野﨑洋光さんが福山駅前のニューキャッスルホテルで講演することを「経済リポート」で知った。入場整理券を持ってホテル3階の会場に入ると席がほぼ埋まるほどの盛況である。
忙しい中野﨑さんは今朝東京から新幹線で福山入りした(その日の午後にはとんぼ返りのハードスケジュール)。ユーモアを交えた講演は1時間40分にも及んだ。内容について簡単にまとめておこう。
西麻布の総料理長は「笑って白いご飯が食べられるのは幸せ。しかし、ほとんどの人が(そのことに)気付いていない。…幸せだから。…私たちは望み過ぎている。本質が分からないのは…自分の足で歩かないから」と語り、TPP交渉参加の問題を引き合いに出して安心安全という食事を自分たちで守れるかどうかが最も重要と結論付けた。
我が国の高等な食文化(マナーなど)は徳川家光公の時代に鎖国政策によって確立(また醤油や磁器が誕生)した話は面白かった。江戸で暮らす庶民の楽しい食事と比べると現代人(猿)の立ち食いなどは確かに餌と言った方がよいのかもしれない。米の消費が減った背景にアメリカのPL480法案成立があると指摘した上で国産品を食べていない国民が非常に多いことを嘆いたのが印象的だった。
いずれ訪れる食糧難に備えて耕作放棄地の再生が急務であることを我々はもっと直視すべきであろう。野﨑さんの発言「自家菜園(で収穫した野菜を調理して食べるの)が最高の贅沢。すぐそばに畑があれば冷蔵庫は要らない(し、)調味料が少なくて済む」は本当である。私は自分で作っているから自信を持って言えるのだ。メディア(新聞やテレビ)の流す情報には嘘がかなりあるのを見抜ける人がどれ位いるだろうか。
終盤に飛び出したダブルM(関西の☆☆☆店主と関東のテレビ司会者)批判に聴衆は大笑い。権威ほど実はあてにならぬことをさり気無く話す所は見事である。「真手(まで≒丁寧)」に生きている人は悪質な嘘を嫌う。今日は野﨑さんと一緒に貴重な時間を過ごすことができて本当に幸せと思った。
忙しい中野﨑さんは今朝東京から新幹線で福山入りした(その日の午後にはとんぼ返りのハードスケジュール)。ユーモアを交えた講演は1時間40分にも及んだ。内容について簡単にまとめておこう。
西麻布の総料理長は「笑って白いご飯が食べられるのは幸せ。しかし、ほとんどの人が(そのことに)気付いていない。…幸せだから。…私たちは望み過ぎている。本質が分からないのは…自分の足で歩かないから」と語り、TPP交渉参加の問題を引き合いに出して安心安全という食事を自分たちで守れるかどうかが最も重要と結論付けた。
我が国の高等な食文化(マナーなど)は徳川家光公の時代に鎖国政策によって確立(また醤油や磁器が誕生)した話は面白かった。江戸で暮らす庶民の楽しい食事と比べると現代人(猿)の立ち食いなどは確かに餌と言った方がよいのかもしれない。米の消費が減った背景にアメリカのPL480法案成立があると指摘した上で国産品を食べていない国民が非常に多いことを嘆いたのが印象的だった。
いずれ訪れる食糧難に備えて耕作放棄地の再生が急務であることを我々はもっと直視すべきであろう。野﨑さんの発言「自家菜園(で収穫した野菜を調理して食べるの)が最高の贅沢。すぐそばに畑があれば冷蔵庫は要らない(し、)調味料が少なくて済む」は本当である。私は自分で作っているから自信を持って言えるのだ。メディア(新聞やテレビ)の流す情報には嘘がかなりあるのを見抜ける人がどれ位いるだろうか。
終盤に飛び出したダブルM(関西の☆☆☆店主と関東のテレビ司会者)批判に聴衆は大笑い。権威ほど実はあてにならぬことをさり気無く話す所は見事である。「真手(まで≒丁寧)」に生きている人は悪質な嘘を嫌う。今日は野﨑さんと一緒に貴重な時間を過ごすことができて本当に幸せと思った。
社殿横の広場から西方を望む。パトロン(真の分限者)が減少する中、小さな神社の保存修復を氏子だけで行うのは難しいのかもしれないが、その歴史的価値を理解する人たち(市内だけでなく県外にも)から寄付を募るというやり方もあるだろう。
昔は多くの人間の奉仕作業(出来る範囲で資金援助、知識・技術や労働力を提供)によってムラが回っていたが、己(と同族)の懐や口に物を取り込むことしか頭にない連中が増えて危機的状況である。若い頃に好き放題やっていた連中(団塊がその筆頭)が今になって「絆」とか「人情」という言葉を多用するのは本当に間抜けである。
これからは行政・メディアとは適度な距離を保ちつつ住民が自主的に(寄付を募り)手直しを進められるかが鍵となるであろう。偏向メディアと卑屈な取材元との間に歪な(主従)関係が出来上がると町の内部は崩壊へと向かっていく。神辺町の廉塾を見学した際に詳しい解説をして下さった人と私はこんな真面目な話をした。
神社境内の西端辺りに祠があり、上段には埃を被った木札が並んでいる。篠崎稲荷大明神など多くの神々の名を確認した私は静まり返った境内を後にした。
昔は多くの人間の奉仕作業(出来る範囲で資金援助、知識・技術や労働力を提供)によってムラが回っていたが、己(と同族)の懐や口に物を取り込むことしか頭にない連中が増えて危機的状況である。若い頃に好き放題やっていた連中(団塊がその筆頭)が今になって「絆」とか「人情」という言葉を多用するのは本当に間抜けである。
これからは行政・メディアとは適度な距離を保ちつつ住民が自主的に(寄付を募り)手直しを進められるかが鍵となるであろう。偏向メディアと卑屈な取材元との間に歪な(主従)関係が出来上がると町の内部は崩壊へと向かっていく。神辺町の廉塾を見学した際に詳しい解説をして下さった人と私はこんな真面目な話をした。
神社境内の西端辺りに祠があり、上段には埃を被った木札が並んでいる。篠崎稲荷大明神など多くの神々の名を確認した私は静まり返った境内を後にした。
蔀山は「伝足利義昭居館跡」として昭和39年(1964)3月31日に福山市史跡に指定されている。
蔀山
義照(昭)將軍の營跡ハ西の方山頭平らなる所也。夫より東の方、古松藪拾本有。稲荷の社有、山伏理智院支配也。往古此所に大なる槇あり、欽明帝の御衣の袖かゝりたる木なりけるとかや、いつのころ迄有けるやらん知たる人なし。
『備陽六郡志』
但し市教育委員会の見解は別邸跡とのこと。市内にはこの他にも義昭絡みの史跡がいくつ(真偽不明を含めて赤坂町など)もある。
社殿の中に置かれた神輿は毎年10月の祭りで使用されるのであろうか。保管庫もなく寒風に晒されるのを見るのは何となく寂しいものである。標識の脚の部分が壊れてから大分経つようで神社の管理が容易ではないことを知った。
蔀山
義照(昭)將軍の營跡ハ西の方山頭平らなる所也。夫より東の方、古松藪拾本有。稲荷の社有、山伏理智院支配也。往古此所に大なる槇あり、欽明帝の御衣の袖かゝりたる木なりけるとかや、いつのころ迄有けるやらん知たる人なし。
『備陽六郡志』
但し市教育委員会の見解は別邸跡とのこと。市内にはこの他にも義昭絡みの史跡がいくつ(真偽不明を含めて赤坂町など)もある。
社殿の中に置かれた神輿は毎年10月の祭りで使用されるのであろうか。保管庫もなく寒風に晒されるのを見るのは何となく寂しいものである。標識の脚の部分が壊れてから大分経つようで神社の管理が容易ではないことを知った。
広島市は私の好きな街の一つである。18歳でドロドロとした地元を離れ100万都市で暮らし始めた時思ったものである、「広島に生まれたかったな」と。悪平等思想に汚染された高校での3年間は全くの無駄であったが、広島市では様々な文化を好きなだけ吸収することができた。だから恩義を常に感じている。
生まれ故郷の方は四流メディアから「知名度の低さ」ばかり指摘されているが、知名度だけの没落を続ける近隣の田舎と比較されても甚だ迷惑なのだ(笑)。知名度よりも民度を向上させることが大切である。高い餌を強請る塵犬がゴロゴロと野放しになっているのを見て湯崎さんも呆れていると思うが、ここを正していかなければ真の成長は難しい。妬みの感情を捨て謙虚な気持ちで生きる人間が増えれば宣伝費の大幅な削減が可能となり自然に評価されるようになる。
生まれ故郷の方は四流メディアから「知名度の低さ」ばかり指摘されているが、知名度だけの没落を続ける近隣の田舎と比較されても甚だ迷惑なのだ(笑)。知名度よりも民度を向上させることが大切である。高い餌を強請る塵犬がゴロゴロと野放しになっているのを見て湯崎さんも呆れていると思うが、ここを正していかなければ真の成長は難しい。妬みの感情を捨て謙虚な気持ちで生きる人間が増えれば宣伝費の大幅な削減が可能となり自然に評価されるようになる。
福山藩土地造成図は寛永以降城の東部に干拓地(農地)が広がっていく様子を示したもの。深津嶋山(深津高地)周辺では正保年間(17世紀の半ば)に盛んに干拓が行われたことがわかる。ちなみに千間土手の北側に現在の国道2号線が整備されている。
国道沿い(東深津町~明神町)には田んぼが僅かに残るだけで商業施設が建ち並ぶ。旧城下町で快適な生活を送ることができるのはもとを辿れば干拓事業に従事した人達の苦労のお陰なのだ。
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』には「宝龍山の地形と謂われる深津高地…福山駅の東方に位置する所に、深津の町並を眼下に見下ろす小高い山がある。その昔この山には、竜が住み、天地自然を駆けめぐり、万物を支配し、民達の願いをことごとく聞き入れた。民達はその竜を、「お宝の竜神さま」と崇め、宝竜と呼び、竜の住むその山を宝竜山と名付けた」との記述がある。
また「…頭部は王子山と謂れ左手は字、才ノ尾…左足は字亀の甲。右手は字古地。右足は字松山(しとみ山)…」という伝承をもとに現在の地図を眺めると注目を浴びない土地に一層興味がわいて来るのだ。
さて話を蔀山稲荷神社(土地造成地図の青丸の位置)に戻そう。朱の鳥居をくぐってすぐ左側の常夜燈には慶應二年の文字が刻まれている。
国道沿い(東深津町~明神町)には田んぼが僅かに残るだけで商業施設が建ち並ぶ。旧城下町で快適な生活を送ることができるのはもとを辿れば干拓事業に従事した人達の苦労のお陰なのだ。
『深津小学校百二十周年記念史(平成七年)』には「宝龍山の地形と謂われる深津高地…福山駅の東方に位置する所に、深津の町並を眼下に見下ろす小高い山がある。その昔この山には、竜が住み、天地自然を駆けめぐり、万物を支配し、民達の願いをことごとく聞き入れた。民達はその竜を、「お宝の竜神さま」と崇め、宝竜と呼び、竜の住むその山を宝竜山と名付けた」との記述がある。
また「…頭部は王子山と謂れ左手は字、才ノ尾…左足は字亀の甲。右手は字古地。右足は字松山(しとみ山)…」という伝承をもとに現在の地図を眺めると注目を浴びない土地に一層興味がわいて来るのだ。
さて話を蔀山稲荷神社(土地造成地図の青丸の位置)に戻そう。朱の鳥居をくぐってすぐ左側の常夜燈には慶應二年の文字が刻まれている。