自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

業(カルマ)の超越

2012年12月04日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

12月4日

   カルマを超越しよう

 

今まで因縁のお話しを多くさせていただいた。

またか!とうんざりする方もいらっしゃるだろう。

”自分でまいた種を刈り取る。 自業自得。 

悪いのは私でしょう? わかりましたよ。”

 

そのカルマを超越するお話しをさせていただきたい。

カルマのことをこれまで、因縁の関係で、書いてきた理由は、

たった一つ。

今の境遇や状況は、誰をも責める必要がないこと。 

自分の心の鏡として受け止めるためだ。

そうすることで、本来の自分らしさを見つめることの

きっかけとなり、

自然治癒力の発動が始まるからだ。

 

カルマを超越するとはこういうことだと思う。

ここに4千万円借金している人がいる。

この借金を返すために、いろいろ工面が必要だ。

もし、宝くじ一等賞に運よく当たって 一億円、手に入れば、

一度に借金は返済だ。

 

同様、私たちのカルマを返すために、善事を積み上げて、

マイナスを消していく。

ローンを組んで返済を返す、

その要領で マイナスのカルマを清算していく方法だ。

もう一つの方法は、宝くじに当たって一度に

ローン返済することだ。

つまり、私たちの本質に気が付くということだけだ。

言い換えれば。私たちの本性・神性・仏性・アートマに

帰ったとき、すでに、

カルマは存在しない。

宝くじに当たるためにはわずかな確率を頼りにするが、 

心の本質を悟ることは100%当たりくじである。

なぜなら、私たちの本質は、完全・円満・大調和、

愛と生命に満ちた力の、発露ともいえるから

 

そのことが、信じられないから、人は苦悩する。

苦悩するから、余計、カルマの輪にぐるぐると

はめ込まれていく。

悪循環をたちきるためには、自分の本質、

カルマの輪からでることしかない。

たとえば、

生命の発露を 身の回りから、心の眼で見つめて見るのも 

その一つの方法かもしれない。

赤ちゃん、若葉、花でも木でも、空や山、すべて生命

に満ちている!

何も言わずとも、彼らは 十分に生命を謳歌している。

愛と調和に、規律が保たれている 自然界の営み、

その一環に私たちの生活もある。

 

カルマが存在しないと、病も癒える。

それが いわゆる、神癒 といわれるものだ。

奇蹟的に癌が消滅したとか、癒されたということを

時々耳にする。

神様の御蔭であるという結論になる。 

でも、実際のところ、自己の自然治癒力が、

100%開花したにすぎない。

神自身、私たちの、中、心と体の領域 隅々に 

充満している。

神 という言葉が抵抗あれば、生命力と言って

よいかもしれない。

こうして、神癒は 実際に存在する

 

神癒 の、本来の意味は、自己の無限の愛、智慧、

光に 返る事。

そうして、調和に満ちた周囲が現れてくると体と

心も本来の姿に立ち返って、

癒されること・・。

spontaneous healing という言葉は日本語では、

自然治癒と翻訳している。

”究極の癒し” は 大生命の原動力から(自己に内在する)

与えられるという 含蓄を含んでいる言葉でもある。

 

そういう意味で当協会も正式名称は 

spontaneous healing therapy Japan という。

余談だが、何故 Japan をつけたか?

日本人であること。 

日本の霊的な世界への使命。 

日本の”やまとごころ”。

その特筆すべき美点はたぶん 他国文化 

に類をみないものかもしれない。 

 

古事記神話を神話として扱う方達が多いが、

実は、秀真伝えを解読していくと、

超古代史と言ってもよいほど、歴史的な流れの中で

書かれていることがわかる。

秀真伝えには、 秀真(ほつま)の道として、 

ひな祭りの起源や、

三々九度の意味合い、お神酒とは?

和歌の由来、

東西南北と部屋の関係(家相)、

夫婦の道、などなど、私たちが現在まで

無意識に行っている

日本的習慣のルーツがしっかりと記載されている。

私たちの 血の根底に流れているもの・

やまとごころ、神の道 が 明瞭になる。

それは、互いに生かしあい、調和して、 

尊重する世界観に ほかならない。

 

 

話しを戻すと 

私たち一人ひとり、宝くじの一等賞に当たらなくても、

本来無限の資質を持っているということに気がつくこと、

それが、 カルマの解消 につながっていく。

私たちの、気が付くこと それだけ。

修行するのも、気が付くためだ。

修行して、どこか 遠くにある、ゴール

(悟りや安寧、救いや平安)にたどりつくと

思っている人が多いだろう。

でも、すでに、ここに、すべてが 自分に

備わっていること。

それに目を覚ますことが、カルマ の

超越ということに 他ならないと 思う。

 

キリストも放蕩息子の例を出して、話している。

億万長者の息子が、自分はみじめな放浪人だ

と思い込み、心も萎れ、

ふらふらと目的なしに生きている。

しかし、もし、自分の本性に気が付いたら、

自分は神に愛されている息子であると

自覚したら?

実は億万長者の跡継ぎだということを 知ったら?

すべてが変わる。

私たちも。多かれ少なかれ、これと似た感覚で

生きているのではないか?

竜宮城の浦島太郎のおとぎ話も

人間の本来の姿と現象世界のギャップが描かれている。

乙姫様に迎えられた竜宮城は実は本来の私たちの

魂のいる世界だ。

心楽しく、時間も超越して生きられる。

漁師 浦島太郎は、その優しい心(アートマ)で

カメを助ける。

カメは恩返しに、竜宮城に太郎を案内する。

そして、玉手箱をお土産にもらい 地上世界に戻る。

開けてはいけないといわれた玉手箱。 

きっと雅(みやび)で美しい箱だったのだろう。

太郎は開けてしまう。 

そして、その煙に当たりながら、太郎は地上の年齢相応に、

100歳を優に超えた老人へと変身してしまう。

この箱は 何を意味しているのだろう? 

竜宮城にいたときの若者そのままだった、太郎は、

玉手箱を開けてどうして

時間のある国に戻ったのだろう?

実は、この箱は 人が地上社会で生活していくための、

知恵の箱だったのだと思う。

常識、生きるための知恵 いわゆる、現象世界にいる限り、

その箱を誰でも 開けていなければ

社会の人 として、生きていくことができない 

不条理な箱である。

愛と調和、時間と空間を超えた、カルマを超えた

世界で生きるためには、ある意味、

非常識にならなければ、不可能であるということでもある。

熱が出ても喜び、風邪をひいても、体の自浄調整だと

喜べる人は、確かに少ない。

非常識と言われ事の中に、真実もある。

 

奇蹟 というのもその部類だ。

この世であり得ないこと、それを奇蹟と呼ぶのだ。

ありえないと あってはならない と 

あってもおかしくない と あるべきだ

とは、意味が異なる。

カルマ の 超越 は、ありえないことかもしれないが、

あってもおかしくない ことでもある。

非常識で、奇跡的なことは、あってはならない 

ことではなく、あるべきことだと 

私は 感じている。

カルマを超越する、たやすいことではないが、

それに近づくにつれて、

人は ある意味、奇跡を体験していくだろう。

牛飼いに育てられたクリシュナ神と恋人ラーダ

 

 

 

 

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