忠海の川下地区とは大砂川の河口周辺を指すものと思われる。つまり現・忠海中町1丁目のことで、広義では忠海床浦1丁目まで含むのかもしれない。
私は大砂川に架かる「鍵坪橋」東詰より対岸の汲み取り便所の脱臭筒(城山市営住宅)を眺めた。住宅のすぐ南西に位置する城山(多儀城跡=大正公園※1)の東が海水浴場であった(※2)が、その後埋め立てられて某会社の所有地となっている。
遊廓跡から橋を渡った先が海水浴場だったことに若干驚いたが、砂浜及び海のきれいな所(※3)だから納得はできる。河口ではおっさんが1人釣りをしていた。
※1
大正公園
町の西南白砂青松の海岸に突出する小山と、海将、浦宗勝公の古城跡である。古松の枝姿おもしろく、日清・日露の英霊を祀る忠魂碑あたりからは、芸予水道を一眸におさめる奇観である。またこの辺りは海水浴場としても絶好のところとなつている。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年発行)』P.149
※2
大正十二年七月廿日 川下に忠海海水浴場を設く
『忠海案内(昭和十年発行)』P.17
※3
忠海町略年譜(明治・大正・昭和)
昭和二年 大毎主催の日本新百景に忠海海岸入選。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年発行)』P.34
私は大砂川に架かる「鍵坪橋」東詰より対岸の汲み取り便所の脱臭筒(城山市営住宅)を眺めた。住宅のすぐ南西に位置する城山(多儀城跡=大正公園※1)の東が海水浴場であった(※2)が、その後埋め立てられて某会社の所有地となっている。
遊廓跡から橋を渡った先が海水浴場だったことに若干驚いたが、砂浜及び海のきれいな所(※3)だから納得はできる。河口ではおっさんが1人釣りをしていた。
※1
大正公園
町の西南白砂青松の海岸に突出する小山と、海将、浦宗勝公の古城跡である。古松の枝姿おもしろく、日清・日露の英霊を祀る忠魂碑あたりからは、芸予水道を一眸におさめる奇観である。またこの辺りは海水浴場としても絶好のところとなつている。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年発行)』P.149
※2
大正十二年七月廿日 川下に忠海海水浴場を設く
『忠海案内(昭和十年発行)』P.17
※3
忠海町略年譜(明治・大正・昭和)
昭和二年 大毎主催の日本新百景に忠海海岸入選。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年発行)』P.34
「おはようございます。この辺りは昔お盛んだったと聞きますが…」
老人はきっと嫌な顔をすると予想した私だったが、取り越し苦労であった。お前さんも好きじゃのぅと言いたげな笑みを浮かべて彼は語り始めたのだ。
「ほうよ。…ここらは女郎屋でな。店の前が雁木じゃった」
色街の生き字引と表現してもよい男性は格子戸の家の前で昔を懐かしむかのように話を続けた。
「ようけ(遊)女が並んどったわ。じゃが、わしは一度も(店には)上がったことがないんよ。今から思うと惜しいことをしたなー。ハハハハハ…」
西村晃そっくりの高い声につられて私もヘラヘラ笑った。しっかりとした足取りで湊明神社の方へ歩いて行く黄門さまを見送り頭を下げた。若き日の男性が見た遊里の賑わいを想像し妓楼の裏手(すぐ西)を流れる大砂川河口へ歩を進めた。
老人はきっと嫌な顔をすると予想した私だったが、取り越し苦労であった。お前さんも好きじゃのぅと言いたげな笑みを浮かべて彼は語り始めたのだ。
「ほうよ。…ここらは女郎屋でな。店の前が雁木じゃった」
色街の生き字引と表現してもよい男性は格子戸の家の前で昔を懐かしむかのように話を続けた。
「ようけ(遊)女が並んどったわ。じゃが、わしは一度も(店には)上がったことがないんよ。今から思うと惜しいことをしたなー。ハハハハハ…」
西村晃そっくりの高い声につられて私もヘラヘラ笑った。しっかりとした足取りで湊明神社の方へ歩いて行く黄門さまを見送り頭を下げた。若き日の男性が見た遊里の賑わいを想像し妓楼の裏手(すぐ西)を流れる大砂川河口へ歩を進めた。
塩浜(塩田)の西沖堤に鎮座していた湊明神社。祭神は厳嶋明神、塩浜(正徳年間にできた)の守り神である。江戸時代の忠海地図(文政年間発行の「芸藩通志」より)を参考にするとJR忠海駅の南側が塩浜の跡地で肥料会社やジャム製造会社が出来ている。
社の敷地隅に建つ高さ50センチほどの石柱に文化十四年(※1817)奉寄進と彫られていることから、19世紀の初めには既に地域住民によって祀られていたことになる。この円柱石造品が船繋ぎ石の一部なのか、それとも橋欄干の石柱なのかは私には分からない。
元妓楼及び湊明神社前の道の大部分は江戸時代海だったと考えられる。社の前にはおそらく雁木が設けられていたはずだ。手持ちの資料が少ないので自信はないが、幕藩体制崩壊後、船入堀に面した向町にあった遊女屋が川下地区に移転し遊廓として認可されたのではないだろうか。
社の敷地隅に建つ高さ50センチほどの石柱に文化十四年(※1817)奉寄進と彫られていることから、19世紀の初めには既に地域住民によって祀られていたことになる。この円柱石造品が船繋ぎ石の一部なのか、それとも橋欄干の石柱なのかは私には分からない。
元妓楼及び湊明神社前の道の大部分は江戸時代海だったと考えられる。社の前にはおそらく雁木が設けられていたはずだ。手持ちの資料が少ないので自信はないが、幕藩体制崩壊後、船入堀に面した向町にあった遊女屋が川下地区に移転し遊廓として認可されたのではないだろうか。
2年前の新聞を読み返してみると実に笑える。政権交代に大きな期待を寄せる記者に対して当時から私の見方は冷ややかであった。自分があの頃危惧したことの多くは現実となってしまった。
今年の8月6日、広島の講演会で田母神俊雄さんは「信じる者は騙される」と発言して会場を沸かせたが、皮肉にもこの言葉の意味を噛み締めたのは東北の民ではなかっただろうか。混沌とした政治の世界では迷惑な鷺に続いて閑古鳥がヨロヨロと羽ばたこうとしている。次に飛んで来るのが鬼車鳥でないことを祈るばかりだ。
早急な厄災封じ(解散総選挙)が必要と考える庶民が日に日に増えているのは自然な流れだ。そろそろ我々自身(真の日本国民)の手で「民意」という言葉を復活させねばなるまい(笑)
今年の8月6日、広島の講演会で田母神俊雄さんは「信じる者は騙される」と発言して会場を沸かせたが、皮肉にもこの言葉の意味を噛み締めたのは東北の民ではなかっただろうか。混沌とした政治の世界では迷惑な鷺に続いて閑古鳥がヨロヨロと羽ばたこうとしている。次に飛んで来るのが鬼車鳥でないことを祈るばかりだ。
早急な厄災封じ(解散総選挙)が必要と考える庶民が日に日に増えているのは自然な流れだ。そろそろ我々自身(真の日本国民)の手で「民意」という言葉を復活させねばなるまい(笑)
熟年ファイターズは地元広島の名所、歴史、食文化などを紹介するテレビ番組(広島ホームテレビ制作)である。民放各社同様の番組を拵えているが、面白さと質の高さでは熟ファイが一番だ。主役なべさんの駄洒落を軽く流すだいちゃん(まっちゃんやみのりさん)がいい味を出している。出演者の分をわきまえた口のきき方などは本当に好感が持てる。
私が熟ファイを高く評価する最大の理由は歴史の明暗を取り上げる際にさりげなくタブーにも触れることだ。それは一級品の写真や資料をこれ見よがしに出すことよりもはるかに重要である。そして「過去にこんな経緯がありました。皆さんはどう思われますか。じっくり考えてみて下さい」というスタンス(社の考えを押し付けることなく問題提起にとどめる)が備後人には気持ちよくて受け入れやすい。
番組制作スタッフはインターネット社会が確立された中でのテレビのあり様(生き残り戦略)をよくよく考えていると思う。「過ぎたるはなお及ばざるが如し」という諺を熟知した知的センス溢れる人たちは今後もあっと言わせる番組を作ってくれることだろう。
私が熟ファイを高く評価する最大の理由は歴史の明暗を取り上げる際にさりげなくタブーにも触れることだ。それは一級品の写真や資料をこれ見よがしに出すことよりもはるかに重要である。そして「過去にこんな経緯がありました。皆さんはどう思われますか。じっくり考えてみて下さい」というスタンス(社の考えを押し付けることなく問題提起にとどめる)が備後人には気持ちよくて受け入れやすい。
番組制作スタッフはインターネット社会が確立された中でのテレビのあり様(生き残り戦略)をよくよく考えていると思う。「過ぎたるはなお及ばざるが如し」という諺を熟知した知的センス溢れる人たちは今後もあっと言わせる番組を作ってくれることだろう。
昭和5(1930)年発行の「全国遊廓案内」には川下遊廓が忠海町遊廓として以下のように紹介されている。
忠海町遊廓は広島県豊田郡忠海町に在つて、山陽本線本郷駅から東へ約一里半、乗合自動車及乗合馬車の便がある。鞆又は呉から船で行くのも面白い。貸座敷は目下四軒程で、娼妓は約二十人程居るが、九州及四国の女が多い。店は陰店を張つてゐて、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやつてゐない。遊興は時間、仕切、泊花制で、費用は一時間一円二三十銭、一仕切は二円七十銭位で、一泊の通し花は五六円見当である。台の物は着(※ママ)かない。
客が6キロも離れた本郷駅から移動することに驚かれる人がいるだろうから説明しておこう。実はこの時点で忠海駅はまだ存在していない。三呉鉄道の停車駅として忠海駅が開業するのは昭和7年7月である。私はむしろ福山の鞆の津から遊び人が船に乗って登楼した(であろう)という記述に注目した。
玄関先に唐破風屋根がある元妓楼の向かいは公園のように見えたが、違っていた。大木の近くには忠海の歴史を知る上で重要な神様が祀られていたのである。
忠海町遊廓は広島県豊田郡忠海町に在つて、山陽本線本郷駅から東へ約一里半、乗合自動車及乗合馬車の便がある。鞆又は呉から船で行くのも面白い。貸座敷は目下四軒程で、娼妓は約二十人程居るが、九州及四国の女が多い。店は陰店を張つてゐて、娼妓は全部居稼ぎ制で送り込みはやつてゐない。遊興は時間、仕切、泊花制で、費用は一時間一円二三十銭、一仕切は二円七十銭位で、一泊の通し花は五六円見当である。台の物は着(※ママ)かない。
客が6キロも離れた本郷駅から移動することに驚かれる人がいるだろうから説明しておこう。実はこの時点で忠海駅はまだ存在していない。三呉鉄道の停車駅として忠海駅が開業するのは昭和7年7月である。私はむしろ福山の鞆の津から遊び人が船に乗って登楼した(であろう)という記述に注目した。
玄関先に唐破風屋根がある元妓楼の向かいは公園のように見えたが、違っていた。大木の近くには忠海の歴史を知る上で重要な神様が祀られていたのである。