今まで出会った郷土史研究家で手本にしたいと思った人は2名いた。90手前と70代後半の男性でどちらも莫大な数の文献を読みこなし、現地調査と検証を丹念に行っていた。話を聞いたのは数回に過ぎないが、知識をひけらかさない(かつ出し惜しみしない)点は尊敬に値すると思った。私は「歴史のタブーを恐れず独自の視点を持ち粘り強く調べるように」とアドバイスをもらった。
せっかくなので全く手本にならぬ者達についても触れておこう。「これは、ワシ(ウチ)しかしらんじゃろーな」ともったいをつける輩ほど実は大したことはなく他人の猿真似で終わりがちである。また彼らの書く文章は豚脂のプカプカ浮かんだ■◆ラーメンのようにくどくて後味が悪い。そして大写真を無駄に使う稚拙さが共通している。マズイモノには最初から近寄らぬのがベストだ(笑)
※冒頭の画像は最終運行中の井笠バス(平成24年10月31日でバス事業廃止)
せっかくなので全く手本にならぬ者達についても触れておこう。「これは、ワシ(ウチ)しかしらんじゃろーな」ともったいをつける輩ほど実は大したことはなく他人の猿真似で終わりがちである。また彼らの書く文章は豚脂のプカプカ浮かんだ■◆ラーメンのようにくどくて後味が悪い。そして大写真を無駄に使う稚拙さが共通している。マズイモノには最初から近寄らぬのがベストだ(笑)
※冒頭の画像は最終運行中の井笠バス(平成24年10月31日でバス事業廃止)
神辺宿のメインストリート(広島県道390号三谷神辺線)に出て十日市の浄土真宗本願寺派・薬上山光蓮寺(こうれんじ)に寄る。もともとは現在地から少し離れた南の山裾にあり天台宗の寺院(寺名は浄玄寺)であった。その後浄土真宗、真言宗に改宗、そしてまた浄土真宗に戻ったという複雑な歴史がある。
光蓮寺
藥上山淨土眞宗西本願寺末寺了波寛永ノ頃今ノ處ニウツシ建ツ古ヘ祐佳山淨玄寺トテ傳ノ弟子應開山天台宗ナリ十世行圓ト云ニ至リ眞言宗ニ改ム又九代了明ノ時存覺上人來寓シヲ弘ムヨツテ存覺ヲ開基トス了明ヨリ今ノ宗トナリ了波ト云時今ノ名ニアラタムト云
『福山志料』
寛永年間に十日市に移り光蓮寺と改名した。神辺の大火の際には懸命の消火作業が行われて寺の焼失は免れた。おかげで我々は江戸時代の貴重な建造物を間近で見ることができる。
寺の関係者の話では本堂よりも庫裏(くり=住まい)の方が古いそうだ。境内には菅茶山の詩碑が設置されている。
光蓮寺
藥上山淨土眞宗西本願寺末寺了波寛永ノ頃今ノ處ニウツシ建ツ古ヘ祐佳山淨玄寺トテ傳ノ弟子應開山天台宗ナリ十世行圓ト云ニ至リ眞言宗ニ改ム又九代了明ノ時存覺上人來寓シヲ弘ムヨツテ存覺ヲ開基トス了明ヨリ今ノ宗トナリ了波ト云時今ノ名ニアラタムト云
『福山志料』
寛永年間に十日市に移り光蓮寺と改名した。神辺の大火の際には懸命の消火作業が行われて寺の焼失は免れた。おかげで我々は江戸時代の貴重な建造物を間近で見ることができる。
寺の関係者の話では本堂よりも庫裏(くり=住まい)の方が古いそうだ。境内には菅茶山の詩碑が設置されている。
蛭田踏切から妙立寺(みょうりゅうじ)の門前へ移動する。山門をくぐると日蓮宗特有のひげ文字が刻まれた供養塔がいくつかあった。菅茶山編纂の『福山志料』には妙立寺に関して次のような記述がある。
妙立寺
法晶山法華宗本法寺由緒書ニ應永ノ頃日親上人開基ナリ事上人行記ト云書ニ分明ナリト云モトハ寺領ヨホトアリシヨシナリ
約200年前に発生した神辺の大火(文化4年・1807)では宿場・川北のほとんどと川南の大部分が焼けている。火はこの紺屋町まで襲ってきたという(『川南庄屋日記抄』を参照)
山門前から東へ歩いていくと道路脇に小さな十日市胡神社が鎮座しているが、神社より南が焼失を免れたエリアということになる。火事と地震が恐ろしいのは今も同じことで防災意識を高める上でも悲惨な歴史を振り返ることは意味がある。
妙立寺
法晶山法華宗本法寺由緒書ニ應永ノ頃日親上人開基ナリ事上人行記ト云書ニ分明ナリト云モトハ寺領ヨホトアリシヨシナリ
約200年前に発生した神辺の大火(文化4年・1807)では宿場・川北のほとんどと川南の大部分が焼けている。火はこの紺屋町まで襲ってきたという(『川南庄屋日記抄』を参照)
山門前から東へ歩いていくと道路脇に小さな十日市胡神社が鎮座しているが、神社より南が焼失を免れたエリアということになる。火事と地震が恐ろしいのは今も同じことで防災意識を高める上でも悲惨な歴史を振り返ることは意味がある。
紺屋町(※)に入ると右手に海鼠壁の家が建っている。独特の文様が印象的な菅波歯科医院(福山市神辺町川南)横の狭い路地を西へ進む。
末広湯、ひげ文字が刻まれた石碑の前を通過して蛭田踏切に到る。2つある線路の手前が井原鉄道の井原線、向こう側がJR福塩線だ。
思えば生まれてから福塩線に乗ったのはたったの2回(=1日)である。中学のワル共と福山からはるばる駅家まで遠征したのだ。確か小太りの八(うっかり八兵衛に面も行動もそっくりの同級生)の発案で服部大池へ遊びに行った。その帰りに馬鹿でかい家を見つけて仲間とえらい盛り上がったことだけは覚えている。
余程興奮していたのか、晩飯の際にも城のような御殿を見物した話をして家族一同を苦笑させたのであった。踏切前から寺の広い敷地を見つめていた私は無鉄砲な計画を咎められた日のことをはっきりと思い出した。
※牢屋小路 紺屋町ニアリ(菅茶山編纂『福山志料』より)
末広湯、ひげ文字が刻まれた石碑の前を通過して蛭田踏切に到る。2つある線路の手前が井原鉄道の井原線、向こう側がJR福塩線だ。
思えば生まれてから福塩線に乗ったのはたったの2回(=1日)である。中学のワル共と福山からはるばる駅家まで遠征したのだ。確か小太りの八(うっかり八兵衛に面も行動もそっくりの同級生)の発案で服部大池へ遊びに行った。その帰りに馬鹿でかい家を見つけて仲間とえらい盛り上がったことだけは覚えている。
余程興奮していたのか、晩飯の際にも城のような御殿を見物した話をして家族一同を苦笑させたのであった。踏切前から寺の広い敷地を見つめていた私は無鉄砲な計画を咎められた日のことをはっきりと思い出した。
※牢屋小路 紺屋町ニアリ(菅茶山編纂『福山志料』より)