the other side of SmokyGitanesCafe
それとは無関係に・・・。
 



GITANESを吸いながらじっくり考えるのが
書斎の整理だったのに。
それとは無関係に・・・。

しばしばここには「書斎の整理」というキーワードが登場するが、
先日の休みには久しぶりに「清掃と整理」をした。

まずはマスクを装着して、「ゴミか、ゴミではないのか」をしっかり分ける。
しかし「どちらでもない」というモノがいくつか出てきて、開始数分で
『しっかり分ける』ことを諦めた。
とにかく「確実にゴミだ」というものだけをゴミ袋に入れる。
あっちにもこっちにもある大小の空き段ボールをひとまとめにする。
軽くハタキであちこちをパサパサする。
今回は文庫本収納スペース不足の解消をメインの目的としているので
とりあえず乱暴に突っ込んだり重ねたりしている文庫本を棚から
おろす。ジャンルとか著者という分け方で、とにかく床に積み上げる。
色々考えすぎると作業はまったく進まなくなるから、雑にどんどん
進める。どうせまた無茶苦茶になるのだからそれでいい。
特に増え続ける文庫本はもうこじ入れるスペースすら足りなくなって
きていた。だからもう背表紙をきれいに並べるなんてことは諦め
横積みをメインにした。
あとで取り出しにくかろうが関係ない。取り出す・取り出さないの可能性
の話より、収納しておくスペースがない方が大問題なのだ。

横積みにしてどんどん整理していくと、当たり前だがどんどん空きスペース
が増えていく。おお、これでまだまだ文庫本は増やせるではないか。

文庫が片付いてくるとそのほかの本も気になってくる。
しかしもう、文庫本を何とかしただけで気力も体力も使い果たした。
あとは安らかに、厚着して書斎の床に寝そべって本を読むべきである。
だからその他の本(文庫より当然そっちの方が多いのだが)や
本以外のガラクタの整理は次の休日に持ち越しとなった。

↑整理前
↓整理後
このような横積みだと一冊抜き取るのに最大で10冊以上を一旦取り
出すことになり面倒ではあるのだが、面積は有限であり本は今後も
無限に出版されるのだから背に腹は代えられない。
さて今回の整理で「実は未読だった」本を7,8冊発見したので
未読棚へ移した。なんか、得したような気分になっている次第である。


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GITANESはほぼ迷惑な匂いと味。
それとは無関係に・・・。

知り合いの弁護士と雑談していると、いろいろ面白い話が聞ける。
もちろん個々の事件の話など一切口外されないし、関係者や事件
そのものを特定できるようなことも言わず、もちろん固有名詞も
出されることはない。あくまでも一般論、あくまでも雑談。

〇「カネの問題じゃない!」と主張する人のほとんどは
「カネの問題」である。
もちろん最終的にはカネのやりとりがつきまとうのだろうが、
こういうフレーズを口にしがちの人は「カネの問題」であるらしい。


〇「ギャンギャン言ってくる人は、実はかなりビビっている」
これもケースによるのだろうけど、声高に激しく自己主張する
人は、結構な確率で「わりとビビってる」とのことだ。
これも弁護士の個人的な感想なので、統計とは関係ないし
そもそもそんな統計を取った人もいないだろう。

〇「仲がよかった時期に作った契約書には注意せよ」
その言葉の通りだ。


一般論的裏話が面白そうなのは、警察官・弁護士が2トップでは
なかろうか。非合法組織は別として。


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GITANESにまつわる年賀状を何度か送ったことがある。
それとは無関係に・・・。

「今回をもちまして」とか「来年から」
『年賀状を送るのをやめます』という知らせが相次いだ。
勤め先については先日も書いたように会社の「虚礼廃止」に伴い、
社内従業員間の年賀状やり取りはほぼ全廃されたが、知人・友人
だけでなく親戚の多くが「年賀状やめます」と宣言してきた。
不思議なのは
「年賀状を送るのをやめます」とは言ってくるが「だからあなたからの
年賀状も不要です」と言ってくる人は皆無である。
年賀状送るのやーめた、というのもなかなか不遜だが、
お前のも要ーらない、というのもすっきり無礼である。
でも、年賀状を送らない時点で(宣言するしないにかかわらず)
無礼なのだから、これでいいのだろう。
郵政省も、ハガキの値段を35%上げたら、年賀状の数が34%
減ったとのことだ。
これで「値上げして枚数減ったのなら意味ないではないか」
と批評する人もいるらしいが、枚数が減って売り上げが同じなら
それはそれでおいしいのではないかと思うのだがどうだろうか。
電子メールがほかの通信手段を席巻したころは、「これで年賀状の
やり取りが減るんじゃないか?」と思ったが、少なくとも私の
身の周りではそれほどの変化はなかった。
やはり値上げは時代を易々と変化させるのだ。

私がいつも作っていた年賀状は局所的にウケがよかったのだが
それももうお役御免である。
生まれて初めて書いた年賀状は確か小学一年生のときだったと
思う。思えば長く続いた習慣だった。
それなのに、なくなってもまったく困らないし、寂しくもなく
「どうでもいいな」と思えるのが不思議なのである。


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GITANESを買い忘れていたことは最大の事件だった。
それとは無関係に・・・。

忘れたはずが
と言っても、「もうあの人のことは吹っ切れたハズだったのに・・・」
的な色艶のある話ではない。単純に忘れ物の話である。
スマホをリビングのテーブルに置いたまま会社に来てしまった。
『こんなところに置く日に決まって、忘れていくんだよなあ』
と思っていたらその通りに忘れてきた。
クルマを始動させて5分ぐらいだったから、十分引き返す時間は
あったのだが、もう道路の流れに乗ってしまっているしなあ、と
考えながら運転していたら、呆気なく会社に到着してしまった。
さて不便だなあ、スマホはやっぱり要るよなあ・・・
と上着のポケットに手を突っ込んだら、そこにスマホがあった。
いや、こんなところに入れた覚えは欠片もないのだ。それなのに
あった。誰もこんなところに入れてくれないから自分で入れたの
だろうが、まったく記憶にないのだ。

あ、イヤホンを置いてきてしまった。あれがないとコンビニまで
歩くときや、休憩室でバリアをはりながら休憩する際に不便なのだ。
どうしよう、コンビニかどこかで安いのを調達しようか
と考えながら、財布を取りだそうとしてカバンを開けたら
そこにイヤホンもあった。
これも自分でそこに入れた記憶がまったくない。
あ、万年筆のインク補充用のスポイトを忘れたと思ったら
これもカバンに入っていたし、あ、昨日書斎でいじっていた手帳!
あれがないとアカン!デスクに置きっぱなし!と思ったが、
これもまさかカバンにあったりして、と思ったら、カバンではないものの
コートのポケットから出てきた。

いやそれらは結果的に忘れ物にはならなかったのだ。
しかし、まったく記憶にないままにそれらをカバンやポケットに
ちゃんと入れたということ自体が「忘れ物するよりヒドくないか?」
と思えるのである。
忘れ物による自分の被害は一切ないのに、そういう次第で
精神的にはダメージを少なからず受けている訳だ。

忘れたいことだけきっちり忘れられて、覚えておきたいことは
ずっと覚えておきたい。
でも、覚えておきたいという願望が叶えられるかどうかもわからないから
どこかに記憶しておく必要がある。例えば手帳に書き留めるなどの
方法でなんとかしようと考える。
で、その手帳自体をどこかに置き忘れてしまうんだろうなあ。
二重三重の備えをしても、「忘れる」というどうしようもない現象
の前では無力である。
忘れる・が最強なのだ。

で、実は結びになかなか気の利いた結び方を思いついていて、
それに向かってここまで書いてきたのに、すっかり忘れてしまった。
まあいいか。



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GITANESは読書のお伴。
それとは無関係に・・・。

年末年始というと読書習慣がある人にとっては格好の読書チャンス
なのだろうが、あいにく大晦日まで仕事で、明け2日から仕事に行く身
としては、ほかの時期とまったく変わりがない。
まとまった休みをこの時期に取ったことなどないから、読書と年末年始
はまったく結びつかない。
テレビの音がうるさかったりするので、逆に環境的には読書に
向いていない。
だから淡々と、いつものように読む。

村木嵐/いつかの朔日
徳川家康誕生前から天下統一直前まで、いくつかの局面をそれぞれ
短編で編成されたもの。
どちらかというと家康本人よりも周辺の人々の物語だった。
徳川家康にはまったく興味もないのだが、その時代のストーリー
となると無条件で読みたくなってしまう。
そういえば、初めて読んだ長編は山岡荘八の徳川家康全26巻だった。

冲方丁/十一人の賊軍
映画を観たという麗人に教えてもらったところによると、
小説と映画はエンディングがかなり、というよりまったく違っている
らしい。
映画の方を観る予定はないが、どうも映画の終わり方がいいような
気がしている。

オイゲン・ヘリゲル/弓と禅
来日して弓道の師匠に弟子入りした、ドイツ人哲学者の書いたもの。
ドイツ語を日本語に訳したからか、どうも独特の表現が続くなあと
思っていたが、解説を読んで、実はドイツ語と日本語の言い回しの
ズレというところにもこの本の肝があったのだとわかった。
それならば、そうなのだろう。
弓道から禅に近づくというアプローチに挑戦し、一応の成功を
得た著者だが、だからといって「ああしろ、こうしろ」と言わないところが
いい。

鈴峯紅也/風の忍び1
幼いころは忍者という世界が大好きだったが、どうもこの歳になって
ぶり返したようだ。忍者というタイトルにいちいち反応してしまい
書店では手に取ってしまう。
この本はとにかく、買ったその日に読んでしまえる本。
面白い。そして日本のものらしく、「技を繰り出すときにわざわざ
その名前を宣言する」という轍を踏んでいる。
つまり悟空は「かめはめ波ーーーーー!」と叫ぶし、デビルマンも
「デビルウィング!」と宣言するし、マジンガーZも「ブレスト
ファイアー!」と声を出す。
この本の登場人物も「風魔忍法●●!」と宣言しながら技を出す。
言わなければバレないのに。
でもこれは日本の活劇の様式美なのだから、この手法を採ることに
より「この作品は純然たる娯楽作品です」と宣言しているに等しく
だから安心して活劇を楽しめるのだ。


伊与原新/宙わたる教室
定時制高校の学校もの。物語の最後が「かなり大きな話になってきたなあ」
と感じたが、実はこれ実話をベースにしていると解説を読んで知り、
それならばそうなるのは必然だったのだ。
NHKのドラマで昨年の暮れに放映していたらしい。
そっちにも興味がなくもないが、私にはやはり「他人のペースであるドラマ」
よりも「自分のペースである本」が性に合う。


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GITANESが常にポケットに一箱、カバンに一箱、
机にワンカートンというのが日常だった。
それとは無関係に・・・。

恐るべきことに、もう年が明けてから1週間以上経過してしまった。
なんということか、全人類は寿命が尽きるまでの日数からすでに
1週間も消費してしまったのだ。これは大変なことだ、急いで
忘れよう。

一昨年の年末(12月の半ば)から、取引先各位にCCで
御礼とごあいさつというメールを送信するようにした。
内容は、今年一年の御礼と来年もよろしくというものだ。
非常に礼儀正しいではないか、私。
ところが真の目的は外にある。
何度も何度も何度も何度も書いているが、無駄なあいさつ回りを
撲滅したいだけなのである。
歳暮を頂戴して、2,3週間経ったら年末のあいさつにいらっしゃって
元日あたりには年賀状も届いて、そして年明けすぐに年始のあいさつに
入れ替わり立ち代わりいらっしゃる。
これらのどれかは確実に無駄、本音を言えばすべて要らんことなのだ。

『年末年始はあいさつまわりが仕事だ!』と営業マン心得を忠実に
守っているのか、旧弊からなかなか脱却できないのか知らないが
挨拶を頂戴する側としてはそんなことばかりやっていられないのだ。
忙しいのだ面倒くさいのだ声が枯れるのだ咳が出るのだ立ったり座ったり
が煩わしいのだうれしそうな顔を作るのが大変なのだ同じような話を
するのが億劫なのだ。
それでももちろん大歓迎な芝居を完璧に演じるのだが、各営業マンの鑑
諸氏が「一日に何十件も廻らないといけないのが大変だ!」と
思っているのと同様に「一日にそういう人が何十人も来られる」のも
なかなか大変なのである。
これはもう分数の約分みたいにできないか、相殺できないのか。
これが毎年の不思議、毎年のストレスなのである。
もし、せーの!でやめることができれば、年末と仕事始めの日の
渋滞がかなり減る。ガソリンの消費は抑えられ、交通事故も減る。
本来の仕事にみんな集中することができる。
やることがないのなら休みを増やせばいい。
まことに良いことづくめではないか。

だから、そのあいさつのメールは署名のあと追伸として

「年末年始のごあいさつにお越しいただくのは恐縮ですので
本メールでごあいさつに代えさせていただきます。」
と添えている。言外に「来るに及ばず」ということだ。

このメールを送ることによって、相手側はいくつかに分類
できるようになった。
一番多いのは「そのメールに対し、挨拶メールを返信する人」
である。
そのほかには
「反応がない人」
「メールに対し、電話をかけてきてメールの御礼とあいさつをする人」
「そんなメールに関係なく年末にも年始にもやってきて、口頭で
メールの御礼を述べる人」
やっぱり来社する人はもう何の手立ても効かないのだろう。
諦めるしかない。自分だけは特別なのだと思い込んでいるようだ。

一番やっかいなのは、私の事実上の「訪問辞退」のメールにも
かかわらずやっぱりやってきて、その時こっちが留守だったので
ごあいさつというスタンプを押したメールを置いていき、私が
戻っていそうな時間帯を見計らって電話をかけてきて
「さきほどお留守だったので」とあいさつし、また後日やっぱり
会社にやってきて「名刺やお電話でのあいさつで失礼したので」
と結局直接あいさつの儀式を強行する、というスタイルの人で
目下これが最強最恐である。
もう「謹賀新年」のかわりに、「立入禁止」という四文字を
どこかに貼っておくしかないのかも知れない。





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GITANESの味がそもそも不具合。
それとは無関係に・・・。

昨日の投稿を読んだ人はわかっているでしょうが、
内容が無茶苦茶になっていた。
普段から無茶苦茶な内容なのに何を言っているのだ?という意見は
さておき、文章中で何度かループしてしまっていた(すでに修正済み)。
投稿する前からおかしかった。
gooのサイトになかなかアクセスできないし、もちろんgoo blogなんか
まったくつながらない状態。
つながったと思ったら、「新規投稿」のページが壊れていて
入力スペースがなかったり。
これはもう終わりの始まりではないか。繋がらないんだから仕方ない。
やっとこれでSGCも終了だ、と足を洗う大義名分ができたなあと
思っていたのに、しばらくすると復旧したような雰囲気になる。
そして投稿したのはいいが、冒頭に書いたように「文中で内容が
行ったり来たり」で壊れていた。
そういえばスーパーマーケットのレジの支払いの不具合もあったそうだし
d払いも不具合があったということだ。
システムって、正月には弱いのだなあと再認識した。

交通(自動車)にもいろいろ不具合があった。
他府県ナンバーが目立つのは正月ならではの光景で、それは仕方ないが
道不案内なせいか、どうもウロウロしている様子のクルマが多い。
ウィンカーなしに右左折したり、前触れなしに商業施設や店の駐車場に
入って行ったり、かと思うと入りかけてやっぱり躊躇ったり。
正月だから急きも慌てもしないのだろうが、ゆっくりゆっくり走る。
すでに仕事が始まっている人間からすると、走りにくいことこの上
ない。
集客力のある神社仏閣付近では違法駐車もかなり多く、渋滞も
日が沈んでもなかなか緩和されない。
違法駐車してまで拝んだところで、何かご利益があるとでも
思っているのだろうか。
個人的には「違法駐車して神頼みする奴」と「投資雑誌を立ち読みする奴」
がアホ代表だと思っている。前者はただの罰当たり。後者は
「それをケチる奴が成功するものか」である。

ということで、いやぁ、めでたい。


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GITANES休止から随分経ったけど、
書き出しはこれが便利。
それとは無関係に・・・。

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

という内容が新年一発目の更新だというサイト、ブログが多く
「なんや、それだけかい?」と思うことが昔からたびたびあったので
SGCではそんなことはしないぞ、と言いたいところではあるが
本当に書くことがなくて日々四苦八苦している状態なのである。
これで課金サイトなら無理やりにでもひねり出して書くのだろうけど
一銭にもならんのになあ、と半ば自分を信じられない面持ちで
眺めているような状態だ。まあ何かしら書こう。

会社の同僚で「今年が年男」と言う人がいた。
ということは蛇(巳)年生まれだ。
巳 というのは「止む」ことを指す文字だとのことだ。
巳 を蛇にあてたのは誰のセンスかは知らないが、見た目そのままで
非常にうまくマッチした文字だと思う。
蛇を身体に喜んで巻き付けたり、ペットとして購入し甲斐甲斐しく
世話をやく趣味の人も少なくないようだが、個人的にはどうも
蛇とは友達になれなさそうな気しかしない。
形状もそうだし動きも馴染めないし、毒をもっているじゃなかろうか
という警戒心もあり、そもそも蛇と疎遠でも人生ではまったく困らない
から「まったく縁のない生き物の筆頭格」なのだが、それらの理由に
加えて、どうやら私は「蛇の顔が嫌い」であるらしい。
そのまた理由は簡単なことで『白目がないから』だろう。
「目が全部黒い」って、なかなか恐ろしいことではないですか?
いや、全部白いよりはいいではないかという気もするが、
全部黒も不気味だ。
漫画などによく描かれるように、少しでもいいから白目もあれば
もうちょっと可愛がられていたはずなのである。
まったく話し合いの余地がないあの目のせいだ。
椎名誠はサメについて同じようなことを書いていた気がするが
蛇もいやだ。まだオオカミとか熊の方が、顔のビジュアルだけで言うと
「こんな出会いでなければひょっとして打ち解けられた?」なんて
勘違いもしやすそう(熊なんて実際どうやっても友達になれない)。

ということでその、話し合いができそうにない「蛇」が今年の
主役だ。
なるべく気にしないでおこう。

元日には近所の、ちょっと大きい神社に。
行列は長く遅々として進まず、すべての感情のスイッチを切って
おとなしく順番が来るのを待つ。
やっと門までたどり着き、ようやく拝殿の様子が見える。
そこで毎年毎年同じの光景が見えた。
拝殿にはもともと正面と右左に賽銭箱が置かれているにも関わらず、
行列はそのセンターに向かっていて、雰囲気的にはその行列を
はみ出すことを許さない空気に満ちていた。
なんで皆、センターに置かれた賽銭箱の場所以外は「ないこと」
になっているのだろうか。拝殿の中心だけではなく、右の場所でも
左の賽銭箱のところでも同じだろうに。
あと数列で順番が来る位置まで進んだところで、すっと行列の
左側に抜け、無人の「左側拝礼場所」に進み、じゃらじゃらじゃら
と賽銭を落とし入れ、二礼二拍手一礼で回れ右して戻った。
まだおとなしく順番を待つ人たちからは「あ、あれってアリ?」
という視線も横目で感じたが、アリに決まっている。何のための
賽銭箱なのか。

たいやきを買って帰った。
薄味だった。

ということで、今年も書きますよ。



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