床屋から南に進路を変え「浄国寺」の前に出た。現在の土橋町はかつて西地方町という名だった。花街の名残とも言える置屋「広島券番」が寺のほど近くにある。
…西地方町の町名であるが、もともとこの界わいは広瀬村、のちには畳屋町といわれた。一般に近くの海を表わす場合「近海」というが、陸の場合は「地方」(じがた)という表現を使ったものである。そして「西」の字を使ったのは、東の台屋町の旧名「地方町」に対してつけたものといわれる。また、この町を「畳屋町」といったが、これはそのかみ毛利氏が吉田から広島に城を移した当時、畳職人がこの界わいに移住してきたので名付けられたという。
…浄国寺の土地は毛利輝元の別邸のあったところで、福島氏のときも下屋敷になっていたところである。
著者の少年時代の思い出には、この浄国寺の境内で大相撲が興行されて当時の奉納番付板が残されていた。名横綱常陸山の引退興行がこの境内で行なわれたのは、確か大正三年十月四日のことであった。
また、この浄国寺には延命地蔵があり、そのほかにも六つの石地蔵があった。この六地蔵の一つの首が、ピカドンで寺から三、四百メートルはなれていた土橋の近くに飛んでいたという。…この首はピカドン二年後にある人が拾って届けてくれ、六地蔵が全部揃ったという話を寺の人から聞いたが、原爆の爆発力がいかにすごいものであったかを物語るものである。
浄国寺の墓地…の一角には大正六年四月七日の火事で亡くなった広中券番(西地方町浅岡庄太郎氏の家)の芸妓の墓もある。
西地方町で忘れられないのは、浄国寺の隣にあった「三角」(さんかく)というウドン屋のことである。「三角」は文字通り三角形に建てられた店で、一串二銭だった極めて薄く切られた焼肉がうまかった。筆者たちが学生時代はもっぱらこの肉ウドンととりくんだものであった。
券番の前身は大手町二、三、四丁目界わいにそれぞれ置かれたのだが、明治二十六年から本川の西部に区域が決められ、西地方町に置かれることになった。そのころの券番は東遊廓券番、東券番、西券番の三つであった。東遊廓券番は別名を柳券といった。東券番といわれたのは西地方町にあった島津、藤見、篠原の三つの置屋の総称で、西遊廓にあった広中、竹中、柴田、木市の四置屋四軒が西券番といわれた。
「薄田太郎 / 続々がんす横丁(たくみ出版 昭和四十八年)」
…西地方町の町名であるが、もともとこの界わいは広瀬村、のちには畳屋町といわれた。一般に近くの海を表わす場合「近海」というが、陸の場合は「地方」(じがた)という表現を使ったものである。そして「西」の字を使ったのは、東の台屋町の旧名「地方町」に対してつけたものといわれる。また、この町を「畳屋町」といったが、これはそのかみ毛利氏が吉田から広島に城を移した当時、畳職人がこの界わいに移住してきたので名付けられたという。
…浄国寺の土地は毛利輝元の別邸のあったところで、福島氏のときも下屋敷になっていたところである。
著者の少年時代の思い出には、この浄国寺の境内で大相撲が興行されて当時の奉納番付板が残されていた。名横綱常陸山の引退興行がこの境内で行なわれたのは、確か大正三年十月四日のことであった。
また、この浄国寺には延命地蔵があり、そのほかにも六つの石地蔵があった。この六地蔵の一つの首が、ピカドンで寺から三、四百メートルはなれていた土橋の近くに飛んでいたという。…この首はピカドン二年後にある人が拾って届けてくれ、六地蔵が全部揃ったという話を寺の人から聞いたが、原爆の爆発力がいかにすごいものであったかを物語るものである。
浄国寺の墓地…の一角には大正六年四月七日の火事で亡くなった広中券番(西地方町浅岡庄太郎氏の家)の芸妓の墓もある。
西地方町で忘れられないのは、浄国寺の隣にあった「三角」(さんかく)というウドン屋のことである。「三角」は文字通り三角形に建てられた店で、一串二銭だった極めて薄く切られた焼肉がうまかった。筆者たちが学生時代はもっぱらこの肉ウドンととりくんだものであった。
券番の前身は大手町二、三、四丁目界わいにそれぞれ置かれたのだが、明治二十六年から本川の西部に区域が決められ、西地方町に置かれることになった。そのころの券番は東遊廓券番、東券番、西券番の三つであった。東遊廓券番は別名を柳券といった。東券番といわれたのは西地方町にあった島津、藤見、篠原の三つの置屋の総称で、西遊廓にあった広中、竹中、柴田、木市の四置屋四軒が西券番といわれた。
「薄田太郎 / 続々がんす横丁(たくみ出版 昭和四十八年)」
初めまして
護国神社の石灯籠に 昭和九年
西地方町 瀬川家と寄贈者の銘があり
聞いたことの無い地名だっだので調べたところこちらにたどり着きました
記事、大変興味深く拝読しました。
ありがとうございました。
護国神社の石灯籠もこの地に居られた方々も皆被爆されたのですね。