広島市の中島地区は大正時代までは最大の歓楽街だった。このことを知らないのはアメリカ人だけではなく日本人もである。長年に亘る偏った歴史教育のツケは大きい。
イブニング・ニュースで戦前の広島市中心部の映像が流れた。8ミリフィルムの所有者は革屋町(現:本通)で育った吉岡宏夫さん。父親である信一さんが撮影したフィルムは一時倉橋島に移されたために結果として48本が残った。
昭和12年(1937)冬頃の革屋町、元安橋から本川橋を結ぶ「中島本通」の様子は特に貴重である。元安川沿いに旅館や料亭が並ぶ界隈が現在の平和記念資料館の東側に相当し、当時の繁栄ぶりが伺える。
それから約8年後に原爆が投下される。昭和21年(1946)1月頃の革屋町(現:アンデルセン辺り)は瓦礫の山である。街と人と文化が一発の爆弾によって消滅した事実を今更ながらに思い知った。
中島地区の「平和公園」は敗戦後に作られた。主語の解らない文章が刻まれた碑の前に私が立つことはないが、今年もこの地から手を合わせて無念の死を遂げた多くの人達の霊を弔うつもりだ。