独立行政法人国立病院機構福山医療センターでは新外来管理棟の手前にある旧棟の解体が始まっていた。晩秋までにはすっきりして見栄えがよくなることだろう。あと数年で千代田町から沖野上町にかけての(病院)通りが激変する。
競馬場跡地の東側周辺は近年アパートや住宅の建設が盛んである。田んぼだった所がゼロ・スタイルの建築条件付土地(全10区画・価格1,250万円)になっていたのには驚いた。
「販売説明会開催中」と印刷された幟が立つ両脇に既に家が(合計3)出来ており近々4軒目(5号地)が完成しそうである。2号地でそろそろ着工かな。ここからは少し離れるが、土建屋の駐車場跡(千代田町1丁目9)にも綺麗な住宅が建ち並んでいた。
「販売説明会開催中」と印刷された幟が立つ両脇に既に家が(合計3)出来ており近々4軒目(5号地)が完成しそうである。2号地でそろそろ着工かな。ここからは少し離れるが、土建屋の駐車場跡(千代田町1丁目9)にも綺麗な住宅が建ち並んでいた。
水呑大橋手前の五本松橋欄干そばにも歩道通行止及び迂廻路の立て看板がある。五本松橋の上から南東を望む。
芦田川左岸土手下、農業用水路沿いの競馬場跡地側(高い鉄塀の多くは撤去された)でユンボが大きな溝を掘っては土砂をダンプの荷台に移している。
土手を下りて水路まで移動すると工事看板が置かれていた。正式な工事名は「道路排水路整備工事(総合体育館周辺道路)」。受注者が占部建設工業で施工者が平和建設とのこと。
千代田町の広大な空き地に「反日おから商店」が進出するという「(願望)ネタ」をしつこつネットで流していた「うすら何とか(昔の言葉では、とう○ん)」は一体どこに消えたのだろうか。奴(等)のやり方は「常に謝罪とゼニを要求する暑苦しい連中」とそっくりだったな(笑)
芦田川左岸土手下、農業用水路沿いの競馬場跡地側(高い鉄塀の多くは撤去された)でユンボが大きな溝を掘っては土砂をダンプの荷台に移している。
土手を下りて水路まで移動すると工事看板が置かれていた。正式な工事名は「道路排水路整備工事(総合体育館周辺道路)」。受注者が占部建設工業で施工者が平和建設とのこと。
千代田町の広大な空き地に「反日おから商店」が進出するという「(願望)ネタ」をしつこつネットで流していた「うすら何とか(昔の言葉では、とう○ん)」は一体どこに消えたのだろうか。奴(等)のやり方は「常に謝罪とゼニを要求する暑苦しい連中」とそっくりだったな(笑)
最も保存状態のよい妓楼(と言っても1階は大分手が加えられた形跡あり)は伏見町側にある。2階の照明器具や手すりなどに色街の残り香を微かに感じた。
小路に面したスナックはその傷み具合から見てもう営業していないだろう。突き当りを左折し宮川の土手下方面へ向かう。転業アパートの手前が小さな遊園地になっている。材木町案内図(※東大番所跡近くに設置)を見るとこの奥に稲荷がある。
もと妓楼を安易に「負の遺産」として片付けずに1つ位は「歴史的建造物」として改修保存してもらいたい、広島県福山市鞆町の「ありそ楼」のように。最後に『角川日本地名大辞典33 岡山県』から材木町の説明を引用しておく。津山城築城の際の木材置場がその後追廻馬場となり千歳町(ちとせまち)を経て遊廓へと変貌する流れが掴めると思う。
[近世~近代]江戸期~現在の町名。江戸期は津山城下の1町,町人地。明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名。(中略)町名の由来は,森氏津山築城のとき用材置場にしたことによる。城下町の建設が続いて材木商が生まれ,商業の町となった。元禄10年の城下町図によれば,家数33うち持家30・借家3,人数479(男244・女235)。津山家数役付惣町堅横関貫橋改帳によれば,大工職14軒が見え,ほかに木屋・木挽屋があり,材木商と見られる屋号もある。町並みの南の材木置場はのちに馬場となった。これは川岸を利用したもので,富くじの会場にも利用され,よく人が集まったという。小須賀稲荷神社があり,松平氏重臣の小須賀氏別邸が当町にあって,その屋敷神を町内神にしたものである。東に宮川が南流し宮川大橋がある。ここに城下東の入口として大番所があり制札場があった。東部からはこの橋を通らなければ町に入れず,通行量は多く当町の商家は商いに有利であった。明治期の戸数69・人口239(津山誌)。明治以降宮川土堤を中心に遊廓が成立した。千歳町・追回しなどと称され,西へ発展し伏見町にものびたが昭和32年に消滅した。津山劇場あるいは宮川座は明治末期から昭和40年代まで芝居を中心に興行していた。(以下略)
小路に面したスナックはその傷み具合から見てもう営業していないだろう。突き当りを左折し宮川の土手下方面へ向かう。転業アパートの手前が小さな遊園地になっている。材木町案内図(※東大番所跡近くに設置)を見るとこの奥に稲荷がある。
もと妓楼を安易に「負の遺産」として片付けずに1つ位は「歴史的建造物」として改修保存してもらいたい、広島県福山市鞆町の「ありそ楼」のように。最後に『角川日本地名大辞典33 岡山県』から材木町の説明を引用しておく。津山城築城の際の木材置場がその後追廻馬場となり千歳町(ちとせまち)を経て遊廓へと変貌する流れが掴めると思う。
[近世~近代]江戸期~現在の町名。江戸期は津山城下の1町,町人地。明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名。(中略)町名の由来は,森氏津山築城のとき用材置場にしたことによる。城下町の建設が続いて材木商が生まれ,商業の町となった。元禄10年の城下町図によれば,家数33うち持家30・借家3,人数479(男244・女235)。津山家数役付惣町堅横関貫橋改帳によれば,大工職14軒が見え,ほかに木屋・木挽屋があり,材木商と見られる屋号もある。町並みの南の材木置場はのちに馬場となった。これは川岸を利用したもので,富くじの会場にも利用され,よく人が集まったという。小須賀稲荷神社があり,松平氏重臣の小須賀氏別邸が当町にあって,その屋敷神を町内神にしたものである。東に宮川が南流し宮川大橋がある。ここに城下東の入口として大番所があり制札場があった。東部からはこの橋を通らなければ町に入れず,通行量は多く当町の商家は商いに有利であった。明治期の戸数69・人口239(津山誌)。明治以降宮川土堤を中心に遊廓が成立した。千歳町・追回しなどと称され,西へ発展し伏見町にものびたが昭和32年に消滅した。津山劇場あるいは宮川座は明治末期から昭和40年代まで芝居を中心に興行していた。(以下略)
先週、私は福山すこやかセンター東館入口付近に足場が組まれたのを見た。市のホームページで確認したところ条件付一般競争入札(電子入札対象案件)【建設工事】の7月14日付の欄に名があった。市内の小・中学校に加えて重要な施設も順次改修を行う流れである。
遊里研究のバイブルを読んで期待して現地へ行った人の殆どは落胆するであろう。時代の流れには誰も逆らえず建て替えが相当に進んでいる。
津山市材木町遊廓は岡山県津山市材木町及伏見町に在つて、作美線津山駅へ(※ママ)下車して東北へ約拾丁の個所に在る。津山は松平氏の旧城下で、城址は今鶴山公園に成つて居る。(中略)明治維新の際に、藩主松平氏が、市の繁栄を計る為めに補助金を交付して、初めて此の遊廓を設立したもので、他廓とは一寸其の行き方が異つて居る。従つて其の建物や構造等は一寸他廓の追従を許さぬものがある。設計者は当時の藩士榊原貞一氏であつた。目下貸座敷は十八軒あつて、娼妓は約九十人居るが、重(※ママ)に金県の女である。店は写真式に成つて居て陰店は張つて居ない。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制と仕切花制とである。費用は一時間が一円五十銭で、午後六時から終夜は八円、引け過ぎからならば四五円程度である。勿論客の廻しは取らない。台の物は附かない、芸妓は呼べない。娼楼には、浪花楼、花月楼、一冨士、油宗、見晴楼、菊水、日の出、都楼、松月、鶴の家、松田、春日楼、昭和楼、岡田楼、小野恵、大正楼、一心楼、金本楼等がある。
『全国遊廓案内 昭和5(1930)年発行』
遊里への入口付近にかつての妓楼と思しき建物が数軒残るのみだ。色街の規模は(娼妓及び貸座敷の数の単純比較で)福山の新町遊廓の方が上だったようである。大正版『福山案内』には「遊廓 新町にあり、新町遊廓と稱す、妓樓及貸座敷四十八戸、娼妓九十一人なり」との記述あり。
津山市材木町遊廓は岡山県津山市材木町及伏見町に在つて、作美線津山駅へ(※ママ)下車して東北へ約拾丁の個所に在る。津山は松平氏の旧城下で、城址は今鶴山公園に成つて居る。(中略)明治維新の際に、藩主松平氏が、市の繁栄を計る為めに補助金を交付して、初めて此の遊廓を設立したもので、他廓とは一寸其の行き方が異つて居る。従つて其の建物や構造等は一寸他廓の追従を許さぬものがある。設計者は当時の藩士榊原貞一氏であつた。目下貸座敷は十八軒あつて、娼妓は約九十人居るが、重(※ママ)に金県の女である。店は写真式に成つて居て陰店は張つて居ない。娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやらない。遊興は時間制と仕切花制とである。費用は一時間が一円五十銭で、午後六時から終夜は八円、引け過ぎからならば四五円程度である。勿論客の廻しは取らない。台の物は附かない、芸妓は呼べない。娼楼には、浪花楼、花月楼、一冨士、油宗、見晴楼、菊水、日の出、都楼、松月、鶴の家、松田、春日楼、昭和楼、岡田楼、小野恵、大正楼、一心楼、金本楼等がある。
『全国遊廓案内 昭和5(1930)年発行』
遊里への入口付近にかつての妓楼と思しき建物が数軒残るのみだ。色街の規模は(娼妓及び貸座敷の数の単純比較で)福山の新町遊廓の方が上だったようである。大正版『福山案内』には「遊廓 新町にあり、新町遊廓と稱す、妓樓及貸座敷四十八戸、娼妓九十一人なり」との記述あり。
工事の条件付一般競争入札(電子入札対象案件)が行われたのが今年6月中旬。お盆前には北棟校舎前に足場が組まれて防音シートが張られていた。施工者はまだチェックしていないが、光小学校と同様にシートの裏側辺りにピタコラムを新設するのだろう。市は本年度中に多くの小・中学校で耐震改修工事を完了させる。
ケーズデンキ福山店(建造中)近くの駐車場に「9月末で閉鎖」との告示が出ていた。私は山陽土建に不動産部があり駐車場を管理していることも全く知らなかった。
松浜エリア、特に歓楽街周辺が大きく変わろうとしている。同じことをしていては先細りするだけ…それは経済の仕組みに疎い8にも言えることだな。
松浜エリア、特に歓楽街周辺が大きく変わろうとしている。同じことをしていては先細りするだけ…それは経済の仕組みに疎い8にも言えることだな。
旧出雲街道より伏見町の小路に入り陰鬱な気持ちを抑えながら南下した。非常に短い思案橋を渡った先に真宗大谷派不遠山本琳寺がある。
本堂が新しいことに気付いてちょっと変だなと思ったのだが、それは平成20年(2008)春に再建されたものだった。本堂前から墓地へ移動する。遊女の供養塔はブロック塀に近いところに建立されていた。
裏面に「卜地于本琳寺中改葬遺骨建納骨碑以行追弔法會又将合葬今後遊女病歿者永久弔祭云因記其略歴……昭和三年三月 津山遊廓組合事務所誌」という刻銘あり。私は「人生いろいろ…天国と地獄はいつも紙一重…」と呟き寺を出てかつての遊里へと足を向けた。
本堂が新しいことに気付いてちょっと変だなと思ったのだが、それは平成20年(2008)春に再建されたものだった。本堂前から墓地へ移動する。遊女の供養塔はブロック塀に近いところに建立されていた。
裏面に「卜地于本琳寺中改葬遺骨建納骨碑以行追弔法會又将合葬今後遊女病歿者永久弔祭云因記其略歴……昭和三年三月 津山遊廓組合事務所誌」という刻銘あり。私は「人生いろいろ…天国と地獄はいつも紙一重…」と呟き寺を出てかつての遊里へと足を向けた。
以前、私は剣道防具用品専門店「㈲玄武」跡地にミサワホーム中国が個人邸を建設中と書いたが、アパートの間違いだった(すまん)。アイキューブ霞(総戸数3)は賃貸住宅検索サイトでは9月入居可となっているのでおっさんらが急いで塀を拵えていたのだ。賃料は6.5~6.7万円(契約期間は2年)
クラース野上町建設現場の程近くにある山陽腎クリニック。現在1階入口付近を含めて改修工事が行われている。
辰川会広報誌「ふれあい新聞」第109号(2017年5月15日発行)によると透析ベットの数を(104床から)120床に増やすのが主目的という。工事の看板は木野山神社側に早くから取り付けられていた。
辰川会広報誌「ふれあい新聞」第109号(2017年5月15日発行)によると透析ベットの数を(104床から)120床に増やすのが主目的という。工事の看板は木野山神社側に早くから取り付けられていた。
クラース野上町建設用地で杭打ちが始まってからおよそ3ヶ月が経過した。お盆明けに現場の前を通ると基礎鉄筋配筋工事に入っていた。
工事現場の北約150メートルの位置にあるのがクラースマンションギャラリー(野上町1丁目2‐11)。こちらの施設はずっと使い回しており無駄がない(笑)
工事現場の北約150メートルの位置にあるのがクラースマンションギャラリー(野上町1丁目2‐11)。こちらの施設はずっと使い回しており無駄がない(笑)
杉之原酒店やガンボなどが取り壊されて跡地に月極め駐車場と家が出来た。テナントを募集していた新築物件にはガッツレンタカー福山店が入った。
旧店舗はリムの南側、西町1丁目6‐23にあった。2階の壁にネイル・エステ・ダイエット・リラクゼーション「NATURAL」の看板が取り付けられた建物だ(3枚目の写真は昨年10月中旬に撮影した)。現在地に移転したのは8月4日(金)という。
旧店舗はリムの南側、西町1丁目6‐23にあった。2階の壁にネイル・エステ・ダイエット・リラクゼーション「NATURAL」の看板が取り付けられた建物だ(3枚目の写真は昨年10月中旬に撮影した)。現在地に移転したのは8月4日(金)という。