赤線風の建物には何軒もの飲み屋の表示が見られたが、営業している雰囲気は感じられなかった。裏手はあのボロボロに傷んだ妓楼に隣接している。
厳つい造りの旅館があった。屋号を見て戦前の娼楼のそれと同一であることに気づいた。こういう旅館は身元の不確かな客は断っているのではなかろうか。どん突き(T字路)を左に曲がった先にあった「東仲店」が取り壊されて更地になっていた。
古い建物を修繕して維持するには十分償却可能なことが前提条件になる。高齢となった土地所有者が現状に見切りをつけて売却するのも納得だ。赤線廃止から既に50年。行政や周囲の住民から「負の遺産」と冷たく見放されて花街からの完全な脱却に成功した例を私はほとんど知らない。
背脂のプカプカ浮いた旨味調味料の肥溜めみたいなラーメンは肉体と脳味噌に悪影響を及ぼすので口にしない主義である。「豚脂は頓死のもとだ」と私は考えている(笑)
体を壊した後も義務感のようにバランスの悪い食事を続けて亡くなった元「●ー●●王」が頭に浮かぶ。忍耐力と分別があれば彼はもっと長生きできたろうと苦々しく思った人は多いはずだ。
麺とスープとたっぷりの野菜を一緒に摂ることで先のようなリスクは大幅に軽減できる。そういう意味で彦根ちゃんぽんは陳腐なラーメンよりはるかに上等だ。
すこぶる美味しいとは言い難いけれど和風だしベースのやさしい味には好感がもてる。卓上の酢を好みの量ふりかけると味がしまってあっさり食べられる。
袋小路から「花しょうぶ通り」に出て東の方角に進む。河原3丁目の「妙源寺」から「大雲寺」の門前は近かった。
ここから銀座方面に引き返した。商店街を歩いて床屋が多いことに気づいた。レトロ調の「宇水理髪館」は昭和初期のコンクリート建築である。
「魚浩」の店先で主婦が晩のおかずを吟味していた。好物の鰻があって思わず手が出そうになったが、泣く泣く我慢した。
旅から戻って「花しょうぶ通り商店街」のHPがあることを知った。そこでは遊廓の歴史について詳細な記述があり大いに参考になった。
私は彦根と同じ城下町で生まれ育った。今ではすっかり寂れて虫の息となった商店街の東側に「新町遊廓」の流れを汲む旧赤線地帯が残っている。飲み屋街として辛うじて機能しているようだが、健全な若者には見向きもされないエリアになってしまった。
どんな町の歴史にも光と影はあるのだ。都合の悪い事実(一部の人間にとって)に墨を塗り公的な記録からことごとく抹消しようとする愚かな行為は町を衰退させた一要因だと思う。
また、目先の欲にとらわれるだけで客を呼び込む努力を放棄した商店街の主に「知恵」と「先見性」が無かったことは明白だが、最も欠如していたのは下町の人間としての「プライド」だろう。
「花しょうぶ通り商店街」のように余裕をもって過去の歴史を後世に語り継ぐことができなかったのは黒い団体とべったり癒着しているから、という冷たい見方もできる。「広島県東部=ガラの悪い地区」と認識されては、いつまで経っても観光客は増えない。
旧城下町のランクはピンからキリまである。先に述べた通り、我が町は最下位から数えた方が早い(笑)
「花しょうぶ通り」まで真っ直ぐにのびる細道の右側が河原1丁目に当たり「るんびにー保育園」と「大雲寺」がある。
そして左側から2丁目(遊廓跡)となるのだが、十字路はなくT路(どんつき)ばかりで地図を持っていてもどこを歩いているのかわからなくなる。暫く私は不思議な空間である「袋小路」を彷徨った。
売春防止法施行後、楼主は転業を余儀なくされた。今も営業を続ける料亭や旅館などは昔の屋号をそのまま使っているのが結構ある。
「飛田新地」のような派手なコンクリート建築が少なく、落ち着いた色合いの木造家屋が多い。これは彦根市が戦災を受けていないからだろう。旧妓楼の玄関に残る色褪せたプレート類がかつての「色街の繁栄」を静かに物語っている。
「カニ入り長芋のネギ焼き」は秀逸な一品。すりおろした芋にカニの身と青ネギを混ぜて焼いたものでトロトロの食感だ。素朴な味わいながらも鍋底にお焦げが出来ているので微妙な変化を楽しめる。
「カワハギの一夜干し」を客自らが好みの加減に焼いて食べる演出が憎い。炭火で焦がさぬようにさっと焙り口に入れた。淡白な魚を干してアミノ酸分解を待つのは実に理にかなっている。瀬戸内でポピュラーな造りや煮魚とはまた違った良さがある。
しめは名物「塩にぎり」。飲んだ後にちょっとお腹に入れたいという客の欲求を十分に満たす。他にもネタは選べたが、イカを注文した。イカの上にはアンチョビがのっていて、この塩気と旨味で寿司を食べるのだ。柔軟な発想の出来ぬ古臭い「喰い切り料理屋」が腰を抜かすメニューだった。
「体を蝕むラーメン(毒入り餌)」が大好きなタコスケが冷やかしに出掛けるのを防止するためにあえて店名は伏せておこう(大笑)