「突端台地」に誘蝶のための植物を植え始め「バタフライキッチン」と自認していた。台地下の食草園は食草と言うより木本が主体なので、草本類を核にした「食草園」を構成したくてトンボ池の東の草原に枠を設えノアザミやイヌガラシの群落を出現させようと始めたのが初夏の事だ。しかし木本類と異なり草本類は面積が必要で、そこではちと狭いのだった。
その上、「チョウ」ばかり優遇するのも「身びいき」や「差別」に近いのかもしれないと思いはじめ「虫用のキッチン」が生物多様性を向上させるためにも好ましく、と言うより「必須」と結論付けて妄想執着し始めたのだ。まあ、思い込みは継続の力なり・・・と言われているではないか。
経験値からでは「選択的刈り払い」でも役に立つと思っているけれど、そこを一歩踏み込んだ設えを試みたくなったのである。選択的刈り払いだけだと他人の目には「横着刈り」としか映らず、表示や制止しておかねば全面刈り払いに至る危険が常にある。故にそうしても「この場所はbugs kitctenです!」の主張と理解が必要なので、世間の常識で処理されない為にはやはり表示は必須なのだ。昆虫の生きるよすがとなる草本類の種子を採り蒔きし育成ポット苗を野草の間に定植してきたが、日当たりの良い場所はことごとく全面刈り払いの対象で結果は惨敗。
まあ、日常生活との関係性を持たなくなった「保全」の現在進行形での在り方は「雑草」それゆえに世間様の「保全」の常識や道理の外なのである。農耕民族の伝統下では「雑草」でなく「野草」の認識は絶望的だ。
ネットで情報を探せば「バグハウス」や「バタフライガーデン」などは多々羅例されて読めるし、周知の人も多いのだろうが「bugs kitcten」とか「insect kitcten」などはヒットせず、類似のヒットは虫模様の衣類ブランドであったり昆虫食であったりで参考に値するような資料は見つからなかった。
と言う事は、そもそも昆虫に食事と繁殖場所を提供する目的の環境作り・フイールド構成などの視点は「無い」に等しいのかもしれない。となれば最後の手段は爺我自賛、「私が歩いた後が道になる」のであるが終活では無い事をお断りしておかねばならない。
論法としてはいささか強行かもしれないけれど概念としては悪くないはずだ、と独りキラキラ明けの明星となったのだった。 後は具現化するだけの事で老骨に鞭打ち「我はMかぁ⁉Sかぁ⁉」と自問しつつ痛い足腰肩腕に湿布をし、灸を据え、磁気粒を張り付け直突妄進するだけである。何とも容易ではないかい。春には「season1」を楽しみたい。懐も先行きも寂しいだけの孤老にとっては「go toなんとか」なんて彼岸だけであり聴きたくも見たくも無い。ホント、税金使うにも易きにだだ流れさせておる能無しどもめ。雨天の暇つぶしに国会中継を見たものの官僚が作った原稿しどろもどろ読みの手太楽では馬鹿馬鹿しいだけの茶番であって労務作業の方が世のため人のためになろう。
繰り言はさておき、そこで「突端台地」の出番なのだった。既にノアザミやフジバカマ、オミナエシ、シモツケなどを集めてある。これらにS先生の助言を得て食草用の野草群落を創出するのだ。こうなるといつもの持病が出て来る。「とにもかくにも片付けたい!」しかし既に季節は初冬で野草のほとんどは枯れ草状態へ怒涛の如く進行中なのだ。ヤマハギやカラムシなどの宿根草類は目当てがあるものの、構成や配置などは端緒についてもいない。それでも移し替えや変更は可能なのだから集められる種類は今のうちに定植しておけば来季は早くから環境が整うはずである。
やるべきことが溜まり過ぎて、でも消化せねば片付かない。ホント、ロミオの心境が良ーく分かる。それがあるがために午前三時に覚醒する、この不幸、重圧、手かせ足かせ、ホントもホント、野猫にだって「手を貸せ,足貸せ」と言ってしまいたいわい。でもでも見返り見返りしながら藪に入ってしまう野猫。野猫も寄ってはくれぬ孤老だ!孤老だ!苦労だ!ああ特攻台地!特攻大事!トクホン大事!。てなもんや三度笠。

耄碌阿呆の境地であってもたまには木久扇師匠のごとく回路は繋がる。とは言え「三つ子の魂百までも」の諺の通りの呪縛からは飛び出せないままなのだ。13人家族での成長期、お菓子量奪還に余念のなかったお客が帰った後の菓子皿、言うまでも無く雅な生まれも育ちもベースにあるとしても「三つ校の魂百までも」は残っている。
義務教育だった小中、実業高校機械科、更に福祉学科と一貫性は欠けてはいるがパッチワークとしては活きている。それらの果てがBugs kitcten のような環境創出福祉感覚に反映されている様に思える。
もとより飼育動物でのanimal welfare などの考え方は周知されてきたもののenvlronment welfare という表現が正しいかどうかは分からないけれどecology (環境保護)とは少なからず異なる感覚がある。より積極的な環境多様性を創出する、と言っても良いだろう。良く言われる生物多様性の下地には植物多様性があっての事だし、それはとりもなおさず環境多様性の賜物なのだと姥捨て山の孤爺は喝破したのだあった。こういう覚書は回路が繋がっている未明に打って置くに限るわい。それを忘れると木久扇師匠症候群に戻ってしまいかねない・・・。これは何⁉おいらは誰⁉、クワバラクワバラ。
その上、「チョウ」ばかり優遇するのも「身びいき」や「差別」に近いのかもしれないと思いはじめ「虫用のキッチン」が生物多様性を向上させるためにも好ましく、と言うより「必須」と結論付けて妄想執着し始めたのだ。まあ、思い込みは継続の力なり・・・と言われているではないか。
経験値からでは「選択的刈り払い」でも役に立つと思っているけれど、そこを一歩踏み込んだ設えを試みたくなったのである。選択的刈り払いだけだと他人の目には「横着刈り」としか映らず、表示や制止しておかねば全面刈り払いに至る危険が常にある。故にそうしても「この場所はbugs kitctenです!」の主張と理解が必要なので、世間の常識で処理されない為にはやはり表示は必須なのだ。昆虫の生きるよすがとなる草本類の種子を採り蒔きし育成ポット苗を野草の間に定植してきたが、日当たりの良い場所はことごとく全面刈り払いの対象で結果は惨敗。
まあ、日常生活との関係性を持たなくなった「保全」の現在進行形での在り方は「雑草」それゆえに世間様の「保全」の常識や道理の外なのである。農耕民族の伝統下では「雑草」でなく「野草」の認識は絶望的だ。
ネットで情報を探せば「バグハウス」や「バタフライガーデン」などは多々羅例されて読めるし、周知の人も多いのだろうが「bugs kitcten」とか「insect kitcten」などはヒットせず、類似のヒットは虫模様の衣類ブランドであったり昆虫食であったりで参考に値するような資料は見つからなかった。
と言う事は、そもそも昆虫に食事と繁殖場所を提供する目的の環境作り・フイールド構成などの視点は「無い」に等しいのかもしれない。となれば最後の手段は爺我自賛、「私が歩いた後が道になる」のであるが終活では無い事をお断りしておかねばならない。
論法としてはいささか強行かもしれないけれど概念としては悪くないはずだ、と独りキラキラ明けの明星となったのだった。 後は具現化するだけの事で老骨に鞭打ち「我はMかぁ⁉Sかぁ⁉」と自問しつつ痛い足腰肩腕に湿布をし、灸を据え、磁気粒を張り付け直突妄進するだけである。何とも容易ではないかい。春には「season1」を楽しみたい。懐も先行きも寂しいだけの孤老にとっては「go toなんとか」なんて彼岸だけであり聴きたくも見たくも無い。ホント、税金使うにも易きにだだ流れさせておる能無しどもめ。雨天の暇つぶしに国会中継を見たものの官僚が作った原稿しどろもどろ読みの手太楽では馬鹿馬鹿しいだけの茶番であって労務作業の方が世のため人のためになろう。
繰り言はさておき、そこで「突端台地」の出番なのだった。既にノアザミやフジバカマ、オミナエシ、シモツケなどを集めてある。これらにS先生の助言を得て食草用の野草群落を創出するのだ。こうなるといつもの持病が出て来る。「とにもかくにも片付けたい!」しかし既に季節は初冬で野草のほとんどは枯れ草状態へ怒涛の如く進行中なのだ。ヤマハギやカラムシなどの宿根草類は目当てがあるものの、構成や配置などは端緒についてもいない。それでも移し替えや変更は可能なのだから集められる種類は今のうちに定植しておけば来季は早くから環境が整うはずである。
やるべきことが溜まり過ぎて、でも消化せねば片付かない。ホント、ロミオの心境が良ーく分かる。それがあるがために午前三時に覚醒する、この不幸、重圧、手かせ足かせ、ホントもホント、野猫にだって「手を貸せ,足貸せ」と言ってしまいたいわい。でもでも見返り見返りしながら藪に入ってしまう野猫。野猫も寄ってはくれぬ孤老だ!孤老だ!苦労だ!ああ特攻台地!特攻大事!トクホン大事!。てなもんや三度笠。

耄碌阿呆の境地であってもたまには木久扇師匠のごとく回路は繋がる。とは言え「三つ子の魂百までも」の諺の通りの呪縛からは飛び出せないままなのだ。13人家族での成長期、お菓子量奪還に余念のなかったお客が帰った後の菓子皿、言うまでも無く雅な生まれも育ちもベースにあるとしても「三つ校の魂百までも」は残っている。
義務教育だった小中、実業高校機械科、更に福祉学科と一貫性は欠けてはいるがパッチワークとしては活きている。それらの果てがBugs kitcten のような環境創出福祉感覚に反映されている様に思える。
もとより飼育動物でのanimal welfare などの考え方は周知されてきたもののenvlronment welfare という表現が正しいかどうかは分からないけれどecology (環境保護)とは少なからず異なる感覚がある。より積極的な環境多様性を創出する、と言っても良いだろう。良く言われる生物多様性の下地には植物多様性があっての事だし、それはとりもなおさず環境多様性の賜物なのだと姥捨て山の孤爺は喝破したのだあった。こういう覚書は回路が繋がっている未明に打って置くに限るわい。それを忘れると木久扇師匠症候群に戻ってしまいかねない・・・。これは何⁉おいらは誰⁉、クワバラクワバラ。