大系35」で樽ヶ崎(西区古江西町)はこう解説されている。
      
 俗に樽ヶ鼻という。…その後の埋立で現在は市街地になっている。…当地近くの清水山は神武天皇が清水を汲んだ所と伝える(国郡志下調書出帳)

※著者注2 広島市西区己斐東にキリシタン殉教之碑が設置されている。
※著者注3 竹ヶ鼻の刑場は広島市中区河原町にあった。河原町地蔵尊には刑死者も祀られている。

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広島市西区古江西町の樽ヶ崎宮(その5)

2010年10月29日 | 
宮は小さいながらも造りは精巧である。注連縄(しめなわ)を見た私はここが神聖な場所であることを強く意識し、出雲大社を訪れた際の感動を思い出した。そして大社本殿の置千木(ちぎ)外削ぎ型とよく似ていることに気づいた。この形式は一般的に男神を祀っていることを意味する。ということは祭神は言い伝えの神功皇后だけではないと考えるべきなのだろうか?

古い地名の樽ヶ崎は「樽ヶ鼻」とも言うが、名の由来については薄田太郎さんの著作「がんす夜話(たくみ出版 昭和四十八年)」が詳しい。

 この付近に「樽ヶ鼻」という旧名が伝えられている。神宮皇后が三韓征伐の途中に立ち寄られたとき、地元民が歓迎して酒樽をこの土地に積んだという故事によるといわれ、また文治年中に源範頼が平家に追い討ちをかけたとき、このあたりで戦勝を祝って樽をかたむけたからともいわれている。

側面から見た樽ヶ崎宮

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広島市西区古江西町の樽ヶ崎宮(その4)

2010年10月29日 | 
コンクリート製の階段を上り切った所に樽ヶ崎宮はある。非常に小さい祠で両脇と後方を民家と墓地に囲まれた形になっている。だから加川整形外科病院前からは見え難かったのだ。

標識が出ていないのは周辺住民への配慮だと思う。大声で話したり余計な物まで撮影する人間を近付けたくないという気持ちは理解できる。郷土史研究の目的で樽ヶ崎宮を訪れる際にはくれぐれも迷惑のかからないようにお願いしたいものだ。

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広島市西区古江西町の樽ヶ崎宮(その3)

2010年10月28日 | 
確かに坂道の右側にコンクリート製の階段があるが、立ち位置からは白い住宅が見えるだけだった。私は礼を言って頭を深々と下げた。女性はスタスタと急な坂を上って行く。彼女の姿が視界から消えた後、私も細い道を駆け上がった。

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広島市西区古江西町の樽ヶ崎宮(その2)

2010年10月28日 | 
「困ったな。近くまで来てるはずなのに場所がわからん」

病院の前をウロウロしている時に坂を上ろうとする婦人を見つけた。まさに渡りに船である。私は単刀直入に「樽ヶ崎宮への道を教えて下さい」と話しかけた。彼女は地元の人だった。最初は驚いた様子であったが、すぐに温和な表情になり「そこの石段を上がるとお宮がありますよ」と指差した。

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広島市西区古江西町の樽ヶ崎宮(その1)

2010年10月27日 | 
私は西区古江西町25辺りで立ち止まった。そして北方を眺めて渋い顔になった。

「樽ヶ崎宮があるはずだが…どうやらここではないようだ」

更に足を進めて行くと左手に「加川整形外科病院」が建っていた。「多分この近くだろう」と呟き蛇行する坂道を見上げた。

加川整形外科病院

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広島市西区古江西町に向かう

2010年10月27日 | 
新宮神社参拝を済ませた私は広電「古江駅」に戻らなかった。ファミリーマートと古江郵便局との間の道を西に進んだ。

アトリエの看板が出た倉庫らしき建物を過ぎるとレトロなタバコ屋があった。この先から広島県道71号線となる。

西区古江西町のアトリエ(骨董屋の倉庫か?)

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徹底解明!ここまで違う日本と中国 / 石平VS加瀬英明(自由社)

2010年10月26日 | 書籍
今年読んだ本の中で今のところベストである。中華人民共和国出身の石平さんは日本に帰化され討論番組にもよく登場して場内を沸かせる。日本と中国の恥部をこれほど赤裸々に描いた本も珍しい。ぜひ書店で手に取って欲しいと思う。

石平さんの辛辣な発言は含蓄に富み「友愛」という大甘の精神だけでは国を守ることは不可能であるのに気づかされるだろう。私が大爆笑した箇所を引用しておこう。

皇帝の下には使用人(官僚)と奴隷(人民)しかいない

 …草民という言葉に、中国の政治の本質がよく表われている。要するに、人民を草以上のものと、みなしていないですよ。刈れば、また生えてくるんですわ。だから、いくら殺しても、刈っても、構わない。
 …中国の政治は、二千何百年にわたって、儒教の有徳な政治と称しながらね、人民を草だとみなしてきた。残酷な政治ですわ。そこが皇室を中核として一体化した日本の政治文化と、根本的に違う。
 中国の皇帝にとっては、自分だけが主で、それ以外の人間は二種類しかいないんです。自分の手足としての使用人である官僚と、あとは奴隷としての人民です。
 中略
 中国では、最も徳を欠いた人間が、徳を独占する。そういうおかしな構図を、ずーっと、何千年間も続けてきましてね。その結果、出来上がった中国の社会構造と、国民性には、徳は最初から存在しない。…

反省なき劣等感が生む実りない攻撃と差別

 中国人は、本当の自分たちの文化や、伝統のよいところが、日本に生きていることも知らず、自分たちが中国のよいものを失ったことも知らないで、いつまでも、自分たちが一番素晴らしい、世界でもっとも優れた中華文明の継承者だと、鼻を高くしている。錯覚ですがね。日本人に古代からずーっと教えてやったと、錯覚している。
 逆に、日本もね、日本的な錯覚を犯している。日本人もね、いくら日本がよくなっても、素晴らしくなっても、成長しても、やっぱり自分たちが、昔は中国から教えてもらった!という、劣等感を、払拭できない。
 自分たちが、中国をはるかに越えているのにね。まだ、何か中国が素晴らしいと、どこかで思っている。こうした二重の錯覚が、日中間にあるんです。

毎日新聞(左寄り)と産経新聞(右寄り)を読むと中国問題に関するスタンスの違いがよく分かる。「何でもかんでもマンセーするんじゃない」という産経の論調が毎日を過剰に刺激していることは一目瞭然である(笑)。別に贔屓しているわけではないが、産経の方にやや分があると私は見ている。このバトルから日本国民は何を読み取れるだろうか?

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東広島の心霊スポット(後編)

2010年10月26日 | 学生時代
「首切峠」から鏡山は近い。学生時代にたった一度大内氏の城があったという頂上まで登ったことがあるが、何となく薄気味が悪かった。鏡山周辺は古戦場跡として知られており、霊を見たという噂は何度も耳に入っていた(真偽は不明)。

峠でも多くの武者の血が流れたことを匂わせる話ではある。鏡山の北側に公園が整備されており桜の名所としても有名だ。休日になると気晴らしに公園東に広がる奥田大池にバス(やナマズ)を釣りに出かけていた。根がかりでルアーを失くすことが多く結局下見大池に場所を移すようになった。

釣りに熱中した期間は昭和63(1988)年秋から平成元年の初夏あたりまででその後はスポーツ一辺倒となり「首切峠」の練習場にはほとんど毎日のように通っていた。

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東広島の心霊スポット(中編)

2010年10月25日 | 学生時代
ががら第二職員宿舎前の道を過ぎてしばらく行くと左(北側)に折れる道が現れる。附属農場の脇を通って学生宿舎(寮)に向かう長く曲がりくねった上り坂(鏡山2丁目と3丁目の境)を「首切峠」と呼んでいた。当時、峠の東側一帯は非常に寂しい所で夜は自転車で通るのが怖かった。

運動部に所属していた学生は「首切峠」をトレーニングの一環として年中駆け上がっていた。夏季における急傾斜での自主練習があまりにキツいので私は勝手に「心臓破りの坂」という別名をつけて学部内に浸透させた。

学生宿舎(寮)の食堂

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東広島の心霊スポット(前編)

2010年10月25日 | 学生時代
今年の夏、昔の麻雀仲間と昼食を共にする機会があった。大学周辺の環境が大きく変化したことを語り合った後に話は意外な方向に進んだ。対面に座っていた策士の口から低いトーンで「首切峠」という単語が飛び出したのだった。私は懐かしさを覚えたのと同時に背中がぞくっとした。

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屁理屈をこねる老人が紙面を賑わす平成22年秋

2010年10月24日 | 暗黒の無政府時代
数々の問題発言で(首相よりも)注目を浴びる男。週刊誌で陰の総理とか赤い後藤田と揶揄されるへのじ口の老人のことである。彼の答弁には謙虚さというものが感じられない。高い知能を持つ少年少女らは反面教師としての老政治家から多くのことを学んでいるだろう(笑)

本日の産経新聞に掲載された古典個展(立命館大教授・加地伸行さん)も強大な権力を握った者に触れていた。あまりにキツい内容に飲みかけのコーヒーを噴き出してしまったほどだ。

 そういえば、もう一人、歌を忘れたカナリヤがいる。それは〝陰の総理〟と呼ばれている御仁だ。
 この人、左翼である。日本の左翼は、大体において、自分というものがない。だから、かつてソ連が全盛であった時代には、ソ連に従うことがすべてであった。
 そこで、ソ連(当時)と対立するアメリカをなにがなんでも悪者として扱うことが仕事であった。そのときのアメリカ非難のことばが「アメリカ帝国主義」。ときには「日米帝国主義」とまで言ってソ連に諂った。
 帝国主義-この言葉をどれほど聞いたことであろうか。左翼にとって「帝国主義」は日常語であり、アジ演説における<歌>であった。
 それなら尖閣諸島に対するこのたびの領土拡大を企む中国の行為は、まさに帝国主義なのであるから、この御仁は「中国帝国主義」という非難の歌を歌うべきではないのか。
 ところが歌わない。どころか、「柳腰で」などとわけの分からん答弁で逃げている。歌を忘れたこういうカナリヤに、西条八十はなんとこう作詞している。「柳の鞭でぶちましょか」と。おみごと。
 この御仁が、国会の委員会において、答弁するところをテレビで何度か見た。
 中略
 結論は、首相に対して僭越であることだ。質問者が首相を指名して質問しているのに、首相を差し置いて、己がしゃしゃり出てきて答弁していた。
 これは異常である。凡庸な君主と僭越な重臣との勢力争いが亡国の原因となるのは、歴史上、常にあった。遠く2500年前の中国古代、孔子は自国の魯国におけるその現実をつぶさに見た。

政権交代から1年が過ぎ「どこから見てもおかしな流れ」に多くの国民が気づき始めた。トップが意思決定すらできない体制は国民にとって最大の不幸である。私はあの世の後藤田さんが「わしの名前を勝手に使うな!」と憤慨している姿を思い浮かべ苦いコーヒーを飲み干した。

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