自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

なしたをなすか?今、為すか?(後)

2012年12月01日 | 自然治癒力・生命力・発揮する考え方

カルマ(業)を造ること 

12月1日 2012 為したを為すか今為すか?の意味

 

 

 

業(ごう)が深い人~という言葉がある

サンスクリット語では業をカルマと訳す。

 

“これはカルマだから仕方がない。

因縁があって起きるべきして起きたのだから”

 

と言えば結果がどうであれ、何となく、

納得するのだ。

これと似た言葉で、”運命だから” 

という言い回しもある。

すでに自分の行動が決められているとしたら、

運命が変えられないとしたら?

消極的な言い訳にも使えそうで、

個人的にはあまり口に出したくない言葉だ。

否、カルマ という言葉はもっと、

自発的だ。 

運命すらも 開拓できる余地のある、

積極的な心持ちを連想させる。

良いカルマ、良い根っこ には

良い木が育ち、良い果実がなる 

だから、良いカルマを積もう 

という発想につながる。

 

現在、何か不幸に見える出来事があっても、

それは、過去に自分が行った行動清算

だと思えば、自然の成り行きであると納得できる。

だから、誰を恨んでも 始まらない。

良い事をすれば、時間の経過を経て 

それなりの善い結果を生じ、

悪い事をすれば、自分がまいた種の実

を自分で刈り取らなければならないのは 

当然かもしれない。

 

”業が深い”という言葉の裏に、

あまり好ましいイメージはない。

過去に、人に迷惑をかけたり、

苦しめたりさせた自分のマイナスの

性分を意味するようで 重い言葉だ。

”業が深い人ね” といわれると、

知らない間に どれくらい人を傷つけて

きたのか 振り返りたくなる気分になる。

 

そういわれても、まったく身に覚えが

ないと、反発を感じる人もいるだろう。

順調に生きている時は人はとかく、

傲慢(ごうまん)になりやすい。

傲慢であるという意味は、自分の

価値観をひっくり返された経験が

少ないということ。

”ずーっとそうやって生きてきたし、

それが自分のポリシーで、その観点

が正しいから 上手く行っている”と

無意識に、確信していると、

すでに傲慢になっているのかもしれない。 

自分の価値観で 相手を判断しがちだからだ。

上から目線?とでもいうのか? 

そういう意味合いでの傲慢 という意味だ。

つまずいてみると、業が深い 

という意味を 噛みしめてみたくなる。

することがなすこと、うまく

いかなかったり、苦渋を飲む結果

になったりしたとき 人から

“業が深いのね” と言われれば、

何となくそんな気分になり、自ら 

自分の行動を振り返るきっかけになることもある

 

“為したを為すか、今、為すか?”

これは、短いけれど、含蓄ある言葉だ。

 

古めかしい言い回しのせりふ、物語の中の老婆の言葉。

その物語というのはこうだ。

老婆の家に強盗が入った。

身に危険が及びそうになったとき、老婆は

強盗の顔を注視して、こう聞く。

“為したを為すか?今、為すか?” と。

この端的な言葉に、強盗は ハット

悟って立ち去るという、ちょっと

非現実的な 寓話だ。

 

強盗は 老婆の発する、この言葉から、

何を会得したのだろう?

”為した” というのは 

”カルマを過去に造った”ということ。

つまり、”私(老婆)の過去のカルマのせいで、

あなたは私を傷つけ、強盗を働こうとしているのかい?”

それとも?

”私は何も 過去にあなたに、負債を負って

いないのに、私を傷つけることで 

あんたは(強盗)新しいカルマを造って、

来世に持ち越すつもりなのかい?”

という意味だ。

 

老婆は静かに、落ち着いて、語ったのだろう。

その場の光景が目に浮かぶ。

強盗にも その言葉の意味を 瞬時、

理解できる智慧があったのだろう。

彼はこう自問自答したのかもしれない。

 

“もし、ここでこの老婆を殺(あや)めたり

傷つけたりしたなら、それは、

この婆さんの過去のオレに対する業(ごう)

のせいかもしれない。 

でも、もし、そうでなかっとしたら?

今、ここで悪い業をつくろうとしているのは 

この俺だ。

そうしたら、きっと自分は、この行いの

清算をしなければならない。

罪滅ぼしを いつか しなければならないだろう。

カルマの清算はこの世の常なのだから。 

今生でなければ 来生に持ち越して・・“

と。

 

”カルマを今、創ろうとしているのか? 

それとも、過去のカルマを清算

しようとしているのか?”

 

強盗はそこに気がついて 

どちらにしても、カルマを

ち切るために、その場を、立ち去ったのだ。

”為したを為すか、今 なすか?” の 

含蓄は深い。

 

ブルーな心持ちになったとき、

風が吹き抜けるように、その心を

ほどいて、風と一緒に吹き流すことも必要

なのかもしれない。

そのカルマに いつまでも、

こだわっていては、”かたき討ちの物語”

は永久に終わりはない。

永久に終わらないということは、

そのために、また、この地上に

生まれ変わる鎖を断ち切れない。

 

ところで、今 私たちの周りに、 

誰か許してあげるべき人、 

許してあげたい人、 

許してあげられる人、 

心当たりはないだろうか? 

        

          

根っこが縦横に伸びて、木々も空高くそびえる。 

私たちの心も同じ。 根っこ(カルマ)があってこその、幹(人生)

コメント
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