蛙岩の前に立つ。名前の通り身の危険を感じた蛙が息を止めてじっとしている感じがよく出ている。岩の脇のプレートには伝説(昔話)について記述があった。
大昔、蛙岩がある辺は浅瀬でよく船が座礁していたという言い伝えが残っている。そして深津高地(深津嶋山)の周りは海で吉津や奈良津は港町であったという。つまり干拓によって海岸線は相当南に下りているのである。
深津郡深津村
當村近邊、元和、寛永の比迄者海にて、なら津、吉津、德田、道上の邊迄、船の往來有て、蛙岩 御座床の後に有 の峭(岨)に船を乗かけ、多く破損しけるとそ。藥師寺の邊も西濱とて干瀉なりしとそ。
『備陽六郡志』
備後国福山(城下町)は空襲で焼かれて何も残っていないと外野(米軍に無視され没落を続ける田舎町の住民)がピーチクパーチク喚いているのは大きな間違いである。念仏街道(福山⇔神辺)をはじめとして「これほど面白い街はそうそうない」とさえ私は思う。最近では大学教授や地元の歴史家が史跡巡りの地味な企画を立て希望者を案内しているが、もっと頻繁にやればいいのだ。
そこで重要なのは歴史の暗部についても勇気を持って触れることである。発展を続ける良い街とは「負の遺産」について自由に考え意見を述べ合える所だろう(駄目な町はこの逆だ)
大きい祠は昭和34年10月に創建された、比較的新しい港八幡神社である。城下町の発展を支えた運河・川・船溜まりを知る上で港町公園は外すことのできない場所と言ってもいい。
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大昔、蛙岩がある辺は浅瀬でよく船が座礁していたという言い伝えが残っている。そして深津高地(深津嶋山)の周りは海で吉津や奈良津は港町であったという。つまり干拓によって海岸線は相当南に下りているのである。
深津郡深津村
當村近邊、元和、寛永の比迄者海にて、なら津、吉津、德田、道上の邊迄、船の往來有て、蛙岩 御座床の後に有 の峭(岨)に船を乗かけ、多く破損しけるとそ。藥師寺の邊も西濱とて干瀉なりしとそ。
『備陽六郡志』
備後国福山(城下町)は空襲で焼かれて何も残っていないと外野(米軍に無視され没落を続ける田舎町の住民)がピーチクパーチク喚いているのは大きな間違いである。念仏街道(福山⇔神辺)をはじめとして「これほど面白い街はそうそうない」とさえ私は思う。最近では大学教授や地元の歴史家が史跡巡りの地味な企画を立て希望者を案内しているが、もっと頻繁にやればいいのだ。
そこで重要なのは歴史の暗部についても勇気を持って触れることである。発展を続ける良い街とは「負の遺産」について自由に考え意見を述べ合える所だろう(駄目な町はこの逆だ)
大きい祠は昭和34年10月に創建された、比較的新しい港八幡神社である。城下町の発展を支えた運河・川・船溜まりを知る上で港町公園は外すことのできない場所と言ってもいい。
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「港町公園はかなり前からありますよね。私は昭和50年代にここへよく遊びに来ました…」
「多分もっと前からあろー。何時かははっきりせんが」
「やっぱりそうですか。で、ここにヘンテコリンな石というか、岩がありませんでしたか?」
「そりゃー座床(ざどこ)の蛙岩のことじゃろ。あっちへ説明が出とるよ」
「あれですな。どうもありがとうございました」
老人が口にした座床とは江戸時代の船溜まり(運河の途中に設けられていた)のことである。私は公園内に建つ町民会館の名称が「座床館」であることを確認して「これが名残か」と呟いた。
坐床
公船ヲ收ル所ナリ水ハ手城ニカヽル故閘ハソノ村ニ屬ス
『福山志料』
水野家時代福山城下明細地図を見ると座床の位置はこの辺りであることが分かる。座床につながっているのが蓮池川で北方(上部)の橋が三枚橋である。
三枚橋は備後国の深津郡三吉村と同郡深津村を結ぶ橋(笠岡街道の一部)で非常に重要な意味を持っていた。現在川幅は水辺公園が出来てかなり狭くなっているが、国道2号線上の新橋から昔の情景を想像することはできる。
私は老人が指差した岩の方(公園の北東隅)へ歩いて行った。大小2つの祠の間に標識らしきものが立っているようだった。
「多分もっと前からあろー。何時かははっきりせんが」
「やっぱりそうですか。で、ここにヘンテコリンな石というか、岩がありませんでしたか?」
「そりゃー座床(ざどこ)の蛙岩のことじゃろ。あっちへ説明が出とるよ」
「あれですな。どうもありがとうございました」
老人が口にした座床とは江戸時代の船溜まり(運河の途中に設けられていた)のことである。私は公園内に建つ町民会館の名称が「座床館」であることを確認して「これが名残か」と呟いた。
坐床
公船ヲ收ル所ナリ水ハ手城ニカヽル故閘ハソノ村ニ屬ス
『福山志料』
水野家時代福山城下明細地図を見ると座床の位置はこの辺りであることが分かる。座床につながっているのが蓮池川で北方(上部)の橋が三枚橋である。
三枚橋は備後国の深津郡三吉村と同郡深津村を結ぶ橋(笠岡街道の一部)で非常に重要な意味を持っていた。現在川幅は水辺公園が出来てかなり狭くなっているが、国道2号線上の新橋から昔の情景を想像することはできる。
私は老人が指差した岩の方(公園の北東隅)へ歩いて行った。大小2つの祠の間に標識らしきものが立っているようだった。
昨日、サンフレッチェ広島が創設20年目で初優勝を果たした。久々のよいニュースに一県民として惜しみない拍手を送った。私が大学生の頃サッカーはマイナーなスポーツだった。よく肥えた先輩の命令で研究室対抗のサッカー試合によくかり出されたものである。私の役割は相手をかき回して疲労させることであったが、あまりの技量不足ゆえに毎回大敗を喫していた(笑)
エディオン(旧デオデオ)福山本店では今日から「サンフレッチェ広島感動をありがとうセール」が始まった。先着300名にオリジナルカレンダーをプレゼントするというチラシを見て1階の駐車場に行ってみると20人ほどが列を作っていた。
意外にも午前9時50分に開店した。入口でカレンダーを貰った客はエスカレーターで3・4階に上がるという流れであった。この店も国道2号線沿いに移転することが決まっており市の中心部で暮らす人間にとってはますます便利になる。ありがたいことだ。
エディオン(旧デオデオ)福山本店では今日から「サンフレッチェ広島感動をありがとうセール」が始まった。先着300名にオリジナルカレンダーをプレゼントするというチラシを見て1階の駐車場に行ってみると20人ほどが列を作っていた。
意外にも午前9時50分に開店した。入口でカレンダーを貰った客はエスカレーターで3・4階に上がるという流れであった。この店も国道2号線沿いに移転することが決まっており市の中心部で暮らす人間にとってはますます便利になる。ありがたいことだ。
福山港内港北岸の遊歩道から市立大学を望む。大学の専用駐車場そば(キッチンアンリのすぐ西に位置)に福山港の由来を記した石碑がある。
かつて運河(入江)は現リーデンローズの駐車場まで延びていたが、旧月世界前の悪臭には閉口したものである。みなと公園と大学の敷地まで埋め立てが進みこの問題は大分改善された。
福山港の由来
福山港は、福山城築城(元和八年)の折、海から外堀まで直結するため延長約一・四kmの運河を開削し、その北岸(現在の船町あたり)に、藩船や廻船を係留したのが、始まりと伝えられています。当時は、この運河を上り下りの船が往来し、参勤交代や人・貨物の輸送を行っていました。
この運河は、幕末頃までに東手城・新浜・曙町まで干拓事業が東に延びるにしたがって、延長は約四kmに達しました。
その後、福山市周辺の商工業の発展に伴い昭和十二年から運河の浚渫や岸壁の整備(松浜・港町地区)を行い、鉄道と並ぶ物流の大動脈として戦時中戦後の物資の積み降ろしを当地区で行いました。
なお、この台に使われている大型のみかげ石は、昭和三十年代に築造された岸壁の緑石を移設したものです。
石碑の周辺は物資の運搬で賑わった運河の歴史を静かに振り返るのに最適の場所である。遊歩道は市民のジョギングコースとしても人気が高い。
帰り際みなと公園のペット禁止の標識を見た私は渋い表情になった。己の目先の利益しか考えぬ畜生以下の輩が忌まわしき売国政権を誕生させたのだと思うと不快で堪らなかったのである(笑)
かつて運河(入江)は現リーデンローズの駐車場まで延びていたが、旧月世界前の悪臭には閉口したものである。みなと公園と大学の敷地まで埋め立てが進みこの問題は大分改善された。
福山港の由来
福山港は、福山城築城(元和八年)の折、海から外堀まで直結するため延長約一・四kmの運河を開削し、その北岸(現在の船町あたり)に、藩船や廻船を係留したのが、始まりと伝えられています。当時は、この運河を上り下りの船が往来し、参勤交代や人・貨物の輸送を行っていました。
この運河は、幕末頃までに東手城・新浜・曙町まで干拓事業が東に延びるにしたがって、延長は約四kmに達しました。
その後、福山市周辺の商工業の発展に伴い昭和十二年から運河の浚渫や岸壁の整備(松浜・港町地区)を行い、鉄道と並ぶ物流の大動脈として戦時中戦後の物資の積み降ろしを当地区で行いました。
なお、この台に使われている大型のみかげ石は、昭和三十年代に築造された岸壁の緑石を移設したものです。
石碑の周辺は物資の運搬で賑わった運河の歴史を静かに振り返るのに最適の場所である。遊歩道は市民のジョギングコースとしても人気が高い。
帰り際みなと公園のペット禁止の標識を見た私は渋い表情になった。己の目先の利益しか考えぬ畜生以下の輩が忌まわしき売国政権を誕生させたのだと思うと不快で堪らなかったのである(笑)