寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

古本まつり

2004年10月31日 | 
神保町をぶらりぶらりしました。Dancyuの創刊時期のものを2冊、400円で購入。これは掘り出しものでした。歩いて靖国神社へ。戦没者が今の日本を見てどう思うか。何がしたいのかも分からないような連中が増えてしまい、嘆かわしい限りです。憲法改正を行い、自分の国は自分で守るようにしたいと私は思います。議論の先送りばかりでは何も変わりません。評論家はまったく役に立たないということだけははっきりしております。
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レプトン

2004年10月30日 | 学生時代
千田キャンパス北門の向かいにあったレンタルCD屋。ここへはよく遊びに行ったものだ。新譜が出ても貧乏学生は購入する余裕などなかった。退屈な講義が終わると洋楽CDを借りてきてはせっせとカセットテープに落としていた。スティングの『ナッシング・ライク・ザ・サン』はその頃のお気に入りで、テープがのびるくらい聴いた。広島時代の思い出の店である。

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ロック・オデッセイ

2004年10月25日 | 洋楽
7月25日(日曜)大阪ドーム
WHOを見るために大阪へ行きました。あれから3ヶ月です。アリーナ2列目の真ん中という最高の席でした。アイ・カーント(イギリス訛り)・エクスプレインの気の抜けたような演奏には少しびっくりしましたが、徐々に盛り上がっていきました。大好きなピンボール・ウィザードが聴けたので満足でした。今回はブートレグを購入するのを見合わせておりました。ピートのオフィシャルサイトでこの日の演奏がCDとして販売されたことを知り、早速注文しました。JEFF BECKのオフシャル・ブートレグみたいな感じでしょうか。とにかく安く入手できるのがいい。ジャケのセンスの無さは我慢するしかありません(こういう所だけはブートを見習って欲しい)。
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西条での食生活その3

2004年10月23日 | 学生時代
2年の後期の試験でコース配属が決まった。この頃からだったろうか、学部のすぐそばにあったプレハブの食堂を利用することが多くなった。理由は2つある。まず味がよい。工学部まで歩いていくのがめんどくさくなったことも大きい。通称『せいせいしょくどう』。私は11時過ぎに、早昼を取っていた。学生で混雑するのが嫌であったし、好物の親子丼をゆっくり食べたかったのだ。この食堂の残骸はまだ残っている。
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西条での食生活その2

2004年10月18日 | 学生時代
日曜日は学生食堂も閉まり、自炊するか、外食するしかなかった。2年の後期は自分の下宿の近くにあったお好み焼屋へ行ったりもした。4年になると“ひでえ”と【ぱいぷ】という喫茶店で定食を食べることが多かった。食事の後に出されるウインナーコーヒーが気に入っていた。今から思うと、飲食店は大学付近にはほとんどなく、自転車という交通手段しか持たない我々は決まった場所で食事をしていたことになる。美食とはほど遠いにちがいない。しかしながら学食にはない雰囲気を味わえることがささやかな楽しみであった。
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西条での食生活

2004年10月17日 | 学生時代
専門へ上がってからは工学部の食堂か山中食堂を利用したものである。後者は寮の近くにあった食堂で、我々は『寮食』と呼んでいた。量の多さがウリで、野郎どもがおしかけて来た。


ビックリという有名なメニューがあった。これは私の体調がいい時でも、完食するのは困難であった。味は学生食堂の中でも最低ランクであっただろう。米は外米以上に不味く、嫌な臭いを発していた。焼そばを頼んで、中からゴキブリの死体が出て来たことがあったが、私はそれを指で取り除き、何事もなかったかのように食べた。そんな呑気な時代であった。
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西条の下宿

2004年10月16日 | 学生時代
私は農家の納屋の二階に下宿していた。隣には〝O田〟がいた。部屋の区切りはベニヤ板一枚でプライバシーもないようなものだった。私らは〝裏美〟を誘い、八本松に住んでいた〝Eタコ〟と麻雀を頻繁にした。することが他になかったとも言えよう。裏美は毒荘に住んでいた。当時出来立ての建物であったが、簡易水洗のため、異臭が漂っていた。大喪の礼の折、あまりに暇なので、彼とビデオを借りにチャリをこいで、駅の近くまで行った記憶がある。大学では弔旗が1週間掲げられていた。
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