割烹や料亭のカウンターで「あの店は全然ダメだ」とか「食べ方は……の順が正しい」と好き勝手なことを言うおっつぁんがいる。団塊からポスト団塊にこの種の輩は多い。
「東京にはうまいものがない」とどうして言い切れるのか。関東で暮らしたこともない真の田舎者に(笑)。「その土地の悪口を言うにはそこで三年以上生活してからにしろ」と忠告すると、大概おっつぁんは金玉を蹴り上げられた犬のような顔つきになる。
瀬戸内の料理人が「鮮度」「産地」「価格」を嬉しげに自慢するのに対して、東京の職人は冷ややかな笑いを浮かべる。「品の無さ」「視野の狭さ」を小馬鹿にしているだけではない。
「江戸村の猿に包丁を握らせて刺身を盛らせても同じってことじゃねえか」と実際に聞かされたことがあった。私は酒を噴き出して、しばらく笑いが止まらなかった。饒舌は田分けに等しいということを「大東京」で教わったのである。
「東京にはうまいものがない」とどうして言い切れるのか。関東で暮らしたこともない真の田舎者に(笑)。「その土地の悪口を言うにはそこで三年以上生活してからにしろ」と忠告すると、大概おっつぁんは金玉を蹴り上げられた犬のような顔つきになる。
瀬戸内の料理人が「鮮度」「産地」「価格」を嬉しげに自慢するのに対して、東京の職人は冷ややかな笑いを浮かべる。「品の無さ」「視野の狭さ」を小馬鹿にしているだけではない。
「江戸村の猿に包丁を握らせて刺身を盛らせても同じってことじゃねえか」と実際に聞かされたことがあった。私は酒を噴き出して、しばらく笑いが止まらなかった。饒舌は田分けに等しいということを「大東京」で教わったのである。
幼い頃から私は記憶力がよかった。これは努力というよりも天性によるものが大きい。「一度しか通ってない道筋をようおぼえとる」と母がびっくりしていたほどである。
記憶力のよさが一番役立ったのはやはり受験だ。反復練習がほとんど必要なく、不得手な箇所の攻略にじゅうぶん時間をつぎこめた。「現役」と「浪人」を区分するものは基本をきちんとおさえているか、それと記憶力がよいか、ということだろう。
現役入学を果たした友達に勉強方法を聞いて私はそう確信した。事実、ガリ勉は皆無に近かった。効率のよいやり方を自分なりにあみ出す「知恵」が彼らにはあったのだ。
昔の友達と会って話をしていても、記憶が数珠繋ぎになるのは「現役」組とである(笑)
私の下宿から舟入方面へ行くには橋を二つ渡る必要があった。鷹野橋商店街を抜け、まず明治橋を、そして本川に架かる住吉橋を通過した。
住吉橋西詰めから“元締め”のアパートまでは歩いて数分の距離だった。彼は数ヶ月に一度、貧困に喘ぐ同級生を招いて、温かい食事をふるまってくれた。
誘いを受けると飢えた野犬のような三人(ろくでなし・ひでえ・私)は嬉しげに出掛けたものである。ソーセージ入りの鍋や納豆汁を食べて満腹になった後に必ずすることがあった。
“元締め”はカーテンを少し引っ張って、道路を挟んで斜め向うの雀荘の様子を窺い、私達に「またやっとるわ」と呟いた。某ビルの2階は裏稼業専用の雀荘だった。そこにたむろしているのは人相の悪い日陰者ばかりで、皆真剣に牌を眺めていた。それが賭け麻雀であることは明らかだった。
“元締め”は眉間に皺を寄せて「嫌やな~」と言い、“ろくでなし”と“ひでえ”はニヤニヤ笑った。四人の中で麻雀をするのは最年少の私だけであり、彼の部屋では肩身の狭い思いをしていた(笑)
住吉橋西詰めから“元締め”のアパートまでは歩いて数分の距離だった。彼は数ヶ月に一度、貧困に喘ぐ同級生を招いて、温かい食事をふるまってくれた。
誘いを受けると飢えた野犬のような三人(ろくでなし・ひでえ・私)は嬉しげに出掛けたものである。ソーセージ入りの鍋や納豆汁を食べて満腹になった後に必ずすることがあった。
“元締め”はカーテンを少し引っ張って、道路を挟んで斜め向うの雀荘の様子を窺い、私達に「またやっとるわ」と呟いた。某ビルの2階は裏稼業専用の雀荘だった。そこにたむろしているのは人相の悪い日陰者ばかりで、皆真剣に牌を眺めていた。それが賭け麻雀であることは明らかだった。
“元締め”は眉間に皺を寄せて「嫌やな~」と言い、“ろくでなし”と“ひでえ”はニヤニヤ笑った。四人の中で麻雀をするのは最年少の私だけであり、彼の部屋では肩身の狭い思いをしていた(笑)
大学の東門を出て国道2号線を渡った北側が竹屋町で、昔は下宿がたくさんあった。下宿の近くにはコンビニ、銀行、郵便局、スーパー、飯屋があり、徒歩で全て事が済んだ。やはり、あれだけの学生がいたからこそ、便利な街づくりになっていたのだろう。
本学移転の影響をもろに受けたのは銭湯、飯屋、コンビニである。大学周辺の銭湯はことごとく廃業した。広銀竹屋町支店がトヨタホームに変わり、あのセブンイレブンもとうとう店を畳んでしまった。
バブルに浮かれる昭和62年(1987)年の熱気はもはやどこにも感じられない。あの頃から日本は急激に「おかしく」なった。
その年の冬、セブンイレブンの隣に【たこ道楽】ができた。たまに夜食のたこ焼きを買いに行った。金は無いが、暇と性欲だけはたっぷりあった昔を私は懐かしく思い出していた。
正門から大学の表示が消え、今は「東千田公園」という黒い石が埋め込まれている。かつての理学部の周りを馬鹿犬を連れた者達が我が物顔で歩いていた。
私が学んだ校舎は全て取り壊されており、総合科学部のあった場所に高層マンションが造られている。
森戸道路のメタセコイアは葉を茶に染めて寒そうにしていた。
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森戸道路のメタセコイアは葉を茶に染めて寒そうにしていた。
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