都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
日毎に寒さを増している北海道ですが、昔はこの時期に丹前は欠かせないものでした。今は家の断熱がよくなり影が薄かったのですが、去年あたりから、急に売り場面積が広くなりました。灯油の高騰によるエコ対策です。
丹前(たんぜん)とは、厚く綿を入れた防寒のための日本式の上着。褞袍(どてら)ともいう。長着の一種。
当初は旗本に支える使用人の旗本奴たちの間で流行し、これが一般にも広まった。
丹前はちょうど綿の入った広袖の羽織のような形をしており、前を紐で結んで着る。また襟と袖口が別布で覆ってある。布地は派手な縞柄のものが多く、これを丹前縞という。
丹前は、江戸初期、湯女風呂が体流行した頃に、神田雉子町の掘丹後守の屋敷の前に出来た「丹前風呂」という湯女風呂がありました。そこに集まる男伊達(遊び人)達の間でド派手な服装が流行ったのです。で、この男達が着ていた服装を「丹前」と呼ぶようになったのです。丹前風という侍の派手な装束も生まれました。
では、なんでそんな服装が流行ったかと言うと、この「丹前風呂」に「勝山」という湯女が大人気でした。彼女が人と変わった格好が好きだったため、目を引こうと男達が競い合ったというわけです。
多分その頃の丹前は現在のものとはかなり印象が違うものでしょう。この辺のくだりは、井原西鶴の「好色一代男」にも描写が出てきます。
江戸で有名な湯女風呂に「丹前風呂」というものがありました。西神田雉子通り、堀丹後守(ほりたんごのかみ)の屋敷前にあったので丹前風呂と呼ばれたのです。この丹前風呂紀伊国屋市兵衛方の抱え妓だったのが「勝山」です。
「吉原大全」によれば勝山は身分の賤しいからぬ人の娘であったが、父の勘当を受けて吉原の遊女になった。初めての道中に屋敷風の髪の結い方で臨んだので、珍しがられて勝山風と呼ばれるようになったという。
勝山は武州八王子の生まれ、正保三年(1646)に丹前の紀伊国屋風呂の湯女となり、その才能と美貌でたちまち江戸中の評判となりました。
のちに紀伊国屋風呂が閉鎖の憂き目にあったこともあり、承応二年(1653)八月、吉原の楼主山本芳順に招かれ太夫となります。
『異本洞房語園(いほんどうぼうごえん):江戸中期の随筆。2巻。庄司勝富著。享保5年(1720)成立。江戸の遊郭吉原の歴史・人物談などを述べる。)』には、「髪は白き元結にて、片曲のだて結び勝山風として今にすたらず、揚屋は大門口多右衛門にて、初めて勤に出る日、吉原五町中の太夫格子の名とり共、勝山を見んとて、町の中の両側に群り居たりける。始めての道中なれ共、遊女の揚屋通ひの、八文字をふみて、通りし粧い、器量、おし立、又双びなく見えしと。全盛は其頃廓第一と、きこえたり。手跡も女筆には珍しき能書也。」
勝山がよみし歌に
いもせ山流るる川のうす氷
とけてぞいとど袖はぬれける
とあります。
「風呂屋」と「湯屋」は、現在で言えば「サウナ」と「銭湯」といったでしょうか。
慶長のころから京都、大坂では、風呂と湯屋を、はっきり分けてある。
起源を言えば風呂のほうが古く、光明皇后の遺事もあるし、歴史のある禅寺には浴室が残っている。風呂は蒸気を立てた部屋に入る、いわゆる蒸風呂で、湯屋は浴槽の湯に身体をひたして温まる、という違いがある。
江戸のころ丹前風呂といわれたのは、戸棚の中が蒸風呂になっていて、客は下帯をつけて 入る。中は簀の子が敷いてあり、その下に熱くした石を置き、水をかけて湯気を出す。充分に温たたまった客が流し場へ出ると、着物の袖と裾をからげた湯女が、指先で客の垢を掻き落す。だから湯女は、吉原の遊女から猿と悪口を言われた。
現在の辞書では、風呂屋も湯屋も同意語のように書かれているが、この二つには厳然とした違いがありました。江戸時代になると、この二つは同じような店となって区別がなくなってくる。
『守貞謾稿( もりさだまんこう ):著者・喜田川守貞(きたがわもりさだ)成立年 天保八年(1837年)‐嘉永六年(1853年)。江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典である。』には、「京坂にて風呂屋と云い、江戸にて銭湯あるいは湯屋と云う」とあり、江戸後期になると、同じようなものを地方で呼び方が違うという差でしかなくなったのです。
したっけ。
今週は、なかなかいいところを突いてきたな。
「寝癖を直す」は見た目の問題。「歯みがき」は、したかしないか他人には分からない、本人の気持ちの問題。う~む・・・、どうするべか。
私は「歯みがき」を選択するべな。「歯みがき」は一日中気になるから、歯を磨くよ。見た目より、気持ちのほうが気になるんでないかい。寝癖は通勤途中でも直せるし、会社に着いてからも直すチャンスはあるかもしれないべさ。
私の髪の毛は案外素直で、手櫛で何とかなるんだよな。最悪直らなくても、会議か人に逢うのか知らないが、指摘する人はいないと思うし・・・。
とりあえず、歯を磨いて「いってきま~す。」
したっけ。
みえ【見え/見▽栄/見得】
1 見た目。外観。みば。「―を飾る」
2 (見栄)見た目の姿を意識して、実際以上によく見せようとする態度。「―で英字新聞を読む」
3 (見得)歌舞伎の演技・演出の一。俳優が、感情の高揚した場面で、一瞬動きを停止して、にらむようにして一定のポーズをとること。
辞書:大辞泉
江戸の荒事から発した歌舞伎独特の演技の手法。市川團十郎家が信仰した不動明王の姿を模したという説もあるようです。
大きな動きを見せてから、手・足・顔・目の隅々まで神経を行き届かせ、強く見事な形に決めます。特に力強さを表現する時には足の親指を立てたり目を寄せたりするなど、より効果的な演技が加わります。
『暫(しばらく)』の鎌倉権五郎が見せる「元禄見得」、『勧進帳』の弁慶が石を投げるような形で決まる「石投げの見得」など、名前が付けられている見得もあります。
『暫』(しばらく)は、歌舞伎の演目で、歌舞伎十八番の一つ。時代物。荒事の代表的な演目。
皇位へ即こうと目論む、悪党の清原武衡が、自らに反対する加茂次郎義綱ら多人数の善良なる男女を捕らえる。清原武衡が成田五郎ら家来に命じて、加茂次郎義綱らを打ち首にしようとするとき、鎌倉権五郎景政が「暫く~」の一声で、さっそうと現われ、荒れ狂い、助ける物語である。
一般会話の中にもよく「大見得を切る」などという言葉を使う人がいますが、歌舞伎ではあまり使いません。幕内では「見得をする」というようです。
したっけ。
歌舞伎役者が舞台でグッと見得を切ります。すると、大向こうから、「成田屋っ!」「音羽屋 っ!」と声が掛かります。
《向こう桟敷の後方にあるところから》1劇場で、舞台から見て正面後方にある立見の場所。一幕見(ひとまくみ)の観覧席。2立見席の観客。芝居通の人が多かった。転じて、一般の見物人。辞書:大辞泉
この役者の屋号は一体何処からきているのでしょうか。芸名だけでしたら、江戸時代でも噺家(はなしか)、常磐津(ときわず)にもありました。
これは江戸時代の身分制度に関係があります。江戸時代の身分制度というと、士農工商のその下にがありました。役者はもともとといわれる身分で、あるとき、役者は、はたして良民かかということが問題になりました。このころの人気役者ともなると、小大名顔負けの経済力を持っていましたが、良民とでは身分が大違いです。当初「」と呼ばれて扱いだった芝居役者が、町奉行所における裁きで良民と認められたのは宝永5年 (1708年) のことだった。
これで役者連中は喜びました。それまで良民だかなんだかわからないまま、劇場付近にかたまって住んでいたのを、天下御免の良民になったのです。これを機会に、良民として、表通りに住み始めました。
そして、江戸時代の法律では、表通りは商家でなくてはならなかったので、団十郎、幸四郎、菊五郎といった連中は、お手のものの化粧品問屋を開いたわけです。化粧品の他、小間物問屋、薬屋を開いた役者もいたということですが、商いには屋号がつきものです。あっという間に、歌舞伎役者の間では屋号で呼ぶことが流行ったということです。
屋号は役者の良民であることの集団の団結力を誇示するものであり、社会的地位や身分を象徴するものでもあったわけです。
ちなみに、「成田屋」は市川団十郎、市川海老蔵、市川新之助等、
「音羽屋」は尾上菊五郎、尾上菊之助、尾上梅幸等、
「萬屋」は中村錦之介、中村獅童等、
「高麗屋」は松本幸四郎、市川染五郎等が名乗りました。
それだけ江戸時代の身分制度は厳しかったということでしょう。
したっけ。
二枚目と三枚目、映画やドラマでカッコいい美男を演じる俳優さんや、素敵な顔立ちの男性のことを皆さんはどう呼びますか?近頃では「イケメン」という呼び方がすっかり定着しているようですが、永く使われてきたおなじみの言葉に「二枚目」というのがありますね。
また人を笑わせるコミカルなキャラクターを「三枚目」ともいいます。この「二枚目」と「三枚目」という呼び方、これも歌舞伎から始まったということをご存知でしょうか。
江戸時代の芝居小屋では正面に役者名の書かれた看板が掲げられていましたが、この一番右側すなわち一枚目には一座の座頭(ざがしら)の名が、そ して二枚目には色男の主人公を演じる花形役者の名前が書かれていたので、やがて「二枚目」といえば美男のことを指すようになりました。
さらに三枚目にはこっけいな役どころを演じる「道化(どうけ)方」が書かれることが多かったので、これも「三枚目」として定着しました。
ところで実際に歌舞伎の中で「二枚目」「三枚目」という言葉がひんぱんに使われているかというと、必ずしもそうではなく、むしろこの言葉は映画の華やかなりし頃の流行語だったように思います。
歌舞伎ではもっと細かく役柄が区別され、たとえば上方の和事(わごと:柔弱な色男の恋愛描写を中心とした演技)の主人公で弱々しい色男のことを「つっころばし」、もう少しキリリとした役を「ぴんとこな」、時代物の武士で正義感の強い役を「なまじめ」など、一風変わった呼び方が沢山あります。
二枚目の語源・由来
二枚目の語源は、上方歌舞伎の芝居小屋の前に掲げられた八枚看板で、一枚目に主役、二枚目に美男役、三枚目に道化師の名前が書かれていたことによる。
二枚目の役者には、男女間のもつれを演じる「和事師」、男女の濡れ場を演じる「濡事師」などがあり、「濡事師」は「色男」の語源ともなっている。「二枚目」や「三枚目」があり、「一枚目」が無い理由については、「一枚看板」の語があるためといわれるが考え難い。
したっけ。
かなり古めかしい言葉のようですが、今でも落語家などが「よっ、色男にくいね。」などと乱発するので、現代でも通用しているのが、この「色男」。
「色男、金と力はなかりけり・・・。」などの諺があるように、美男子を指しているのです。最近は女性に持てたりすると「よっ、色男。」と冷やかし半分に使ったりします。
ところで漢字がものの形を現した象形文字だということはご存知だと思いま す。では、この「色」とは何を表しているのでしょう。それは男女が性交している姿なのです。つまり、かなりポルノチックな姿なのです。「ク」の部分が男性、「巴」の部分は女性がひざまずいたところなのです。
ここから、美男子とか情夫という言葉の意味がうまれたのです。美男子は女性にもてるので、そういう機会が多いということなのでしょう。
「あの女は、オレの色だ。」とか、「色っぽい女。」という使われ方をするのも、ここからきているのです。
そのほかに、「色里」「色街」「色好み」「色目」「色恋」「色気」「色女」色男」「色香」「色事」「女色」「男色」等心色めく言葉があります。
「あら・・、久しぶり、どうしていたの?」
「ええ、私も色々あってね。」
「へえ、色々って、何人と付き合っていたのよ?」
色々には、くれぐれもお気をつけ下さい。
したっけ。
しり―がる【尻軽】
[名・形動]1 動作の活発なこと。また、そのさま。2 落ち着きがなく、行動の軽々しいこと。また、そのさま。「―な振る舞いは慎め」3 女の浮気なこと。また、そのさま。
辞書:大辞泉
しり―がる【尻軽】は腰が軽いと尻軽(しりがる)という意味である。
一ヶ所に腰を落ち着けない事を指す。つまり、何度も居をすぐに変えるなどの行為を指す。用語としては、尻軽男、尻軽女等があり、前者は風来坊、後者は浮気女などに付けられた別称である
Feペディア
江戸時代の交通機関(道中馬)の軽尻(からじり)は誰でも乗せる馬だったことから転訛して「誰でも乗せる女」になったとする説がある。
また、姦通に厳しい刑罰が加えられた江戸時代に、邪魔が 入ってもすぐことを終えるように、裾をまくってお尻を突き出したスタイルに由来するという説もある。
江戸時代には「性悪女」と「尻軽女」は同義であったといいますから、御注意下さい。
したっけ。
ヨタカとはどんな鳥なのでしょう。
夏鳥で九州以北に飛来する。巣はつくらず、直接地面に産卵する。抱卵、育雛期は昼間でも活動するが、普段は夜間に活動して、飛びながら昆虫類を捕る。翼は細長く、ゆっくりはばたき速く飛ぶ。木の枝にとまる時は枝に平行にとまる。道路わきから急に飛び出して驚くことがある。見た目の悪い鳥の代表とされる。
夜鷹は夜間に路傍で客を引き売春した私娼の江戸語で、京都は辻君、大坂では惣嫁 (そうか)と呼んだ。夜そば売りが、いつごろから夜鷹そばと呼ばれるようになったかは明らかでない。
しかし、宝暦三年(1753年)写本の越智久為著『反古染(ほうぐぞめ)』に、「元文(1736~41年)のころより夜鷹蕎麦切、其後手打蕎麦切、大平盛り、宝暦の頃風鈴蕎麦切品々出る」とあり、元文よりも古いことは確かである。
夜鷹そばの由来については諸説まちまちである。『守貞漫稿( もりさだまんこう )著者・喜田川守貞(きたがわ もりさだ)成立年 天保八年(1837年)‐嘉永六年(1853年)。江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典』五編には、夜鷹そばは夜鷹(夜に路傍で売春した私娼の江戸語)がもっぱら夜売りそばを食べたからだ、と書いてある。
また、夜鷹には「二十四文」の異名があって24文が相場だったが、最下等の夜鷹が一〇文で買えたことから「十文」と称し、それから転じて10文売りの夜そばを夜鷹そばといったとの説もある。
これに対し、落語家の三遊亭円朝は『月謡荻江一節(つきにうたうおぎえのひとふし) -荻江露友伝』のなかで、「夜鷹そばは夜鷹が食うからではない。お鷹匠の拳(こぶし)の冷えるのに手焙(てあぶ)りを供するため、享保年間(1716~36年)往来に出て手当てを致し、其簾(そのかど)を以て蕎麦屋甚兵衛という者が願って出て、お許しになったので夜鷹そばというがナ。夜お鷹匠の手を焙るお鷹そばというのだ」と語り、「お鷹そば」が転訛して夜鷹そばになったという説である。
貞享三年(1686年)刊、西鶴作『好色一代女』巻六、夜発(やほつ)の付声のくだりに、「定(さだ)まりの、十文にて各別のほり出しあり」、「上中下なしに十文に極まりしものなれば、よい程がそれぞれの身のそんなり」などと、器量のよしあしに関係なく、花代は10文が決まりだとある。したがって夜鷹そばの呼称は、享保年間よりさらに遡るようだ。
「風鈴そば」は宝暦(1751~64年)頃に江戸の街にあらわれた屋台そば。風鈴そばの特徴は屋台に風鈴を下げるだけでなく加薬物(薬味)を加え、きれいな容器を使って、それまでの「夜鷹そば」にあきたりない客層を狙ったことであろう。
その後、夜鷹そばも風鈴を下げるようになり、両者の区別がつかなくなってしまった。
なお、風鈴そばが売り声をあげなかったのは、当時夏の風鈴売りや秋の虫売りが、その物の音ズバリで売り歩くのを見習ったものだが、寛政(1789~1801年)頃には声を出して触れ売るようになった。
夜間に廓外から商いに来る「風鈴そば」のことを吉原言葉で、おかぐら(御神楽)といった。また、御神楽の獅子(四四)の洒落から、一六文のことをいう。
こうしてみると、江戸時代も初期の頃から江戸の庶民、特に力仕事を専門とした労働者たちに蕎麦が好まれていたことがわかる。その理由には一杯6~7文と安くて庶民が食べるのに手軽だったこと、それに加えて、江戸にやって来た労働者たちの地元が蕎麦の産地で食べ馴れていたことなどがあげられそうだ。
当初 蕎麦切りは、うどんや焼き餅などと一諸に菓子屋で売られていたが、浅草や材木町など労働者が集まる町に独立した専門店が出来、次第に江戸中に広がって行った事になる。
しかも、それらの店では押し売り掛け値なしで一杯6、7文の「けんどんうどん」や「けんどん飯」も売っていたが、食べ慣れた蕎麦の方に人気があったため蕎麦が主流になったのだろう。
そのため蕎麦切りは庶民の食べ物で、当時は武士や大店の商人には下品な食べ物と考えられていた。
「昔々物語」には寛文4年(1664年)に「けんどん蕎麦切り」というものが出来て下々の者はこれを買って食べたが、貴人には食べる者がないという記述がある。 しかし、蕎麦は江戸の庶民に定着していった。時代劇に出てくる様な振り売りや辻売りの蕎麦売りがいつ頃に生まれたのかははっきりしない。
だが、寛文元(1661)年10月に町奉行から次ぎの触書きが出されているから、この当時には すでにかなりの数の蕎麦の振り売りもいたものと思われる。
「一、 町中茶屋ならびに煮売りの者昼の内ばかり商売いたし、暮六(くれむつ)より堅く商売しまじきそうろうこと。
一、 町中にて夜中火鉢に火を入れ ならびにあんとうを灯し、煮売り持ち歩きそうろう者、向後、堅く売らせまじきそうろう。」
江戸の町には大火が多く、ちょっと前の明暦の大火では江戸の大半が消失したばかり。幕府も火の使用に対しては神経質になっていたのだろう、火の使用に対してはこのあともたびたび禁令が出されている。 しかし、実際に捕まった振り売りや辻売りの煮売り屋や蕎麦屋などなかったようだ。
その後の貞享(1686)年の触書には、特に 蕎麦切りの商売を指名している。
「一 うどん、蕎麦切りそのほか何によらず、火を持ち歩き商売しそうろう儀、一切 無用にすべくそうろう。居ながらの煮売り焼き売りはくるしからずそうろう。然れども火の元 随分念を入れ申すべくそうろう。 もし相背き、火を持ち歩き商売しそうろうは、当人は申しおよばず、家主まで急度(きっと)申しつくべきものなり。」
天和2年(1682年)にも江戸の大半を焼失する大火があったため、それが落ちついたところでこの触書きが出されたのだろう。
火を持ち歩く商売の代表がうどんや蕎麦切りというほど、夜鷹蕎麦と呼ばれた。 夜に振り売りして歩く数が多かったのかもしれない。
店を持っての商売はいいが、火を持ち歩いた商売をする本人だけでなく家主にも仕置きがあるというからかなり厳しい内容だ。 この時にも捕らえられた者は居なかったようで、あくまで注意を促すのが触書きの目的だったのかも知れない。
その蕎麦の振り売り(夜に売り歩く夜鷹蕎麦)にも担ぐ荷によって種類があった。 市松模様の屋根のある屋台を担いで売り歩いた蕎麦売りがもっともポピュラ-なスタイルで荷台に風鈴を2~3個吊るしてチリンチリンと音で知らせたので風鈴蕎麦うりと呼ばれていた。
ずっと歩きながら売る者と決まった辻に店を出して辻売りとがあるのは、現在の夜鳴きそば(自動車を屋台にしたラ-メン店)と同じだ。また、荷箱や籠にどんぶりや火鉢、蕎麦、汁、湯通しする水などを入れて担いだ振り売りもいた。それから蕎麦売りも簡単な行灯を備え、そこに二八(16文)や二六(12文)と蕎麦の値段を書いて売り歩いた。もちろん籠を担いだ蕎麦売りは風鈴蕎麦売りより安かったという。
「守貞漫稿」は夜啼き蕎麦について概略こう書いている。
「江戸は蕎麦を専らとして、うどんは兼として売っている程度だ。京坂では担ぎ売りを夜啼きうどんと言っているが、江戸では夜鷹蕎麦と呼んでいる。夜鷹は街娼の呼び名で、この蕎麦をよく食べるからこんな名がついた。江戸の夜鷹蕎麦売りの屋台には必ず風鈴が吊るしてある。京坂も天保以降風鈴は京都、大阪、江戸とも、うどんや蕎麦は一椀16文・・・」
江戸時代の初期の蕎麦の値段は盛り切りで一杯6~7文が普通だった。それが江戸中期に8~12文。その後、もり、かけとも16文となり、この時代が長く続いた。 そのため夜鷹蕎麦の行灯にある二八は蕎麦の値段と思われるがちだが、本来は蕎麦とつなぎの割合の8対2を現したものだ。
しかも、わかりやすい洒落で、二八(16文)二六(12文)と蕎麦の値段がわりの看板にしたのだ。
また、幕末に政情の不安で物価が上昇し一杯20文、24文と蕎麦も値上がりすると、看板の二八の文字も消えていったという。
したっけ。
「心中」とは他人に対して義理立てをする意味で用いられていた(心中立:しんじゅうだて=―男女がその愛情の契りを守りぬくこと。また、それを証拠だてること。)が、江戸時代には、刺青や切指等の行為と同様に男女の相愛を意味するようになる。
「心中立」には、(1)誓詞(せいし)、(2)放爪(ほうそう)、(3)断髪、(4)入れ墨、(5)切り指、(6)貫肉があった。
やがて自らの命をも捧げる事が義理立ての最高の証と考えられたことから、現在の心中の意味になった。情死を賛美する風潮も現れ、遊廓で遊女と心中する等の心中事件が増加して社会問題となる。
江戸幕府は、心中は漢字の「忠」に通じるとしてこの言葉の使用を禁止し、「相対死(あいた いじに)」と呼んだ。心中した者を不義密通の罪人扱いとし、死んだ場合は「遺骸取捨」として葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は身分に落とした。1722年(享保7年)には心中物の上演を禁止した。
情死を主題とする物語を「心中物」という。近松門左衛門の『曽根崎心中』、浮世草子『心中大鑑』、落語『品川心中』等が知られる。
心中立
(1)誓詞
誓詞は「起請文」(きしょうもん)ともいい、熊野牛王符を料紙として用い、裏面に誓詞を書く。掌の印を押捺することもあったが、「血判」といい血液により押捺し、あるいは「血書」といって血液で書くこともあった。男は左手の、女は右手の、中指あるいは薬指の上の関節と爪の生え際との間を、古くは剃刀、小刀で、のちに針で刺し、血液を落とす。血書であれば折り紙とし血液の不足する箇所は墨を加える。遊女に書かせた起請文を焼き、炭を飲ませることもあった。
(2)放爪
「放爪」は、「爪印」ともいった。爪を抜く秘訣は爪の周りを切回し、酢に浸して抜けば、痛くはないといい、男に頼まれないのに女のまごころからおこなったという
。
(3)断髪
断髪は、頭髪を切り、男に贈り、他意の無いことを示した。切るべき所を2寸ほどあけて、上下を元結でしめくくり、その上を紙で巻いて切った。自ら切り、また男に切らせた。『好色一代男』には、死者の黒髪、生爪をはがして遊女に売る農夫の話が見える。
(4)入れ墨
入れ墨は、「いれぼくろ」、「起請彫」ともいい、多くは男の力でさせ、男の名を彫った。たとえば「徳右衛門」であれば「とくさま命」と「命」の字を名の下に付けた。これは命の限り思うという意である。「十兵衛」であれば「二五命」、「清助」であれば「きよさま命」、ときには名字の片字、名乗の片字を上腕に彫り込んだ。針を束にしてその箇所を刺し、兼ねて書いたとおりに墨を入れる。
(5)切り指
「切り指」は、手の指先を切り落とすことで、切るには介錯の女性を頼み、入り口の戸は密閉し、掛け金をかけ、血留薬、気付薬、指の包み紙などを用意する。木枕の上に指をのせ、介錯の女性に剃刀を指の上にあてがわせ、介錯の女性に片手で鉄瓶、銚子を上から力任せに打ち落とさせる。このとき指は拍子で遠くに飛び、十中八九は正気を失う。新町吉田屋で某太夫が2階で指を落としたところ、指の所在が分からなくなり、男が承知しないのでまたほかの指を落としたという話がある。
(6)貫肉
「貫肉」は、腕であれ腿であれ、刀の刃にかけて肉を貫くことで、女には少なく、男色関係に多い。
相愛の男女による心中は情死といわれ、この世で結ばれないことから、来世で結ばれることを願う。
それにしても、命を懸けて愛を貫き通すという行為は、どこか悲しげで哀れな気がします。
したっけ。