自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

父の寿命

2012年12月21日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

与えられた生の余時間

12月21日                    

 

5月21日(金曜日) 

朝6時 排尿(360cc)

午後12時半 もち雑煮ときな粉にまぶして、2ヶ

午後4時半 排尿(400cc)

午後6時半 夕食、寿司ごはん、味噌汁(シジミ、豆腐)、

サラダ(筍、ホタテ、きゅうり、大根)

5月22日(土曜日)

深夜1時 排尿(600cc)

午前3時 排尿(600cc)

午前7時半 排尿(350cc)

午前9時半 朝食

午後3時 排尿(400cc) 無色透明

午後3時半 おやつ そばがき

午後6時半 排尿(400cc)無色透明

この日をもって、ほとんど、尿が正常に戻る。

 

5月23日(日曜日)

午前4時 排尿(600cc)

午前6時 排尿(700cc)

朝食 8時にとる

午後1時 排尿(400cc)

午後6時 排尿(400cc)

こうして父の体はかなり正常に戻った。 

血尿もなく、食欲も出て、体温も平熱になる。

私は父に最終検査を国立病院にするように勧めた。 

一週間の入院を余儀なくされるが、

完全に回復したことを証明するのには、

これが一番だと思った。 

主治医は入院当日、父を、ナースステーションの

一番近い部屋に置いた。 

先回、入院をするよう、すすめられたときの父の容体はかなり

重篤だったからだ。 

しかし、検査を進めていくうちに、

父の体は正常にもどったことを証明した。

入院最終日までには ナースステーションから一番遠い

奥の部屋に移されていた。

 

”良く、ここまで回復しましたねえ。彦田さん”

と主治医が驚いていたと父は嬉しそうに私に話した。

後日、父がその時なんと答えたかを聞いて、私は苦笑した。

父の答えは、

”はい、娘がいろいろインドで修得したみたいで。 

 なんとか治療とか、セラピーとか・・・”と父。

主治医も

”へえ? インドセラピーって、結構すごいんですねえ” 

と答えていたと、父は 笑いながら、私に語った。

 

2004年、こうして父は元気を回復した。

しかし、母の手紙にあった、2007年、私自身、父に 

酷かもしれないが こう話した記憶がある。

”調子が悪いけどなあ・・”という父の投げかけの言葉。

”お父さん、申し訳ないけど、今回は私、

直せないかもしれない・・・

2007年の2月だったと思う。

何故こう答えたのか理由はない。

ただ、何が何でも、このセラピーで直すことは

不当であるとだけ感じていた。

運命を感じたのかもしれない。

あるいは、ほんとうに、父の体を’04年のときのように、

改善させることは力不足だと思ったのかもしれない。

むしろ、前者だったような気がする。

縁あって、私のところに、セラピーに来られても、

数回の施術で去って行かれる方もいるように、

或いは、来られても、セラピーができないと

私からお話しすることもあるように。

 

それでも、調子が格別悪いときなど国際電話で

母からの知らせを受けて、

飛んで帰った。

極端な時は、東京から、デリーに着いた翌日に、

父が倒れたと電話がはいり、

トンボ返りしたこともあった。

その父も もういない。

 

2007年6月、”恭代(やすよ)がインドにいるのなら、

もう、病院に入ろう。

病院に入ったからには、医者の言うことを素直に聴こう。” 

と父は入院に踏み切った。

幸いに、父の主治医が2004年の主治医の後輩にあたり、

前回の父の検査入院の時の、父の自然治癒力体験の話し

を聞いたことがあるという

そのため、私の願いも聞き入れていただき、

一切の薬の点滴はなく、

食事ができなくなっていた父に水分補給の点滴を

してくれていた。 

 

 

7月10日にインドから帰国、病院に直行して父を

見舞ったとき、声が出なくなっていた父が

私の顔をみて”かえりたい”とかすれ声で呟いた。 

点滴の方法、緊急の時に2004年の時の主治医の

先生が駆けつけてくださること、

ケアマネの紹介や諸々の手続きを経て

父の願いどおりに、8月、父は自宅に戻った。

そして、一月もたたないうちに父は、

母と私が見守る中、静かに息を引き取った。

 

一瞬、私たちが父の枕元でうたたねを

してしまった、明け方4時ごろのことだった。

ふと、目を開けてみると、すでに父の

呼吸が止まっていた。 

しかし、あまりにも、穏やかで、

生きているときそのままの父の寝顔に

自分の幼いころの祖母の死を重ね

合わすことはできなかった。 

あの時は何故かとても、薄暗い中、

死の異臭とともに、

いたたまれない気持ちを幼心に刻んだ。

父の安らかな顔に、白い布をかぶせたくなかった。

翌日、甥御や姪御、父の孫たちが、

弔(とむら)いにきた。

 

彼らも、まるで 静かに仮眠している

おじいちゃんの周りで、

遊ぶかのように、明るく、はしゃいでいた。

’怖い’とか’おどろおどろしさ’とか、

死という特別な感覚すら、

彼らには感じられなかったのかもしれない。

それほど、父の横たわる、部屋には、

明るさと清浄な空気の流れすらあった。

私は、数日、父の亡骸のそばで眠り、

葬儀の送り人が来るまで、

一緒の部屋で過ごした。

 

涙が出てきたのは、それから、

数か月たってからだった。

ヴェランダの地平線にかぶさる、緑の丘陵をみながら、

部屋でポカンとしていたときだった。

思い切り、慟哭したい気分に襲われた。

”お父さん、どこへ行ってしまったの?” 

聞き分けのない子供のような質問が 

口からついて出た。

心のタガが外れた。 とめどなく、

突き上げる感情を抑えることはできなかった。

半時間以上、”お父さんお父さん”と

口に出しながら、心の赴くままに、

涙を出し切った。

もう二度と会えないという感覚が 

実感として、戻ってきたのだった。

 

何故だか、父の魂は遠くにいて近くにいる。 

近くにいるようで、すでに、次の霊的条件を見つけて、

生まれ変わりの準備をしているような気もする。

同時に、残された母、今、一人、日本で

私の帰りを待っている母を 

彷彿と心に浮かべている。

 

 

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