岡山県道22号から外れて寄り道することにした。船倉町公会堂前を通過し八光台(※向山の通称)へ。山裾に配置された
倉敷八十八ケ所霊場・第五十八番札所(作礼山千光院仙遊寺)。
本尊の千手観音に手を合わせて少しずつ上って行くと生目八幡宮に辿り着く。宮の背後は墓地だった。朱の鳥居前の公園で老夫婦が小犬を離しくつろいでいた。県道に戻って南へ向う途中に中国電力・倉敷電力所や船倉変電所があった。
入船橋東詰の船倉町交差点から小町トンネル周辺を望む。女子生徒が元気よく山頂へと続く坂道を駆け上がっており、人斬場跡の方へ消えるまであっという間であった。「向山・船倉大正十年頃絵図」を含む西藤秀男さんの著作『新修倉敷今昔物語(勁草社 平成14年)』から重要な記述を引用しておく。
故・窪田貧泉先生から処刑は酒津の川原で施行されていたし、首斬役人の家系も聞いている。その子孫の主人から「古文書はあるから、君が参考にしたいのであれば都合のよい時に来てよろしい」と許可を得たのであったが、大病の末、歩行、正座不能となり、古文書を見せて貰う機会が無くなったのは無念である。
窪田先生は「居合」七段の腕前だから、そんな関係で酒津某家とは親密に付き合っていたのだから間違いはない。では船倉の人斬場との関係はどうかということになる。推論に過ぎぬと考えられるけれども、ここでは、それを詮索する程のこともあるまい。
不思議なのは、代官所は幕府のもの、牢屋と人斬場は倉敷村有ということだ。少年期には、そのいずれも崩れかけてはいたが現存していた。また、人斬場は倉敷のゼロ番地であると聞いたことはあるが、その確実さは疑わしい。子供の頃、この人斬場は首吊場となり、よく「今日も吊っとるでえ、行って見い」と聞いたが見に行ったことはないが、友人(船倉町に在住)は何回か見に行ったと言う。
今日迄、郷土史家を含めて誰もが触れていないことを書いたが、歴史は歴史であるから書き遺して置くことにした。
序ながら、向山(船倉)には「避病院」とも「隔離病舎」とも呼ばれた施設が残っていた。五軒ばかりの長屋だったが門柱は御影石の大きなのが二本立っていた。
どのような病人が入っていたのかは分らない。このような歴史は書きたくはなかったが、人斬場や牢屋などを書いたものだから序ながらと言っては失礼なことだが筆が辷った、とご勘弁願いたい。
帰りに
茶屋大橋で抹茶ソフトクリームを買い求めた。コーンの底までクリームが入って100円(税込)、抹茶のほろ苦さが効いてすっきりした甘さである。価格も味わいも10年前と同じで嬉しかった。まっとうな商売を続ける店にはファンが多い。
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