寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

年越しそばを食す

2008年12月31日 | 家飯

年越しそばは毎年私が作り、家族と一緒に食べる。関東のそば(乾麺)に西の出汁を合わせる。東西の良いとこどりだ。出来合いの海老天をのせて少し豪華になった。

汁を全部飲んで今年の出来事を振り返った。大病もせずに平成21年を迎えることができるのは非常にうれしい。陰で私を支えてくれた多くの人達(読者を含む)にこの場を借りて感謝を申し上げる。

当ブログは丸4年続いたことになる。これには飽き性の私自身が一番驚いているのだ。一貫して私が守ってきたのは「嘘を書かない」ことである。自分の足と目と耳と舌を使ってネタを仕入れてきた。

「実際に見ていないことを見たかのように記す」のは「才能」でも何でもない。それは単なる「欺瞞」で最低の人間の行いである。

力量のある人間であれば「偽(=黒であり悪)」を一発で見抜く。薄っぺらの「知識」を自慢するような浅はかな人間を私は絶対に信用しない。幅広い「知識」から有益なものを選択して使う「知恵」がある人がこの場に集まっていると信じたい。

「他人のアラ捜しを生き甲斐とする畜生」と「他人の長所を素晴らしいと思って己の成長の糧とする大人」とはどちらが幸せだろうか(笑)

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鱈(タラ)の白子

2008年12月31日 | 食材

西日本の人間は鱈(タラ)という魚を軽く見ているような気がする。東北地方で新鮮なタラを食べたことがないから白子や真子がメインで身の方はあまりおいしくないと思っているのだ。

鱈は鯛やアンコウのようにほとんど捨てるところのない立派な魚である。内臓まで使う鱈鍋は寒さの厳しい土地で暮らす人達の知恵によって生まれた。食べ物を使い切ることには腹を満たす目的の他に海の恵みへの感謝も込められていると思う。

鱈の身の昆布じめで酒を飲み、家族と鍋を囲む風景はいつまでも続いてほしい。平成20年は暗い話題が多過ぎた。不況はしばらく続くと考えられ、庶民の生活は身の丈にあったものになってきた。

来年は国民一人一人が節約のために更に知恵を絞ることになるだろう。本当に必要な物だけ買えば日頃からどれだけ金を無駄に使っていたか気づくはずだ。

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LED ZEPPELIN / ONE NIGHT STAND IN PARIS

2008年12月30日 | 洋楽

年末に突如リリースされたレッド・ゼッペリンのブートレッグ。昨年一大ブームとなった「OLYMPIA 1969」と同内容であるが、鬱陶しくてたまらなかったフランス人DJのコメントが1枚目には入っていないのがミソ。

「ジミー・ペイジは最初からギターが下手だった」と勘違いしている人達にぜひとも聴いてほしい。エディ・ヴァン・ヘイレン級の凄腕だったとは決して言わないが、並以上の実力が昔は確かにあった。

1969年秋というとバンドの人気は鰻上りの時期で非常に熱い演奏をしている。ペイジの身勝手なリズム感を堪能するには最適のCDだ。久しぶりにパリ公演を通して聴き、器用なジョンジーがいたからこそレッド・ゼッペリンは大きな成功を収めることができたのだと感じた。

ペイジと顔が瓜二つの「高見のっぽ」さんは晩年に一花咲かせた。「本家」にももう少し頑張ってもらいたいところだが、才能と情熱が失われた現在では到底叶わぬ夢である(笑)

1969年のパリ公演を収録した新旧ブートレッグ

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小慈姑の素揚げ

2008年12月30日 | 食材

慈姑の汚れを落としてタオルで水気をふき取る。これをサラダ油で狐色になるまで揚げて塩を軽く振る。誰にでもできる簡単な料理で、えぐみが抜けて食べやすい。

オツな酒のつまみとして人気がある。スナック菓子の好きな子どもにも受け入れやすい味だろう。大きな慈姑を使う場合は輪切りにして揚げるとよい。

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畑のサファイアと呼ばれる慈姑

2008年12月29日 | 食材

私の故郷は慈姑の生産量で確か日本一である。幼い頃は嫌いな食べ物のベスト3に入っていたが、三十路を過ぎた辺りから好物になった。12月の始めに出回る小慈姑を最上とする。「芽が出る」ということから御節には欠かすことのできない食材だ。

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「横浜線」開業100周年

2008年12月28日 | 

明治41(1908)年9月23日に横浜鉄道が開業(東神奈川~八王子間)してから今年は100年目に当たる。

「せっかく横浜に来たんだから写真を撮っておいたら」と名人に勧められて「横浜線」の電車をホームから撮影した。電車には「開業100周年」のヘッドマークが取り付けられている。

「横浜線」を利用して郊外の花園に出かけることになった。車窓からの眺めは「見所満載の絵巻物」で私はとうとう一睡もできなかったのである(大笑い)

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勝烈庵馬車道総本店で昼食をとる

2008年12月27日 | 

横浜市中区常盤町の「勝烈庵馬車道総本店」に到着した。正午ジャストであったが、既に一階は満席で待ちが出ていた。私達は二階に上がり名物の「勝烈定食」を注文した。

ここは棟方志功が愛した店で、看板は彼の手によるものだ。定食とグラスビールを運んでくれた女性従業員(お母さん)が「ご飯とキャベツはおかわり自由ですから」と言った。もちろんそうするつもりだ(笑)

「勝烈定食」は1480円

ヒレ肉に肌理の細かいパン粉をつけて揚げるので「くどさ」を全然感じない。あっさりしていて非常に美味しい。私が衣を噛む瞬間に「軽さ」を感じたのはこの店だけである。

勝烈のやわらかさは特筆すべきものがある。これなら歯の悪いお年寄りでも大丈夫だ。自家製ソースは野菜と果実の素直な甘さが出ており、質が高い。

じじみの味噌汁と佃煮がついているので和食と考えてよかろう。コートレット(カツレツ)を日本人の口に合うようアレンジし直した初代の先見性に脱帽である。

名人は店を出てから私にこう話しかけた。

「いい店を教えてくれて本当にありがとう」

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横浜の悪所に向かう(その10)

2008年12月26日 | 

真金町1丁目の「公園」から「横浜橋商店街」に戻る途中、可愛らしい屋根の古い建物を見つけた。二階で婆さんが洗濯物を干しているところだった。路地から物珍しげに見上げる私達に気付いて敵意の眼差しを向けた。

真金町に残る古い建物

過去に数え切れないほどの泥を舐めた女の皺くちゃ顔は獣のようであった。どんなに新しいマンションができようともこれまでの歴史が容易に消えるわけでもないことを悟ったのである。

大勢の人で賑わう「大通り公園」

弥生町の非常に細長い「大通り公園」を見て大阪市西成区の「三角公園」を懐かしく思い出した。炊き出しでもやっているのかと近づいてみると市が開かれていた。近くに「辨天湯」という銭湯があった。

横浜市中区弥生町の「辨天湯」

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横浜の悪所に向かう(その9)

2008年12月26日 | 

「名人、真金町界隈を少し歩いてみよう。赤線の頃の建物は残っていないという話だけど、痕跡らしきものはあるかもしれん」

「わかった。気の済むまで見てくれ(笑)」

中央分離帯から左に曲がった先に古いアパートがあった。横浜空襲後に建てられたものだろう。私は似たような建造物を「鳩の街」で見ていたのでニヤリとした。名人は目を細めてしきりに頷いていた。

真金町では床屋を複数確認できたが、気になった建物がこれである。二階上部の装飾が一風変わっている。

二階の壁に丸みをつけた「床屋」

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横浜の悪所に向かう(その8)

2008年12月25日 | 

「金刀比羅大鷲ことひらおおとり神社」は「お酉さま」とも呼ばれ「真金町交番」のちょうど背後にある。戦前(戦後も)遊女が逃亡しないように監視する「請願巡査」が横浜橋に置かれたというが、それは「とんかつ梅月」のある辺りだったのだろうか。

遊廓の守護神でもあった「金刀比羅大鷲神社」

神社の敷地の角には「遊廓」と刻まれた太い石柱が立っている。判別しやすいように画像には赤で着色を施した。寄進者の中に桂歌丸さんの名前を見つけた。祖母タネさんが営む「冨士楼」は真金町2丁目にあった。

大鷲神社の外柵に桂歌丸さんの名前がある

神社前の中央分離帯では子どもが無邪気に遊んでいた。過去の歴史はまったく知らないのであろう。遊廓(戦後は赤線)のあった真金町及び永楽町は閑静な住宅街になっている。

「大鷲神社」前から真金町遊廓跡を望む

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横浜の悪所に向かう(その7)

2008年12月25日 | 

色街を抜けて「横浜橋商店街」のアーケードが見えた。ここから南区に変わる。「精肉店」前の錆びたドラム缶を覘くと焼き豚を作っていた。いい焼き色で涎がこぼれそうになった。

店先のドラム缶で主が焼き豚を作っていた

南警察署「真金町交番」

レトロな造りの「真金町まがねちょう交番」に目をやった私はふとあることを思い出したのである。

「そうそう桂歌丸師匠は真金町で生まれたんだよ。お婆さんが冨士楼という遊廓を経営していた。真金町の三大ばばあと恐れられて地回りの与太者ですら彼女のために道をあけたとか(笑)」

「へえー。凄い婆さんがいたんだ。歌丸さんはもう少し早く生まれていれば遊廓の主になっていたかもね」

「真金町遊廓跡はこの近くのはずだ。師匠の本名は何だったかな。うーん、思い出せんわ」

「携帯で調べてみよう・・・・・判った、椎名さんだ」

私達は交番そばの小道を通って真金町1丁目に出た。左手に「大衆食堂」「スナック」「寿司屋」が並び、右手には「有名な神社」が鎮座していた。

横浜市南区真金町1丁目3にある「飲食店(横浜橋商店街の裏手)」

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横浜の悪所に向かう(その6)

2008年12月24日 | 

横浜市中区曙町は現役の色街である。通りを高級外車が行き交うのを見て名人が呟いた。

「いやに黒い車が多いね」

「そうだな。運転してるのは裏稼業の人ばかりだ。昼前から店が開くので下の者の仕事をチェックしに来てるんだろう」

3丁目に入ったとたん、私は目ぼしい建物を見つけて指差した。

横浜市中区曙町3丁目のスナック

「このスナックは戦後すぐに建てられたものだと思う。丸柱に原色のタイル、赤線の時代に流行したスタイルだ。曙町にこの種の建物が残っているとは思わなかったよ。足を棒にして歩いた甲斐があった(笑)」

「なるほど。赤線の遺構か。また一つ勉強になった」

スナックの側面

「料理屋」と「風俗店」がごっちゃになった界隈を歩いても不思議といやらしさは感じなかった。暇そうな「魔法のア●ジ●」のボーイが写真だけでも見てくれとしきりに頼むのには往生した。
隣の末吉町にも「遊び場」がある


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横浜の悪所に向かう(その5)

2008年12月24日 | 

旧「ちょんの間」見学を終えて「太田橋」の袂に出た。強い日差しに目を細めた。私達は「大岡川」に沿って引き返すことにした。色街の近くにあるものは「一膳飯屋」「理髪店」「銭湯」だけではない。特殊な「病院」が黄金町にも存在していた。

産婦人科の看板に「優生保護法指定医」とあるのを私は見逃さなかった。これは「人工中絶手術」を行うことのできる資格を持った医者という意味である。

ここは娼婦を専門に診察する病院であった可能性が強い。金銭関係で成立する「営み」によって不幸にも芽生えた「命」を摘む仕事人がいたことは記憶に留めておく必要があろう。

大岡川に架かる「黄金橋」を渡れば歓楽街

「黄金橋」を渡り末吉町に入る。元祖牛鍋屋として有名な「太田なわのれん」の位置を確認して歓楽街に移動した。

明治期の牛鍋にこだわる高級店「太田なわのれん」

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横浜の悪所に向かう(その4)

2008年12月23日 | 

黄金町(こがねちょう)は昭和38(1963)年に公開された黒澤明監督の映画『天国と地獄』の舞台になった。地元の人間が「以前は普通の人が歩くような場所ではなかった」と語るようにヤクの密売人や娼婦などが集まる危険な町だった。

左端の建物が「権兵衛(横浜市中区黄金町)」

昭和30年頃に開店した大衆食堂「権兵衛」。女主人・富永さんはあるテレビ局の取材を受けて当時の治安の悪さについて「・・・いろんなことがあり、いろんな人がいた・・・」と言葉を選んで回想していたのが印象的である。

黄金町の「小料理屋」

「小料理屋」の古ぼけた掲示板が、かつてここでは非合法の商売が公然と行われていたことを静かに物語っていた。

「小料理屋」の壁に残る従業員急募の掲示

京急による耐震補強工事終了後に、横浜市が高架下を借り上げて地域住民が利用できる「スタジオ」を作った。「ちょんの間」跡にも変化が見られる。「ライヴバー」や「たこ焼きバー」などができて、クリーンな町作りが着実に進んでいる。

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横浜の悪所に向かう(その3)

2008年12月23日 | 

好い天気で汗ばむほどである。「雨男」という不名誉なあだ名をつけられている私はうれしかった。「大岡川桜桟橋」を通過して奇妙な一角が視界に入った。名人が口を開いた。

「君が言ってたのはアレかい?」

「うん。緑色の屋根が見えるだろ。あの建物を起点として両側にびっしり店が並んでいる。数年前まで、ちょんの間があった。多国籍の女性がうろうろしていたんだ」

「・・・・・」

「さあ、行こう」

横浜市中区日ノ出町のガード下

私達はガード下を歩いた。県警の大規模な摘発があって「ちょんの間」は消滅したが、今でも周辺には警官が立っているし、老人が組織した自警団のようなものも見た。絶えず監視を続けなければ何が起こるかわからないということなのだろう。

自転車を利用して布団を干す住民あり

「自転車に布団をのっけるのは学生時代に俺もやったよ。物干し竿もない日当たりの悪いところで暮らしてたからね。ああする他なかった(笑)」

「〇〇臭い下宿だったな。ゴキブリの館とか言ってなかった?」

「そう。古い建物で床板の節穴からゴキちゃんが侵入してきて安眠を妨げたもんだよ。夜中ゴソゴソという音を聞くのは気持ち悪かったな。包丁で叩き潰すのが日課になってたほどだ(笑)」

「それは酷い。想像したくもない」

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