the other side of SmokyGitanesCafe
それとは無関係に・・・。
 





GITANESの匂いは線香ほどもきつくないが、確実に線香より臭い。
それとは無関係に・・・。


こうも違うのか!

と思えるのは、揚げたてのドーナツの味である。
嘘だとおもうなら一度、ドーナツの店へ行って
「作りたてはどれですか?」と尋ねてからそれを食べてみればわかる。

できればシンプルな品の方がより良い。
「できたてって、こんなに違うのか!」と、必ず感じるはずである。



まあ、好きなものであれば出来立てであろうとなかろうと
美味いのには違いないから、例えばドーナツ店で食べなくても
自宅に持ち帰り、コーヒーだけは自分で淹れて食べれば
やはりそれなりに美味い。

噛めばサクサクと小さい音がして、ドギツくない程度の甘みがあればいい。
そして一口目はとんでもなく苦くて、二口目からはいろんな味がするコーヒーがあれば
なおいい。


そういう諸々のことを体感できるのも、それは我々が人間だからである。

犬にはそれができない。
そもそもドーナツショップで買い物ができないのだから、自分が食べたいドーナツを
食べたい量だけ購入して、コーヒーとともに食べよう なんてことはできない。

うちにいる柴犬(ケンタロ ♂)なんて歯を磨く習慣がないもんだから
(おそらく歯磨き作業を使用としたら、毎日けが人が出るだろう)
好きなものを好きなだけ食べさせるということはできない。
そもそも人間の嗜好品を犬に与えるのはいいことだ って話は聞いたことがない。


ああ、人間というのは・・・
と考えながらドーナツを齧る。サクサクと小さい音がする。
食べながら、さらに考える。
「別に、犬にドーナツを遣ってもよかったのかもなあ・・・。あいつは満足な食生活を
送ったんだろうか・・・。」

そんなことを考えた。






そんなことを考えたのは、ケンタロが土曜日に死んだからである。


元々の飼い主である父が亡くなってから7年経つ。

どこか具合も悪かったのだろう。
高齢でもあった。腰も曲がり、歩きにくそうにしていて
ここ数カ月は散歩にも行かなくなってしまっていた。

しかし、医者が大嫌いな犬である。
治療を易々と受け入れることはない。
治療の痛みは他の痛みとは違うんだ ということを理解できるはずがない。
それ自体がストレスの原因となるだろう。
だから医者にはとうとう診せなかった。

医者が嫌いで、毎年の予防注射にもかなり苦労させられたヤツだ。

屋内で飼われることを断固拒否したヤツだ(晩年はそうでもなかったが)。

鎖でつながれることを断固拒否したヤツだ。
おかげでいろんな用途を想定していた20坪ほどの面積を占有し(フェンスあり)、
あっちへウロウロこっちへダッシュ!なんて生活をしていたヤツだ。
冬は日当たりとともに、夏は日陰を求めて自由に歩いていたヤツだ。



数か月前から少しの段差を登れなくなったが、これは少々芝居が混じっていたようだ。
どうして芝居だとわかったかというと、
弱ってきたのを気遣って玄関で起居させるようにした途端に
登れないはずの床のレベルをやすやすと乗り越え、仏壇の前までトコトコと歩いて行き
座布団の上で丸まって寝ていたところを見つけたからだ。
「お前、歩けるやないか!」



エサは亡くなる直前まで食べた。

食べるドッグフードの量は減っていったが、少なくとも犬用ビスケットは
がっついて食べた。


私の手から直接、死ぬ数時間前にビスケットを2枚食べた。
あと一袋残っているのに、2枚しか食べなかった。




脱走して野犬の王となった(と私は信じている)先代飼い犬のケンスケの後を継ぎ
我が家にやってきた子犬ケンタロは、ケンスケよりずいぶん目が小さくて
口の周囲が盗人メイクのように黒かった。
この黒い部分はどんどん解消されていったが、目はとうとうちいさいままだった。
どことなく西洋風な顔立ちのケンスケより、かなり日本犬だった。いや、誉めてはいないぞ。


医者嫌い、屋内嫌い、救急車のサイレン大好きで、

私が帰宅するたびに全身で喜びを表現するダンスを披露してくれたのは
単に「散歩!散歩に連れて行け!いや、散歩に連れて行ってやるから
はやく着替えて来い!!」というサインだったはずだ。



目を閉じる瞬間を家人がたまたま見届けられたのは奇跡だったかもしれない。


痩せて顔立ちも変わってしまっていたが、亡くなったあとはなぜか
キリッとした顔に戻っていた。
舌も外に出ず、キリリと口を閉じ、前足に側頭部を乗せて
「ちょっとうるさいから、騒ぐな。もう寝るから。」と言っているように、つまりいつものように
ケンタロは寝たままになった。




ペットの火葬 というキーワードで調べた業者にコンタクトを取り
翌日火葬した。
「遺骨は全部持って帰るから、全部壺に入れてくれ。」と頼んだ。
骨壺に入ったケンタロを連れ帰った。

業者(葬儀屋でもある)は
「ではお別れしましょう」と、私に焼香を促した。
『ケンタロは別に仏教信者ではないがなあ・・・』と思いながら
『まあ、ごくろうさんでした』と、三度香を焼いた。



7年前になくなった、元々の飼い主でもある私のオヤジの遺骨は、もうちょっと家に置いておこうということで
まだ自宅の仏壇に鎮座しているのだが、
「ホネ全部入り」のケンタロの骨壺の方が、オヤジのそれより三倍でかかった。

いつも仏壇の前に置いている座布団がどうやら好きだったらしいので、
それを骨壺の台にした。







愛犬家の行く天国 という話がある。

愛犬家が死んであの世に行くと、ずっと向こうの方に門が立っている。

その門の傍らには、その人が生きている間に飼っていた犬が全員集合して並んでいる。
懐かしい顔ばかりだ。
近づいていく。

やがて元主人に気付いた犬たちは、ちぎれんばかりに尻尾を振り
一斉に駆け寄ってくる。
また会えた、また、会えた。




ケンタロの行くところは逆の天国なのだ。



門のところにはオヤジが待っている。
オヤジには尻尾がないから、手ぐらいは振るだろう。

尻尾を振るのはケンタロの方だ。

ケンタロがダッシュしていく。



「また会えた、また、会えた!」







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GITANESを吸いながら読めばなお入り込めるのだが。
それとは無関係に・・・。


『素湯のような話 お菓子に散歩に骨董屋』 早川茉莉編、ちくま文庫、2014年


という本があって、一気読みせずにめずらしく毎日ちびちびと読み進め
ようやく読み終えたのだが、これがかなり面白い。

独特の空気はちょっと枯草のようなにおいがする(と勝手に思っている)のだが、
淡々としていて、かえってマネのできない調子になっている。


最近初めて知った人の書いたものがこんなにも面白いというのは
幸せな出会いである。

いやあ、世界は広い。

というよりも私の世界の なんと狭いことか。


これを読んでからなら、
枕草子も徒然草も読む気になれる。

いやあ、世界は広い。




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GITANESとの併用は命取りになる。
それとは無関係に・・・。



風邪をひいた。

どうも5年に一度は風邪で病院で行っているようだ。
どうしてわかったかというと、今回行った医者に履歴が残っていて
それが10年前と5年前だったからである。

ちょっとのどが痛くて、鼻水が止まらない状態。
普通なら放置しておくのだが、そうするといつも長引いてしまうので
熱もなく食欲もある状態で医者にいった。



で、どっさり薬を処方され、
それを律儀に飲んでいるのだが、どうもこれがつらい。
まさに酩酊状態としか言えないほどフラフラになってきて、意識が飛びそうになるのだ。

医者に電話して確認すると
「眠くなる成分を含んだ薬が3種類含まれているので、眠くなります。」
との返答。
「じゃあ、どうすればいいのれすか?」と呂律も頼りなく尋ねると
「仕事に障りがあるのなら朝も昼も飲まないでください。夜だけ飲んでみたらどうですか?」
とのシンプルな答えだった。
『じゃあくすりを変えましょうか?』なんて返答に淡い期待を寄せていたが、至極当たり前な
アドバイス。

しかし、それでは風邪の症状は治まらないんじゃないだろうか?と強烈な疑問が残る。


まあ、また5年後にでも尋ねてみよう。



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