JR西日本の高架下(寺町橋りょう付近)から道路を横断して北へ向かう。洞林寺西角、ナチュラルケアサロン「Sari(東町2丁目4-33)」前(西側)に1体の法界萬霊地蔵尊が祀られている。
私はその答えは「聞書き東学区物語・復刻増補版」の中にあった。
私は長い間地蔵の位置を不思議に思っていたが、ついに答えを「聞書き東学区物語・復刻増補版」で見つけた。地元ではふみ切地蔵と呼ばれ、山陽線の人身事故で無くなった人を供養するために昭和四年(1929)一月に建立されたものだった。寺町橋りょうの下付近にかつて無人の踏切があって自殺者が何人も出たという話である。
私の父が「汽車が停まると皆轢死体を見に行ったもんだ」と語っていたが、それはごく普通の光景だったと前述の本にも記述がある。線路が走っていた部分は土手のように盛り上がっていたことだけは私の微かな記憶として残っている。
私はその答えは「聞書き東学区物語・復刻増補版」の中にあった。
私は長い間地蔵の位置を不思議に思っていたが、ついに答えを「聞書き東学区物語・復刻増補版」で見つけた。地元ではふみ切地蔵と呼ばれ、山陽線の人身事故で無くなった人を供養するために昭和四年(1929)一月に建立されたものだった。寺町橋りょうの下付近にかつて無人の踏切があって自殺者が何人も出たという話である。
私の父が「汽車が停まると皆轢死体を見に行ったもんだ」と語っていたが、それはごく普通の光景だったと前述の本にも記述がある。線路が走っていた部分は土手のように盛り上がっていたことだけは私の微かな記憶として残っている。
うなぎ屋「千里十里(福山市伏見町3-20)」前から東方の「NTT西日本中国営業部(以前は福山支店という名称だった)」を望む。今月16日(土曜)天満屋福山店前に展示された「古今福ノ図(昭和30年版)」には何と戦後の闇市が最終的に集約された場所が載っていた。
それがまさにNTT西日本ビルの西端、ほぼ中央辺りである。父から闇市の話は何度も聞いたことがあった。市は駅の北口に形成されたが、しばらくして南口に移ったという。労働者向けにそれなりに美味しい物を安く食わせる怪しい界隈が現伏見町だったのである。
母の話はもう少し年代が下る。彼女は映画「青い山脈(昭和24年夏公開)」を友達と見た帰り闇市に寄った。しょうもない食べ物が「鷗州塾(宝町4-1)」から「松岡病院(同町5-32)」辺りまで売られていたとか。当時は治安が悪くて女一人で歩けるような場所ではなかったらしい。
最近父は闇市で派手に窃盗を繰り返した一団(学生)のことを教えてくれた。窃盗団のボスは地元の名門旧制中学OBで札付きの悪(E進が多かったw)に逐一指示を出していた。何の因果か垢党の細胞としての顔を持つボスは私の中学のPTA役員に就任した。下腹の出た彼は事あるごとに中学に招かれて祝辞を述べたが、いつも早々に打ち切らざるを得ない状況に追い込まれた。
不良を中心とした男子生徒が広島県立体育館で糸井五郎氏に無礼をはたらいた観客と全く同じことをしたのである。講堂での黒狸(元窃盗団ボスに我々がつけたあだ名)帰れコールは伝説になった。垢が大嫌いな私でさえ流石にこれはやり過ぎだと思った。悪ガキに叩かれまくる黒狸を前に実の娘(同級生)は俯き可哀想だった。親が垢にかぶれたことが結果的に子の人生を大きく変えてしまったことを残念に思う。
それがまさにNTT西日本ビルの西端、ほぼ中央辺りである。父から闇市の話は何度も聞いたことがあった。市は駅の北口に形成されたが、しばらくして南口に移ったという。労働者向けにそれなりに美味しい物を安く食わせる怪しい界隈が現伏見町だったのである。
母の話はもう少し年代が下る。彼女は映画「青い山脈(昭和24年夏公開)」を友達と見た帰り闇市に寄った。しょうもない食べ物が「鷗州塾(宝町4-1)」から「松岡病院(同町5-32)」辺りまで売られていたとか。当時は治安が悪くて女一人で歩けるような場所ではなかったらしい。
最近父は闇市で派手に窃盗を繰り返した一団(学生)のことを教えてくれた。窃盗団のボスは地元の名門旧制中学OBで札付きの悪(E進が多かったw)に逐一指示を出していた。何の因果か垢党の細胞としての顔を持つボスは私の中学のPTA役員に就任した。下腹の出た彼は事あるごとに中学に招かれて祝辞を述べたが、いつも早々に打ち切らざるを得ない状況に追い込まれた。
不良を中心とした男子生徒が広島県立体育館で糸井五郎氏に無礼をはたらいた観客と全く同じことをしたのである。講堂での黒狸(元窃盗団ボスに我々がつけたあだ名)帰れコールは伝説になった。垢が大嫌いな私でさえ流石にこれはやり過ぎだと思った。悪ガキに叩かれまくる黒狸を前に実の娘(同級生)は俯き可哀想だった。親が垢にかぶれたことが結果的に子の人生を大きく変えてしまったことを残念に思う。
福山市中心部の古代から現在に至るまでの歴史(特に戦前の話)を手早く調べるのに最適の書である。原本は昭和62年(1987)6月の発行。私が言論の自由のある広島市へ移住した直後にあたる。このため本書の存在を知ったのは随分後のことだ。古書店で高額で取り引きされていたところへ復刻版が出た。冒頭の一節を紹介しておく。
今、私たちが住んでいる福山の中心部は、大昔はどんな土地だったのだろう。城下町ができる前はどんな様子だったのだろう。おそらく芦田川の河口にできたデルタ地帯で、十分には固まっていない、人の住まない砂地または沼地であっただろうと想像できる。
古くは、万葉集にうたわれた深津島山の深津郷があり、穴の海のころから海辺の港であった吉津があり、奈良へ向けて背後の神辺方面から運ばれてきた米を積み出したと伝えられる奈良津があった。
常興寺山(今の城址)とそのまわりには人が住み、半農半漁のくらしをしていただろうと思われる。
東学区に関係する地域は、職人町の米屋町・桶屋町・上魚屋町・品治郡府中から移住させた府中町・天下橋に通じる大通りの本町、北郊の集落吉津町、のち、通り町になった胡町・大黒町、そして武家屋敷の西町(天神川筋を本町まで)と東町。さらに東に大きく広がっていた三吉村である。
古老の回想と添付された昔の地図は大変貴重で街歩き(穴場巡り)が一層楽しくなるはずだ。東公民館の人の話では2200部印刷したという。城下町育ちの人達のマストアイテムとなることだろう。ちなみに広島銀行福山胡町支店の雑誌コーナーに本書が置いてあるので購入前に内容を調べることも可能だ。銀行振込に訪れた年寄が手に取って熟読するだけのことはある。
今、私たちが住んでいる福山の中心部は、大昔はどんな土地だったのだろう。城下町ができる前はどんな様子だったのだろう。おそらく芦田川の河口にできたデルタ地帯で、十分には固まっていない、人の住まない砂地または沼地であっただろうと想像できる。
古くは、万葉集にうたわれた深津島山の深津郷があり、穴の海のころから海辺の港であった吉津があり、奈良へ向けて背後の神辺方面から運ばれてきた米を積み出したと伝えられる奈良津があった。
常興寺山(今の城址)とそのまわりには人が住み、半農半漁のくらしをしていただろうと思われる。
東学区に関係する地域は、職人町の米屋町・桶屋町・上魚屋町・品治郡府中から移住させた府中町・天下橋に通じる大通りの本町、北郊の集落吉津町、のち、通り町になった胡町・大黒町、そして武家屋敷の西町(天神川筋を本町まで)と東町。さらに東に大きく広がっていた三吉村である。
古老の回想と添付された昔の地図は大変貴重で街歩き(穴場巡り)が一層楽しくなるはずだ。東公民館の人の話では2200部印刷したという。城下町育ちの人達のマストアイテムとなることだろう。ちなみに広島銀行福山胡町支店の雑誌コーナーに本書が置いてあるので購入前に内容を調べることも可能だ。銀行振込に訪れた年寄が手に取って熟読するだけのことはある。
本日午後8時過ぎ売国奴仕置法案が衆議院で可決され参議院へ回された。左傾メディアは法案に反対するデモ活動の映像を垂れ流していたが、年老いた参加者の姿がその昔大学の入学式会場(レッド・ゼッペリンが初来日の際コンサートを行ったことで有名)前でわめいていた過激派とダブって見えた。
「知る権利が侵害される」とヒステリックに話す輩ほど自分にとって都合の悪い事を隠蔽するものである(実際、報道しない自由を謳歌し眠巣を無理に持ち上げていた屑こそがトクアの犬だった)。国は悪いウイルスに侵された犬を早急に捕獲し、安全な環境に戻していく責任がある。治癒が困難な畜生に関しては処分もやむを得ない。垢落としの作業は始まったばかりだ。
「知る権利が侵害される」とヒステリックに話す輩ほど自分にとって都合の悪い事を隠蔽するものである(実際、報道しない自由を謳歌し眠巣を無理に持ち上げていた屑こそがトクアの犬だった)。国は悪いウイルスに侵された犬を早急に捕獲し、安全な環境に戻していく責任がある。治癒が困難な畜生に関しては処分もやむを得ない。垢落としの作業は始まったばかりだ。
旭市場裏の路地を南へ進む途中、本通ファーストに出ることもできる。最初の写真は路地から西方のダイアパレスプラザ本通り(福山市笠岡町1‐13 ※1階がとおり町交流館)を撮影したものだ。
クサハラ結納品店(同町1-16)前からアーケード商店街の北方を望む。左手がダイアパレスプラザ本通り、右手中央辺りが大黒薬局である。この位置から昭和30年代にタイムトリップしてみよう。
マンションが出来た敷地の南端には和菓子屋の三河屋(沖野上町4丁目に移転し営業を続ける)があり、大黒薬局の手前に映画館の小さな立看が置かれている。大黒座の横に新天地大映と太字で書いてあるのだが、新天地大映は現シネフクの中央部に相当する。ほんどおるピック建設前の賑やかな本通を捉えた貴重な写真は、まちなか交流ぷらざ(今町4-23)の中に飾ってあるはずだ。
クサハラ結納品店(同町1-16)前からアーケード商店街の北方を望む。左手がダイアパレスプラザ本通り、右手中央辺りが大黒薬局である。この位置から昭和30年代にタイムトリップしてみよう。
マンションが出来た敷地の南端には和菓子屋の三河屋(沖野上町4丁目に移転し営業を続ける)があり、大黒薬局の手前に映画館の小さな立看が置かれている。大黒座の横に新天地大映と太字で書いてあるのだが、新天地大映は現シネフクの中央部に相当する。ほんどおるピック建設前の賑やかな本通を捉えた貴重な写真は、まちなか交流ぷらざ(今町4-23)の中に飾ってあるはずだ。
シネフク(映画館)と高層マンション・フラットリア笠岡(福山市笠岡町3‐5)の間に古びた建物がある。1階は旭市場と呼ばれ、昭和40年代の雰囲気が残る貴重な空間だ。
今でも「鳥政」という精肉店が営業を続けている。私は若い頃に水炊き用鶏のぶつ切りをここで購入していたが、最近では骨を外すのを嫌がる客が増えて置くのをやめたと奥さんが話していた。
フラットリア笠岡が竣工したのは平成20年(2008)年6月、斜向かいのフラットリア御船(御船町1丁目2‐19)は兄弟ビルである。マンションが出来る前は「まるきや(中華そば)」があり、隣の入口には「婆の園(妖怪屋敷)」の客引き(おっさん)が暇そうに立っていたことを思い出す。
今でも「鳥政」という精肉店が営業を続けている。私は若い頃に水炊き用鶏のぶつ切りをここで購入していたが、最近では骨を外すのを嫌がる客が増えて置くのをやめたと奥さんが話していた。
フラットリア笠岡が竣工したのは平成20年(2008)年6月、斜向かいのフラットリア御船(御船町1丁目2‐19)は兄弟ビルである。マンションが出来る前は「まるきや(中華そば)」があり、隣の入口には「婆の園(妖怪屋敷)」の客引き(おっさん)が暇そうに立っていたことを思い出す。