団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

「週末なのに日曜日がカレンダーの最初に来る理由」について考える

2013-02-26 10:14:52 | 宗教

1週間という考え方は、紀元前3000年ごろ、西アジアの「古代バビロニア※」で誕生したといわれています。

月の満ち欠けが28日周期なので、それを4等分した7日に一週間という概念を与えたようです。

※バビロニアBabylonia、バビュロニアとも)

メソポタミア(現在のイラク)南部を占める地域、またはそこに興った王国(帝国)。

Photo 彼らは太陽を含む7つの星が時間を支配すると考えた。それが月、火星、水星、木星、金星、土星、そして太陽(日)だった。占星術の始まりです。

古代の人々が夜空をながめ、日々変わる星の配置や月の形を観測し、その配置が自然に与える影響に気付き、安定した収穫と自然災害から守るべく暦をつくり、また国家の繁栄や治安維持のために応用していったものが占星術でした。

その7日にそれぞれ星の名前をつけて、一週間という概念を確立したのはエジプト文明であり、当時のエジプトは、土曜日を週の始めとしました。

観測できる惑星のうち、一番遠いのは土星、と考えていたからです。

ところが、その後ヘブライ人※たちが土曜日を最後の週に置き換え、日曜日を週の始まりとした。旧約聖書を読んでも週の始まりは日曜日になっています。

※ヘブライ人

古代イスラエル人の別名。ヘブライ語のイブリーに由来し、「進みゆく」「越えてゆく」などの意味をもつ動詞イブルから転じて、「(ユーフラテス)川の向こうからきた者」を意味する。

このことが西洋の国々に広まり、日曜日から始まるカレンダーが作られたというわけです。

暦には宗教が大きく関わってきます。『旧約聖書』によれば神は世界を六日間で創造し、七日目に休息をとったとあります。それは現在では土曜日にあたるため、ユダヤ教では日曜から金曜までが稼働日で土曜日が安息日となります。つまり、週始めは日曜日になります。

しかし、西暦321年に、時のローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教を公認し、日曜日を主の日(安息日)として定め、11日が主の日(日)に始まるこの日に7日週をユリウス暦に導入し日曜日が週の初めの日としてスタートしました。

Photo_2それまでは、初期キリスト教徒もユダヤ人が多かったため、ユダヤ教の定める土曜日を安息日としていましたが、コンスタンティヌス帝は、キリストの復活した日曜日を休日とするよう強制し、日曜日が安息日となったのは、紀元364年のラオディキア教会会議※により正式に決定されたもので、現在に至っています。

※ラオディキア(Laodikeia)

「国民の義」という意味での小 アジア西部フリギア地方の主要都市のひとつである。

キリストが磔にされたのは「ユダヤの週の6日目」とされています。この日が「13日の金曜日」であったことはあまりにも有名です。そしてさらに決め手として「キリストは週の始めの日に復活した」と聖書にあります。この復活の日は「日曜日」。聖書においても「週の始めは日曜日」だったようです。

現代の我々日本人も、土曜日と日曜日の休日を楽しんでおりますが、ほとんど意識することのない我々日本の文化・習慣も、古代イスラエル王国やローマ帝国、またモーゼやキリストの影響を強く受けているのです。

 日本は旧暦を使用していたが、明治5年に太陽暦に変更されました。そして、その4年後、太政官布告で官庁の休みが土曜の午後と日曜に決まりました。これが土日を週末と呼ぶようになった理由です。

一方カレンダーは、当時国交が緊密であった英国の影響を受けて月曜日始まりのものが使用されていたが、戦後になって米国の文化の影響から、日曜日始まりのカレンダーが普及しまして、今に至っております。

日曜日始まりの「宗教中心型カレンダー」は米国、日本等、月曜日始まりの「労働中心型カレンダー」は英国等々が使用しています。

先にも書きましたが、暦には宗教が大きく関わってきます。『旧約聖書』によれば神は世界を六日間で創造し、七日目に休息をとったとあります。それは現在では土曜日にあたるため、ユダヤ教では日曜から金曜までが稼働日で土曜日が安息日となります。つまり、週始めは日曜日になります。

キリスト教も週の始まりは日曜日としています。この日はキリストの復活を祝う日で仕事を休んで祈りを捧げるため、それが広まって「日曜日=休日」という習慣が増えたといわれています

イスラム教ではムハンマド がメッカを脱出した金曜日を安息日です。

各宗教の安息日

キリスト教

「日曜日」

ユダヤ教

「土曜日」
金曜日の日没から始まり、土曜日の日没で終わる

イスラム教

「金曜日」

要するに、何曜日を始まりにするかは宗教的な背景が強いですが、日本においては世界の多数を占める「日曜始まり」が一般的のようです。

手帳などに月曜始まりのものがあるのは、いうまでもなく土日が休みのビジネスマンの使いやすさを考慮しただけで、土日=週末という概念も、「平日に働いて(学校へ行って)土日に休んで一週間が終わる」という社会全体の行動パターンが生み出したものです。

キリスト教やユダヤ教では、『創世記』で啓典の神が天地創造の7日目に休息を取ったことに由来し、何も行ってはならないと定められた日とされている。一方で、バビロニアの七曜制からきたものとする見方もある。しかしながらも、聖書通りに解釈するのは7日目であり、本来の安息日は現代における「土曜日」だそうです。

したっけ。



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「絵馬に蛇の絵は描いてもいいのか」について考える

2013-01-10 10:40:57 | 宗教

絵馬] の起源は 「生きた馬」 でした。奈良時代の『続日本記(しょくにほんぎ)』(797年完成)には「神の乗り物として生きた馬を奉納していた」、と記されており、神社に馬(神馬=しんめ/じんめ)を奉納する習慣が奈良時代ごろから生れたようです。

昔、馬は神様の乗り物として考えられており神様を迎える為に欠かせないものでした。

Photo 初期には皇室、武将らが「国家安寧」や「武運長久」を祈願して、「馬」を献納していました。

また、地主や有力者が神社に貴重な馬を奉納して、神馬として神事に利用されていました。

馬は高価であるうえ、頭数が増えるに従って社寺側ではその世話が大変で、やがて、より実用的な貨幣や米、野菜類、絹布類が献上されるようになり「土馬」、「木馬」、「銅馬」が添えられるようになりました。

平安時代にはさらに簡素化されて、「板に描いた馬」を一緒に添えるようになりました。

時の有力者が奉納する絵馬は今現在のものに比べて大きく豪華絢爛なものでありました。

これが現在の絵馬起源であるといあわれています。

つまり、神社にとって「生きた馬はありがた迷惑」だったということになります。贈る側と送られる側の利害が一致した結果、絵馬が生まれたともいえます。

また、一説には京都の「貴船神社」では、平安時代、日照りの時には黒毛の馬を、長雨が続く時には白馬、もしくは赤毛の馬を奉納することで「天候祈願」をした記録があります。

後に、実際の馬に代わって、木の板に描いた馬が奉納されたことがあり、絵馬の由来となったともいわれています。

「貴船」の由来は、樹木を育成する神の木生根(きぶね)(木生嶺)の神だそうです。

本宮は「高おかみ※神」、奥宮は「闇おかみ※神(くらおかみのかみ)」が祀られているとも伝えられています。

高おかみの神の「おかみ」という漢字は、雨かんむりに口を三つ、その下に龍と書きます

発祥

古来、雨乞の社として名高い当社には、畏くも歴代天皇様より日照りには黒馬、長雨には白馬又は赤馬をその都度献げて御祈願される例になっていました。

しかし、度重なる御祈願のため、時には生き馬に換えて馬形の板に色をつけた「板立馬」を奉納したと平安時代の文献である『類聚符宣抄』は伝えています。この「板立馬」こそは今日の絵馬の原形と言われています。

貴船神社HPより

『類聚符宣抄(るいじょうふせんしょう)』

737(天平9)より1093(寛治7)の 間の太政官符,宣旨などの公的な文書700通余りを類別し,編集した法令集。《左丞抄》 とも称する。11世紀末ないし12世紀初頭の編纂と推定

時代

絵馬の変遷

奈良時代

生きた馬を奉納(皇室、武将、地主、有力者)

平安時代

貨幣や米、野菜類、絹布類に添えて板に描いた馬の絵で代えられるようになった

室町時代

馬だけでなく様々な絵が描かれるようになった

稲荷神社では狐の絵

三十六歌仙の肖像や武者絵、祈願の対象である文殊菩薩を描いた例など

安土桃山時代

狩野派や長谷川派・海北派など著名な絵師による本格的な絵馬が人気

絵馬堂は今日の美術館のような役割を果たした

江戸時代

家内安全や商売繁盛などの願いをする風習が庶民に広まり、絵馬も小さな物になった

明治時代以降

「伊勢神宮参拝記念」「戦勝祈念」(明治時代~敗戦まで)「厄除け祈願」「子供(特に男子)の誕生を記念して」「干支」など様々なバリエーションが生まれた。

昭和以降

受験生が合格祈願の絵馬を奉納する風習が盛んになった

白蛇など縁起物の動物や、祭りの風景など馬とは関係ない絵馬も多く作られ、寺社の縁起物として、また、お守りとしても人気を博している。

Photo_2 このように、本来は馬の絵だったのが時代とともにいろいろな物が描かれるようになったのです。元の形がなくなって言葉だけが「絵馬」として残って、現代に受け継がれてきたようです。

今年は「巳年」ですから「絵巳」でもいいのです。

したっけ

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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