都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
「眠れる森の美女(仏語La Belle au bois dormant)」のタイトルで有名ですが、グリム童話では「茨姫」となっています。
よく姫が眠っていると誤解されますが、dormantは男性系の形容詞なので眠っているのは美女でなく、森だそうです。
あるところに子どもを欲しがっている国王夫妻がいた。ようやく女の子を授かり、祝宴に一人を除き国中の12人の魔法使いが呼ばれた(13は不吉な数字であった為と見られる、またメインディッシュのため賓客に供する金の皿が12枚しかなかった為とも)。魔法使いは一人ず つ贈り物をする。宴の途中に、一人だけ呼ばれなかった13人目の魔法使いが現れ、11人目の魔法使いが贈り物をした 直後に“王女は錘(つむ:糸を紡ぐ機械の付属具)が 刺さって死ぬ”という呪いをかける。まだ魔法をかけていなかった12人目の魔法使いが、先の魔法を修正し「王女は錘が刺さっても百年の間眠るだけ」という呪いに変える。
王女を心配した王は、国中の紡ぎ車を燃やさせてしまう。王女は順調に育っていくが、15歳の時に一人で城の中を歩いていて、城の塔の一番上で老婆が紡いでいた錘で手を刺し、眠りに落ちる。呪いは城中に波及し、そのうちに茨が繁茂して誰も入れなくなった。侵入を試みた者もいたが、鉄条網のように絡み合った茨に阻まれ、入ったはいいが突破出来ずに皆落命した。
100年後。近くの国の王子が噂を聞きつけ、城を訪れる。王女は目を覚まし、2人はその日のうちに結婚、幸せな生活を送った。(115歳の老婆と?)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
以上がみなさんの良く知っている物語ですが、この物語の元になったとされる民話を紹介しましょう。この物語の残酷な場面は削除され「茨姫」が生まれたのです。
ジャンバティスタ・バジーレ(Giambattista Basile, 1575年? - 1632年2月23日)は、イタリアの詩人・軍人である。説話集『ペンタメローネ(五日物語、Pentamerone)』の作者として知られている。『ペンタメローネ』はヨーロッパにおける童話集のさきがけとなった。「太陽と月のターリア」は『ペンタメローネ』の中の一つで、ナポリ地方に昔から伝わる説話です。
太陽と月のターリア
昔、一人の王がありました。娘のターリアが生まれた時、王は国中の賢者や占い師を呼び集めて娘の未来を予測させました。占い師たちは何度も相談を重ねてから、「亜麻の繊維に混じったトゲがこの子に大きな災いをもたらすでしょう」と告げました。そこで王は何とか災難を免れようと思い、「亜麻も大麻も麻の類は一切 我が館に持ち込んではならぬ」と厳しい命令を下したのです。
ところが、ターリアが大きくなったある日、窓辺に立っていると、外を糸紡ぎのお婆さんが通っていきました。ターリアはそれまで糸巻き竿や紡錘(つむ)を見たことがありませんでしたし、くるくる踊っているところがとても面白そうでしたので、好奇心に駆られておばあさんを呼び入れ、糸巻き竿を手にとって糸を縒り始めました。
その途端、麻に混じっていたトゲが爪の間に突き刺さり、たちまちターリアは床に倒れて死んでしまいました。これを見るとお婆さんは階段を駆け下りて逃げていきました。
哀れな王は、この苦い悲しみを樽いっぱいの涙で飲み干しました。それから死んだ娘を別荘の安楽椅子に座らせましたが、その椅子にはビロードが張ってあり、金襴で作った天蓋がついていました。やがて戸という戸を閉め切ると、忌まわしい記憶を二度と思い出さないよう、永遠に、この森の中の館から立ち去ったのです。
さて、それからしばらく経ったある日のこと。この辺りに別の王が鷹狩りにやって来ましたが、王の鷹が例の館の窓から中へ飛び込んでしまいました。いくら笛を吹いても呼んでも出てこないので、王は館の門を叩かせました。しかし、誰も出てきません。王はぶどう摘みの梯子を持ってこさせて門を乗り越え、中の様子を自分で調べ始めました。全く人気がないのに驚きましたが、とうとうターリアの眠っている部屋にたどり着いたのです。
王はターリアが眠っているのだと思い、声をかけました。ところが、いくら呼んでも揺すっても目を覚ましません。
眠っているターリアを見るうち、王の胸に恋の炎が燃え上がりました。王はターリアを腕に抱いてベッドに運ぶと、存分に愛の果実を味わいました。それから、ターリアをベッドに寝かせたまま自分の国に帰り、それっきりこの出来事を忘れてしまったのです。
※ この場面も白雪姫同様、屍姦を想像させます。
九ヶ月経って、ターリアは双子を産み落としました。とはいっても、相変わらず眠ったままでした。双子は男の子と女の子で、光り輝く二個の宝石のようでした。屋敷に現れた二人の仙女の手で、子ども達はターリアの乳房にあてがわれ、そのほか細々とした世話を受けたりました。
そんなある日のこと。子供たちはまた乳が飲みたくなって母の乳房にあてがわれましたが、その一方がなかなか乳首を見つけられず、代わりに母の 指をつかんでチュウチュウ吸っているうち、とうとうあの麻のトゲを吸いだしてしまいました。その途端にターリアは深い眠りから覚めました。そして自分の側にいる二人の可愛い赤ん坊に気づくと、しっかり抱きしめて、乳を飲ませて自分の命と同じくらい大切にしましたけれど、どうしてそんなことになったのかさっぱり解りませんでした。というのも、屋敷の中には自分と赤ん坊しかいませんし、食べ物などを運んできてくれる仙女の姿はまるで目に見えなかったからです。
時が過ぎて、王はふと、森の館で眠っていた美しい娘との情事を思い出しました。そうして久しぶりに訪ねてみますと、ターリアが目覚めていて、男の子の太陽(ソーレ)と女の子の月(ルーナ)、可愛らしい二人の子供まで生まれているではありませんか。
王は有頂天になり、ターリアに事の次第を説明しました。ターリアもすっかり王が気に入って、二人は数日の間、館で一緒に過ごしました。そして王が立ち去るときには、今度来るときは国に連れて帰る、と約束したのです。
それ以来、王は美しい愛人と可愛い双子にメロメロになってしまいました。国に帰っても、起きて寝るまでターリア、ソーレ、ルーナばかり口にします。
この状況に はらわたを煮えくり返らせたのは王妃でした。前々から、王が狩りと言っては数日間留守をするのを怪しいと思っていたのですが……。
「お前は門柱と扉のように《対になるもの》なのだから、私か王か、どちらに仕えるのか選ばなくてはなりません。王の愛人がどこの誰なのか、教えてくれたなら金持ちにしてあげましょう。けれど隠しだてするなら、この先、日の目は見られなくなるものと心得なさい」
大臣はすっかり王妃に教えました。そこで王妃は大臣を王の名においてターリアの館に遣わし、
「王が子供たちに会いたがっておられます」
と伝えさせました。嘘とも知らないターリアは大喜びし、早速子供たちを送り出しました。
王妃は子供たちを手に入れるやいなや、嫉妬のあまりに鬼女の心になりました。
「子供たちの喉を掻き切って、細切れにして、ソースで煮て、王の食卓に載せておくれ!」
けれども、料理人は心の優しい男でした。彼は金のリンゴのように愛らしい双子を見ると可哀想でたまらなくなり、双子を自分の妻に匿わせてから、山羊を二頭殺して、それで百種もの料理を作りました。
王はこの料理を食べると、
「美味い、我が母の命にかけて、我が祖母の魂にかけて、実に美味い!」
と絶賛しました。
王妃は「どんどんおあがりなさいませ、あなた自身のものを食べておいでなのですから」
と言いました。あんまり何度もそう言うので、しまいに王は不機嫌になり、
「自分の(稼いで得た)ものだということは分かっている、大体、そなたは何一つ獲ってはこないのだしな」
と言って、別邸に行ってしまいました。
※この場面も白雪姫同様、カニバリズム(英: Cannibalism)、人間が人間の肉を食べる行動、あるいは宗教儀礼としてのそのような習慣を思い起こさせる。
王妃は自分がしたと思っていることに まだ満足せず、もう一度大臣を呼びつけると、今度はターリアを呼び寄せました。ターリアは目に入れても痛くない子供たちに会いたい一心で、恐ろしい目論見のことも知らずに城にやって来ました。ターリアが目の前に連れ出されると、王妃は憤怒の表情で言いました。
「ようこそ、でしゃばりの奥様。なるほど、そなたが私の夫の気に入りの花というわけですね。……このメス犬! 地獄に堕ちて、私の苦しみを味わうがいい!」
ターリアは弁解しました。
「私が誘惑したのではありません、眠っている間に王様の方から押し入ってこられて……」と。
「城の中庭に大きな焚き火をして、この女を放り込め!」と命じたのです。
哀れなターリアは、王妃の前にひざまずいて懇願しました。せめて、着ているものを脱ぐだけの時間をください、と。王妃は承知しました。というのも、タ ーリアは燃やしてしまうには惜しいような、金と真珠で刺繍した素晴らしいドレスを着ていたからです。ターリアは脱ぎ始めましたが、一枚脱ぐたびに叫び声をあげました。服を脱ぎ、スカートを脱ぎ、胴着を脱ぎ、ペチコートを脱ぎかけたとき、とうとう地獄の灰汁の大鍋に投げ込むべく、家来たちに引きずられはじめました。
※ この場面は、まるでストリップです。
その時でした。騒ぎを聞きつけて、王がやってきたのです。王はこの有様を見、子供たちはどうなったのか、と王妃に尋ねました。王妃は王の裏切りをなじって言い放ちました。
「あなたに、あの子達の肉を食べさせて差し上げたのよ!」
「なんだと! 我が子羊を食った狼がこの私だと! おお、なぜ我が血は我こそ子供たちの血の源だと自覚しなかったのか。おお、残酷な裏切り者め、お前がこのような野蛮な行いをしたというのか。さあ、行け、罪の報いを受けるのだ。お前のような醜い嫉妬顔の女は闘技場でライオンに食わせるまでもないわ!」
王の命により、王妃と大臣は、ターリアを投げ込むための焚き火に投げ込まれました。それから、王は子供たちを料理した料理人をも同じ目に遭わせようとしましたが、料理人は王の足元に身を投げ出して言いました。
「確かに、そのような仕業の報いには相応しい処罰です。私のような身分の者には王妃様の灰と混ざることも光栄かと思われます。けれども、忌まわしい企みからお子様方をお救い申し上げた私なのですから、そんな褒美はまっぴら御免ですわい」
これを聞いた王は狂喜し、それが本当なら、もう台所仕事などさせず、存分に褒美をやろうと言いました。その時には、夫の苦境を見て取った料理人の妻が、もう子供たちを連れてきていました。王は子供たちとターリアに一人ずつキスをして、 料理人にたっぷりの褒美をやり、御寝所番の頭に取り立ててやりました。
ターリアは王妃となり、子供たちと共に末永く幸せに暮らしました。
諺にもあるように、幸運児は眠ったまま運命の女神の祝福を受けるものなのです。
日本でも「果報は寝て待て」いう諺があるとはいうものの、とても子供に話せる内容ではありません。
したっけ。
『白雪姫』(しらゆきひめ、Schneewittchen、Schneeweißchen標準ドイツ語)とは、ドイツのヘッセン州地方の民話。後にグリム兄弟(ヤーコプ・ルートヴィヒ・カルル・グリム、ヴィルヘルム・カール・グリム)の『グリム童話』("Kinder und Hausmärchen" (KHM))に収載された。KHM 53番目の童話。
昔々、ヨーロッパのあるお城に住んでいた王と王妃がいました。夫婦は大変仲が良く皆がうらやむような美男美女でした。しかし、結婚して10年以上がたつというのに、いっこうに子供ができる気配がありませんでした。
そのまま3年がたったある雪の日、王妃がとうとう子供を身篭りました。その日の夜、王妃は嬉しさのあまり眠ることができなかったので、自分の部屋で刺子(さしこ)をする事にしました。2時間ほどたったその時、
誤って針を自分の指に刺してしまいました。やがて傷口から少しずつ血がにじんでいました。そこでお妃様は思ったのです。
「この空に降る真っ白な雪のような肌をして傷口から出た血のように赤い唇、そして窓の外に広がる黒闇のような黒髪を持った子供が欲しい。」
そしてうまれた子供は色が雪のように白かったので、白雪姫という名前を付けることにしました。
白雪姫はとても美しい王女になりました。彼女の継母(グリム童話初版本では実母)である王妃は、自分が世界で一番美しいと信じており、彼女の持つ魔法の鏡もそれに同意したため、満足な日々を送っていました。
白雪姫が7歳になったある日、王妃が魔法の鏡に
「世界で一番美しい女性は?」
と聞くと、白雪姫だという答えが返ってきたのです。
王妃は怒りのあまり、猟師に白雪姫を森に連れて行き、白雪姫を殺し肝臓(※作品によっては心臓、となっている)をとってくるように命じました。
※当時のヨーロッパは全体的に貧しかったせいか、実際に実の親による 子殺しや子捨てという「口減らし」が行なわれていたのです。
猟師はいわれるままに、白雪姫を森の奥へ連れていって殺そうとしましたが、美しい白雪姫に泣いて命乞いされるとかわいそうになりました。そこで、お城へ戻らないと約束させて、白雪姫を逃がすと、猟師は代わりにいのししを殺してその肺と肝を持ち帰ったのです。
お妃は、猟師の持ち帰った血が滴る肺と肝を見ると喜んで、料理番を呼びました。
「すぐに、調理にとりかかるんだよ。血を一滴でもこぼさないようにね。」
料理番が肺と肝を塩ゆでにして持ってくると、お妃は我を忘れ、美しい顔がゆがむのもかまわず、かぶりつきました。
そして、白雪姫への憎しみをのみくだすように、白いきれいな歯で食いちぎりながら、ひとかけも残さずぺろりとたいらげたのです。
「白雪姫の美貌はこれで私のものだわ……。」
こうして奇妙な食事を終えた妃の頬には、満足そうに笑みが浮かびました。
※19世紀のドイツには「その人の肉を食べれば、その人の持つ特性を身につけることができる」という古い民間信仰があったそうです。
そのため現実の社会でも、「汚れを知らない若い娘の肉を食べれば、この世でどんなことをしてもその責任を問われない」と信じて、幼い娘を殺してその肉を食べたという事件の記録も残っているのだそうです。
白雪姫は、森の中で7人の小人(sieben Zwerge、英訳ではドワーフ)たちと出会い、ご飯を作り、寝床をしつらえて、洗濯をして、縫い物や編み物をして、どこもかしこもきれいにする」という条件付きで暮らすようになります。
※初版では白雪姫を助けるのは7人の人殺しだったが、二版以降は7人の小人に変わりました。
しかし、王妃が魔法の鏡に「世界で一番美しいのは?」と聞いたため、白雪姫がまだ生きている事が露見したのです。
王妃は物売りに化け、小人の留守を狙って腰紐を白雪姫に売りつけ、その腰紐を締め上げて息を絶えさせたのです。
帰ってきた7人の小人が腰紐を切って白雪姫を助け出すと、再び魔法の鏡により生きている事が露見します。
王妃は毒つきのくしを作り、白雪姫の頭にくしを突き刺して白雪姫は倒れました。しかしまた、7人の小人がくしを抜き蘇生させました。
王妃は、白雪姫を殺そうと毒リンゴを作り、リンゴ売りに化けて白雪姫に食べさせたのです。白雪姫は小人たちから「家の扉は開けてはいけないよ」と言われていたため、はじめは抵抗したが、王妃が「わたしはただのリンゴ売りです。」と言ったために信じてしまい、その毒りんごを食べて息絶えたのです。
白雪姫は帰ってきた小人たちに発見されるが、小人たちは白雪姫が倒れた原因を見つける事が出来ませんでした。白雪姫は死んでしまった、と悲しみに暮れた小人たちは、白雪姫をガラスの棺に入れるのです。
そこに王子が通りかかり、毒リンゴを食べて亡くなったと思われた白雪姫を一目見るなり、死体でもいいからと白雪姫をもらい受ける。
※ 初版のグリム童話では死体を買い受ける死体愛好家とされている。
※ 死体愛好家(したいあいこうか)とは死体に欲情する性的嗜好をも指し、屍体性愛(したいせいあい)や、ネクロフィリア(necrophilia)とも呼ばれるものである。性的倒錯の一つでもある。屍姦 (しかん) とは、死体を姦する (犯す) ことを言う。
※ 18世紀フランスの売春宿では、女が棺桶の中で死体のふりをし、男性が牧師の姿になり交わるという屍姦的なサービスを行っている所もあり、一部の人間にはかなりの人気があったようである。
家来に棺を運ばせるが、家来のひとりが木にツマヅキ、棺が揺れた拍子に白雪姫は喉に詰まっていたリンゴのかけらを吐き出し、息を吹き返します。(※王子のキスによって目を覚ましたのではありません。たとえ、そうだとしても、どんな美女であろうが、死体を抱きしめ、キスまでしてしまうなど、どう考えても死体愛好家でしかありえない。この物語は死体愛好家の猟奇物語であり、白雪姫の話は前振りに過ぎないというのです。)
無事に王子と結婚して幸せに暮らしました。めでたし、めでたし・・・。
・・・では終わりません。とんでもない血も凍るようなエンディングがまっているのです。
白雪姫を殺そうとした王妃に白雪姫の結婚式の招待状が届きます。で、この王妃はのこのこと結婚式に出かけていって、そこで世にも残酷な方法で処刑されてしまうのです。その結婚披露宴で、王妃は真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊らされたのです。
いずれにしても、この物語は子供向けの童話ではなかったことは間違いありません。
したっけ。
青ひげ(Barbe-Bleue:バルブ・ブルー[仏語])は、フランスのシャルル・ペローの『がちょうおばさんの話』(1697年)に収められている童話、およびその主人公の呼び名です。グリム童話の初版にも収録されていたが、二版以降では削除されたそうです。
むかしむかし、町と田舎に、大きな屋敷をかまえて、金の盆(ぼん)と銀のお皿(さら)をも って、きれいなお飾りと縫箔(ぬいはく)※のある、椅子、机と、それに、総金ぬりの馬車までも持っている男がありました。
※ 縫箔(ぬいはく):刺繍(ししゅう)と摺箔(すりはく)を併用して布地に模様を表すこと
こんな恵まれた身分でしたけれど、ただひとつの欠点は、恐ろしい青ひげをはやしていることでした。それはどこの奥さんでも、娘さんでも、この男の顔を見て、あっといって、逃げ出さないものはありませんでした。
さて、この男の屋敷近くに、身分のいい奥さんがいて、二人の美しい娘さんをもっていました。この男は、この娘さんのうちどちらでもいいから、一人、お嫁さんにもらいたいといって、度々、この奥さんを困らせました。けれど、二人が二人とも、娘たちは、この男を、とても嫌っていて、逃げまわってばかりいました。
なにしろ青ひげをはやした男なんか、考えただけでも、ぞっとするくらいです。それに、気持ちが悪いほど嫌なことには、この男は、前からも、幾人か奥さまをもっていて、しかもそれが一人残らず、どこへどう行ってしまったか、行方が分からなくなっているのでした。
そこで、青ひげは、これは、この娘さん親子のご機嫌をとって、自分が好きになるように仕向けることが、なによりの近道だと考えました。そこで、あるとき、親子と、そのほか近所で知りあいの若い人たちを大勢、田舎の屋敷に招いて、一週間あまりも泊めて、ありったけの持て成し振りを見せました。
それは、毎日、毎日、野遊びに出る、狩に行く、釣をする、ダンスの会だの、夜会(やかい)だの、お茶の会だのと、目の回るようなせわしさでした。夜になっても、誰も寝床に入ろうとするものもありません。宵(よい)が過ぎても、夜中が過ぎても、皆そこでもここでも、おしゃべりをして、笑いさざめいて、ふざけっこしたり、歌をうたいあったり、それは、それは賑やかなことでした。
何もかも、とんとん拍子にうまく運んで、末の娘のほうがまず、この屋敷の主人のひげを、もうそんなに青くは思わないようになり、おまけに、りっぱな、礼儀ただしい紳士だとまで思うようになりました。
そして、家へ帰ると間もなく、末の娘は男と結婚しました。
それから、ひと月ばかり経った後のことでした。
青ひげは、ある日、奥方に向かって、これから、ある大切な用むきで、どうしても六週間、田舎へ旅をしてこなければならない。そのかわり、留守の間の気晴らしに、お友だちや知りあいの人たちを、屋敷に呼んで、里の家にいた頃と同じように、面白おかしく遊んで、暮らしてもかまわないから、と言いました。
「これはふたつとも、私の一番大事な道具の入っている大戸棚の鍵だ。これは普段使わない金銀の皿を入れた戸棚の鍵だ。これは金貨と銀貨をいっぱい入れた金庫の鍵だ。これは宝石箱の鍵だ。これは部屋全部の合鍵だ。さて、ここにもうひとつ、小さな鍵があるが、これは地下室の大廊下の、いちばん奥にある、小部屋を開ける鍵だ。戸棚という戸棚、部屋という部屋は、どれを開けてみることも、中に入ってみることも、おまえの勝手だが、ただひとつ、この小部屋だけは、けっして開けてみることも、まして、入ってみることはならないぞ。これはかたく止めておく。万一にもそれにそむけば、おれは怒って、なにをするか分からないぞ。」
奥方は、お言いつけの通り、必ず守りますと、約束しました。やがて青ひげは、奥方に優しく接吻して、四輪馬車に乗って旅だって行きました。
すると、奥方の知りあいや、お友だちは、お使を待つ間も、もどかしがって、われさきに集まって来ました。お嫁入り先の、立派な住まいの様子が、どんなものなのか、どのくらい立派なのか、みんなは見たがっていたでしょう。ただ主人が家にいるときは、あの青ひげが恐くて、誰も寄りつけなかったのです。
皆は、居間、客間、大広間から、小部屋、衣裳部屋と、片っ端から見てあるきましたが、いよいよ奥深く見て行くほど、だんだん立派にも、綺麗にもなっていくようでした。
とうとう最後に、いっぱい家具のつまった、大きな部屋に来ました。そのなかの道具や洋服は、この屋敷のうちでも、一番立派なものでした。壁掛けでも、寝台でも、長椅子でも、タンスでも、机や、椅子でも、頭のてっぺんから、足の爪さきまで写る姿見でも、それはむやみに沢山あって、むやみにぴかぴか光って、綺麗なので、誰も彼も、ただもう、感心して、ため息をつくばかりでした。
姿見のなかには、水晶の縁のついたものもありました。金銀めっきの縁のついたものもありました。何もかも、この上もなく立派なものばかりでした。
お客たちは、まさかこれほどまでとも思わなかった、お友だちの運のよさに、いまさら感心したり、羨ましがったり、羨望の眼差しは消えることがありませんでした。
しかし、ご主人の奥方は、いくら立派なお部屋や、飾りつけを見てあるいても、じれったいばかりで、いっこうに面白くも楽しくもありませんでした。それというのが、夫が出がけに厳しく言い付けて置いていった、地下室の秘密の小部屋というのが、始終、どうも気になって気になって、ならなかったのです。
いけないというものは、とかく見たいのが、人間の癖ですから、そのうちとうとう、我慢がしきれなくなってきた奥がたは、もうお客に対して、失礼のなんのということを、思ってはいられなくなって、ひとりそっと裏梯子を降りていきました。二度も三度も、首の骨が折れたかと思うほど、激しく、柱や梁(はり)にぶつかりながら、夢中で駆けだして行きました。
でも、いよいよ小部屋の戸の前に立ってみると、さすがに夫の厳しい言いつけを、はっと思い出しました。それにそむいたら、どんな不幸せな目にあうかしれない、そう思って、しばらくためらいました。でも、誘いの手が、ぐんぐん強くひっぱるので、それを払いきることは、できませんでした。そこで、小さい鍵を手にとって、ぶるぶる、震えながら、小部屋の戸を開けました。
窓が閉まっているので、始めはなんにも見えませんでした。そのうち、だんだん、暗闇に目がなれてきました。すると、その床いっぱいに、血のかたまりがこびりついていました。血のかたまりには五、六人の女の死骸を、並べて壁に立てかけたのが、写って見えていました。これは、みんな青ひげが、ひとりひとり、結婚したあとで殺してしまった女たちの死骸違いありません。
これを見たとたん、奥方は、あっと言ったなり、息がとまって、身体がすくんで動けなくなりました。そうして、戸の鍵穴から抜いて、手に持っていた鍵が、いつか、すべり落ちたのも知らずにいたくらいです。
しばらくして、やっとわれにかえると、奥がたは慌てて、鍵を拾いあげて、戸を閉めて、急いで二階の居間に駆けて帰ると、ほっと息をつきました。でも、いつまでも胸がどきどきして、正気がつかないようでした。
見ると、鍵に血がついているので、二、三度、それを拭いてとろうとしましたが、どうしても血がとれません。水につけて洗ってみても、石鹸と磨き砂をつけて、砥石(といし)で、ごしごし、擦ってみても、いっこうに印(しるし)が見えません。血の着いた跡は、いよいよ、濃くなるばかりでした。それもそのはず、この鍵は魔法の鍵だったのです。
ですから、表側のほうの血を落したかとおもうと、それは裏側に、いつか、よけい濃く、滲み出していました。
すると、その日の夕方、青ひげが、ひょっこり、家へ帰って来ました。それは、まだ向こうまで行かないうち、途中で、用むきが、都合よく片づいた、という知らせを聞いたからだと、青ひげは話しました。出し抜けに帰ってこられたとき、奥方は、ぎょっとしましたが、一生懸命、嬉しそうな顔をして見せていました。
さて、そのあくる朝、青ひげは、さっそく、奥方に、預けた鍵をお出しと言いました。そういわれて、奥方が鍵を出したとき、その手の震えようといったらありませんでしたから、青ひげは、すぐと感づいてしまいました。
「おや。」と、青ひげは言いました。
「小部屋の鍵がひとつないぞ。」
「じゃあ、きっと、あちらの机の上に置き忘れたのでしょう。」と、奥方は答えました。
「すぐ持ってこい。」と、青ひげは、怒った声を出しました。
五、六度、あちらへ行ったり、こちらへ行ったり、まごまごした後で、奥方は、しぶしぶ鍵を出しました。青ひげは、鍵を受けとると、恐い目をして、じっと眺めていましたが、
「このかぎの血はどうしたのだ。」と言いました。
「知りません。」と、泣くような声でこたえた奥方の顔は、死人よりも青ざめていました。
「なに、知りませんだと。」
と、青ひげは言いました。
「おれはよく知っているよ。おまえはよくも思い切って、小部屋の中に入ったな。えらい度胸だ。よし、そんなに入りたければ、あそこへ入れ、入れてやる。そこにいる妻たちの仲間になれ。」
こういわれると、奥方は、いきなり夫の足もとに突っ伏して、いかにも真心から、悔い改めた様子で、もうけっして、お言いつけには背きませんから、と言って、詫びました。
このうえもなく美しい人の、このうえもなく悲しい姿を見ては、岩でもとろけ出したでしょう。けれど、この青ひげの心は、岩よりも、鉄よりも固かったのです。
「妻よ、おまえをもう生かしておくわけにはいかない。今すぐに死んでもらう。」
と、青ひげはいいました。
「わたくし、どうしても死ななければならないのでしたら。」
と、奥方は答えて、目にいっぱい涙をうかべて、夫の顔を見ました。
「せめて暫く、お祈りをする間だけ、待ってくださいませんか。」
「しかたがない、七分半だけ待ってやる。だがそれから、一秒も遅れることはならないぞ。」と、青ひげは言いました。
ひとりになると、奥方は、お姉さまの名を呼びました。
「アンヌお姉さま。アンヌお姉さま、後生です、塔のてっぺんまで上がって、お兄さまたちが、まだおいでにならないか見てください。お兄さまたちは、今日、訪ねて下さる約束になっているのです。見えたら、大急ぎで来るように、合図をしてください。」
アンヌお姉さまは、すぐ塔のてっぺんまで上がって行きました。半分気が狂ったようになった奥方は、可哀想に、始終怯えて叫び続けていました。
「アンヌお姉さま、アンヌお姉さま、まだ何も来ないの。」
すると、アンヌお姉さまは言いました。
「日が照って、埃が立っているだけですよ。草が青く光っているだけですよ。」
そのうちに青ひげが、大きな剣を抜いて手に持って、ありったけの割れ鐘声(濁った太い大声)を出して、怒鳴りたてました。
「すぐ降りて来い。降りて来ないと、おれのほうから上がって行くぞ。」
「もうちょっと待ってください、後生ですから。」
と、奥方は言いました。そうして、極低い声で、
「アンヌお姉さま、アンヌお姉さま、まだ何も見えないの。」
と、叫びました。
アンヌお姉さまは答えました。
「日が照って、埃が立っているだけですよ。草が青く光っているだけですよ。」
「早く降りて来い。」
と、青ひげは叫びました。
「降りて来ないと、上がって行くぞ。」
「今まいります。」
と、奥がたは答えました。
そうして、その後で、
「アンヌお姉さま、まだなにも見えないの。」と、叫びました。
「ああ。でも、大きな砂煙が、こちらのほうに向かって、立っていますよ。」
と、アンヌお姉さまは答えました。
「それはきっと、お兄さまたちでしょう。」
「おやおや、そうではない。羊の群ですよ。」
「こら、さっさと降りてこないか。」
と、青ひげは叫びました。
「今すぐに。」
と、奥方は言いました。そうして、そのあとで、
「アンヌお姉さま、アンヌお姉さま、まだ、誰も来なくって・・・。」
「ああ、二人馬に乗った人がやって来るわ。けれど、まだずいぶん遠いのよ。」
「ああ、ありがたい。」
と、奥方は、嬉しそうに言いました。
「それこそ、お兄さまたちですよ。わたし、お兄さまたちに、急いで来るように合図しましょう。」
そのとき、青ひげは、家ごと震えるほどの大声で怒鳴りました。奥方は、しぶしぶ、下へ降りて行きました。涙をいっぱい目にためて、髪の毛を肩にたらして、夫の足もとに突っ伏しました。
「今さらそのようなことをしても、どうなるものか。」
と、青ひげはあざ笑いました。
「はやく死ね。」
こういって、片手に、奥方の髪の毛を掴みながら、片手で、剣を振り上げて、首をはねようとしました。奥方は、夫のほうを振り向いて、今にもたえ入りそうな目つきで、ほんのしばらく、身づくろいする間、待ってくださいと、頼みました。
青ひげはこう言って、剣を振り上げました。
「ならん、ならん。神さまにまかせてしまえ。」
そのとたん、表の戸に、ドンと、激しくぶつかる音がしたので、青ひげはおもわず、ぎょっとして手をとめました。とたんに、戸が開いたとおもうと、すぐ騎兵が二人入って来て、いきなり、青ひげに向かって来ました。これは奥方の兄弟で、ひとりは竜騎兵(りゅうきへい:騎兵の一種でドラゴンという名の小銃で武装していた)、ひとりは近衛騎兵(このえきへい:君主を警衛する君主直属の軍人)だということを、青ひげはすぐに知りました。そこで、慌てて逃げ出そうとしましたが、兄弟はもう、後から追いついて、青ひげが、くつぬぎの石に足を掛けようとするところを、胴中(どうなか)を一突き刺して、殺してしまいました。
でもそのときには、もう奥方も気が遠くなって、死んだようになっていましたから、とても立ちあがって、兄弟たちを迎える気力はありませんでした。
さて、青ひげには、跡継ぎの子がありませんでしたから、その財産は残らず、奥方のものになりました。奥方はそれを、姉さまやお兄さまたちに分けてあげました。
物珍しがり、それはいつでも心をひく、軽い楽しみですが、いちど、それが満たされると、もうすぐ後悔が、代ってやってきて、そのため高い代価を払わなくてはなりません。
当時ヨーロッパに広く知られていた妻殺しを題材にした民謡からヒントを得て、ペローが御伽話にしたものと考えられている。現在では口伝えの昔話として、各地で記録されている。
私は「青ひげ」の中に死体愛好(したいあいこう)の臭いを感じるのです。
なぜなら、青ひげは娘のどちらでもいいといっています。結婚する相手をどちらでもいいとは不自然です。それに、死体を飾ってあるかのような状態は、尋常ではありません。
死体愛好とは死体に欲情する性的嗜好をも指し、これはまた、屍体性愛(したいせいあい)や、ネクロフィリア(necrophilia)とも呼ばれるものである。性的倒錯の一つでもある。屍を姦するので「屍姦」といわれるものです。
これは、エジプトのミイラまで遡ります。死体はミイラ職人に屍姦されないよう数日間たった後、渡したといいます。屍姦の歴史はとても古いということです。
18世紀フランスでは、屍姦プレーを提供する売春宿が人気だったようです。もちろん、売春婦は死体のふりをするだけですが。
しかし、いくら殺人者だからといっても、殺して全財産を得るというのは、如何なものでしょうか。私には略奪としか思えないのですが。
民話の類型としては禁室型(きんしつがた)、開けるなのタブー、鶴の恩返し等の話に分類されます。
また、一説にはヘンリー八世と6人の妃たちの死を題材にしたともいわれています。
したっけ。
ヘンリー8世(Henry VIII) 1491年6月28日 - 1547年1月28日 亡56歳。
テューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド王(在位(自称):1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。
ヘンリーはテューダー朝開祖/ヘンリー7世と、前王朝ヨーク家の王女エリザベスとの間に生まれました。1491年6月28日、今は存在していないグリニッジ宮殿で誕生した時には、すでに兄のアーサー、姉のマーガレットという2人の兄姉がいました。
5歳年長の兄アーサーは1489年に皇太子及びコーンウォール公に冊立(さくりつ)されており、同年にはスペイン王女との婚約も整い、誰の目にも未来の国王はアーサーとしか映りませんでした。
ところがアーサーはヘンリーが11歳の時に急死したため、急遽(きゅうきょ)ヨーク公であった彼(ヘンリー)が皇太子に立てられたのです。
彼は教育係から叱られる時も、側近の者が代わりに鞭で打たれたという、甘やかされて育った子供であったのです。音楽を好み、10歳でフルート、ビオラ、ハープを演奏できたといいます。
12歳で、スペインからの要請で亡兄アーサーの名ばかりの妃であったキャサリン・オブ・アラゴンと婚約しました。キャサリンがアーサーとまったく肉体関係がなかった事は女官長他側近達も証言する事実でありました。
しかし父ヘンリー7世はスペインとの約束を踏み倒すつもりで、2人の結婚を認めなかったのです。
そこでヘンリーは、1509年父王が崩御し、自身が即位するのに伴い、婚約者キャサリンを正式な王妃に迎えたのでした。
ヘンリー8世は俗に「ヘンリー8世と6人の妻たち」といわれるように、6回結婚したことで知られています。最初の王妃キャサリンとは父王の反対を押し切っての恋愛結婚、2度目のアン・ブーリンとはバチカンと決別してまでの不倫掠奪婚、3度目ジェーン・シーモアは2番目の妻を処刑しての恋愛結婚、5度目のキャサリン・ハワードも恋愛結婚、6度目のキャサリン・パーも恋愛結婚でした。
いずれもヘンリー8世自身が見そめて、恋をし、妃に迎えた女性ばかりでありました。わずかに4度目のアン・オブ・クレーフェのみ、政略の意味もあって妻にした女性でしたがそれとてホルバインの描いた肖像画の美貌に惹かれたという理由もあったのです。
恋愛結婚したはずの王妃たちの運命は決して幸福なものではありませんでした。
最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの故国スペインは、最初英国の同盟国でありましたが、1519年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世が即位すると、スペインはオーストリアの一部となったのです。
神聖ローマ帝国皇帝カールは1527年サッコ・デ・ローマ(ローマ掠奪)で、法王すら支配する勢いであったのです。危機感を覚えた英国は敵国だったフランスに急接近し、スペインと対立した結果、王妃キャサリンの立場は弱まりました。おりしもヘンリー8世は、フランスから帰国した駐在フランス大使の娘アン・ブーリンに魅了され、王子が生まれなかったキャサリンとの結婚を解消すべく法王に働きかけました。
熱心なカトリック信者であったヘンリーだが、思い通りに離婚許可を出さない法王に腹を立て、バチカンと断絶。1534年、強引にアンと式を挙げたのです。「国王至上法」を発令して、内容的にはほぼカトリックと変わらない、しかし法王の代わりを王が務めるという初期の「英国国教会」を成立させたのです。
1536年、アン・ブーリンを反逆罪で処刑したヘンリーは、3番目の王妃にジェーン・シーモアを娶り、後のエドワード6世が生まれました。同年から国内の法王領である修道院の財産没収に着手したのです。わずか4年で大小合わせて400近い修道院が解散となりました。政情不安から、1536年には「恩寵の巡」 礼なる大反乱が勃発しています。1537年、ジェーン王妃が産褥で亡くなったために、2年後ドイツの新教国クレーフェから公女アンナ(アン)を迎えるものの即離婚し、1540年には20歳にも満たないハワード家のキャサリンと結婚。2年後には反逆罪で処刑してしまうのです。
その翌年最後に迎えた王妃キャサリン・パーだけは、ヘンリーの死後まで生き延びました。
1547年、ヘンリー8世は持病であったリューマチ或いは梅毒が悪化し、第3王妃ジェーンの兄サマーセット公を摂政に任命して、10歳の皇太子の後見を任せるとホワイトホール宮で息を引き取りました。1547年1月28日のことでした。
ヘンリー8世と6人の妃たち
キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon) 1485年 - 1536年 亡51歳
1509年結婚、1533年離婚(48歳) 。はじめアーサー王太子妃。死別後、その弟ヘンリーと再婚。メアリー1世の母。結婚から20年余りを経た後に離婚。
アン・ブーリン(Anne Boleyn) 1507年? - 1536年 亡29歳?
1533年結婚、1536年離婚(29歳)。エリザベス1世の母。元はキャサリン・オブ・アラゴンの侍女。離婚後にロンドン塔で刑死。
ジェーン・シーモア(Jane Seymour) 1509年? - 1537年 亡28歳?
1536年結婚、1537年死去(28歳)。エドワード6世の母。元はアン・ブーリンの侍女。エドワード出産後に産褥死。
アン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves) 1515年 - 1557年 亡42歳
1540年結婚、同年離婚。ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘。結婚後6ヶ月で離婚(25歳)。
肖像画があまりにも美化されていたため、初対面時にヘンリーが激怒したというエピソードが残されている。
キャサリン・ハワード(Katherine Howard) 1521年? - 1542年 亡21歳?
1540年結婚、1542年離婚(21歳)。アン・ブーリンの従妹。結婚1年半後に反逆罪で刑死。
キャサリン・パー(Catherine Parr) 1512年? - 1548年 亡36歳?
1543年結婚、3年半後の1547年夫と死別(35歳)。学識高く、メアリー、エドワード、エリザベスの教育係も務めた。
したっけ。
履くか?履くわけねえだろ。エアコン、コタツ・・・、間に合うわけねえだろ!
ハンカクサイこと言ってんじゃねえよ。日本人が全員東京に住んでるような話をするなよ。日本は広いんだぜ。北海道から沖縄まで日本だってこと、知ってるか?
オレは北海道に住んでるんだぜ。毎朝氷点下だ。氷点下って知ってるか?水が凍りになる温度より寒いってことだ。マイナス20度以下にもなるんだぜ。毎朝シバレルんだよ。
寝るときに靴下履いてどうすんだよ。起きたら何履くんだよ。西洋人じゃねえんだ。家ん中で靴は履けんだろ。
外は雪と氷だよ。たまに雪が降ったぐれえで、大騒ぎすんなよ。
したっけ。
サーロインは英語のsirloinからの外来語ですが、これの起源については、現在の有力説は、フランス語の『シュールロンジュ』(surlonge)に由来するというものです。
シュールは『上』で、ロンジュは『背肉(腰肉)』の意味。 ロンジュよりさらに上側をシュールロンジュと呼んでいたという。
このシュールロンジュが英国に入って『サーロイン』に変化したというもの。(シュール→サーロンジュ→ロイン)
騎士といえば下級貴族ですが、その叙任式(じょにんしき)には国王が剣で肩をたたくのだそうです。こうして騎士となると彼は以後“サー”の称号を許されて、騎士として認められるのです。
16世紀、イギリス王のヘンリー8世(1491年6月28日 - 1547年1月28日)がリーディング修道院長と晩餐の席に着きました。メインディッシュは仔牛のステーキでした。王様が美味しそうに食べるのを見て、胃弱気味の修道院長が、
「全く羨ましいほどの健啖ぶりですな。食欲不振の私など1000マークでその胃を買いたいほどですよ。」
というと、王はすかさず、「よし売った!」と叫び、1000マークを手にすると修道院長をロンドン塔に放り込んだのです。
ご機嫌のヘンリー8世、「味も良かったし、そのうえ儲けさせてくれた。おまえを騎士にしよう。」
と、その肉を剣でぽんと叩いたのです。この肉は最上級の腰肉、ロインだったので、その後これをサーロインステーキと呼ぶようになったのです。
何しろ相手は貴族だから、値段が高いのも当然だったのでしょう。
ヘンリー8世は1536年ごろから4年余りの間、修道院の財産没収を行ったのです。
また、生涯に6人の妃(きさき)をもち、新しい恋人が出来ると、古い妃はつぎつぎと毒殺や死刑にした。そう考えると、いかにもありそうな話です。
「sur」が英語になる際「sir」になった過程での背景としては、まんざら間違いではないと考えられています。
したっけ。
11世紀から13世紀にかけて、西欧のキリスト教徒は、イスラム教に占領されていた聖地エ ルサレムを奪還するため遠征軍を組織しました。これが十字軍です。参加していた人々が宗教的情熱、騎士道精神という大きな動機を持っていたのは当然のことです。
しかし、反面では遠征に参加することで借金を帳消しにし、略奪(りゃくだつ)、領土拡大などの現実的な目的も持っていたのです。
7回にわたって大規模な遠征軍が東方世界に向かって出発したものの、結果は聖地エルサレムを再び我が物にすることはできなかったのです。
さて、十字軍はその後の東方貿易などに大きな足がかりを残しましたが、風俗のうえでも、“貞操帯”という奇妙なものを後世に伝えています。これは、数年間も自宅を留守にする兵士が、妻の浮気防止用に使ったのですが、果たして本当に浮気封じに役立ったのでしょうか。
貞操体をつくった鍛冶屋(かじや)がいたのですから、それをはずす合鍵を作ることも簡単だったのです。それに、留守をあずかる夫人たちにとっては、もしかしたら帰ってこない夫のために貞操を守ることなどできない相談だったのです。
彼女らの行状(ぎょうじょう)を知っていた聖職者も見てみないふりをしていたといいます。十字架のために戦う戦士たちに、そんなことを告げるわけにはいかなかったのです。ある修道士は、古代ローマ時代の愛の指南書「アルス・アマトリア」を書き写し彼女らに協力したりしています。
貞操体を考え付かなければならないほど、当時の道徳は乱れていたのです。
もちろん。結婚するまで処女を守ることは、大切な掟とされていました。しかし、一方では敗れた処女膜を無傷に見せるため、粘膜を縮める薬も存在していたのです。当然ながら中絶薬もありました。
庶民の間では、「試験婚」という便利な習慣もありました。これは結婚前にお互いの体をよく知っておくために、一緒にベッドに入るという習慣でした。男性、女性とも、何人もの相手と試験婚をすることができたし、それは別に恥ずかしいことではなかったのです。
キリスト教の厳しい戒律の中にあっても、人々は自分の欲望を満たすために知恵を絞っていたのです。
したっけ。
化粧のルーツについては2009年12月6日「化粧の起源と歴史」で述べましたが、今回はギリシャの遊女が考えた肌荒れカバー法についてお話したいと思います。
「遊女」というと、金に困った両親が娘を人買いに売り払ってしまったような、どこか身を持ち崩したようなイメージがあるのですが、古代のギリシャやローマにおいては、それほど低い地位でも、見下される職業というわけでもなかったようです。
特に古代ギリシャでは食料品の買い物ですら男性の仕事であり、一般女性は専ら家の中にあって、つつましく家庭を守りながら夫を助けるべき存在でした。特に年頃の娘の顔などは何かの祭礼の折に垣間見るしかないため、宴会などで場を取り持つのは専ら遊女の役目でした。現代で言うなら「コンパニオン」でしょうか。
男性と対等に会話を交わすためには才能と知恵と教養が必要となり、いきおい古代ギリシャにおける遊女の存在は、その美貌と才能によって華やかにもてはやされる存在となっていったのだそうです。男と対等に語るために、男を凌ぐ高い教養を身につけていくことになったといえば、江戸時代の花魁のような存在だったのでしょうか。
ギリシャの遊女たちは、香水風呂に入り、無駄毛を抜き、白粉(おしろい)、頬紅(ほおべに)を塗っていました。眉(まゆ)を整え、アイライン、マニキュア、ペディキュアも施(ほどこ)していたそうです。
ルネッサンス期(14世紀-16世紀)の女性は、化粧に大変気を使うようになります。肌を白く見せるために純銀、水銀、白鉛(しろなまり:錫)、焼き明礬(みょうばん)などが使われていました。
しかし、こんなものを塗ったら肌をいためることは確実です。顔にアバタやシミができて当然です。そんな時、彼女たちはどんな方法でこれをカバーしたのでしょう。
星や花形の黒い布を貼り付けたのです。隠したいところを目立たすという逆転の発想です。
これは、まるで蝿(はえ)がとまっているように見えたので、フランスではムーシュ(蝿)と呼ばれている。これが「つけぼくろ」のはじめだそうです。
ルネッサンス期の女性は前途の漂白クリームのほかに、肌を若返らすために、卵とぶどう酒、羽を半分むしった鳩、チーズ、リンゴなどを火にかけ、それを顔に塗っていたというのです。女性の執念は恐ろしいというかすさまじいものがあります。
やがて、17世紀のルイ王朝時代に入ると、このムーシュが一般女性にも大流行しました。婦人たちは色々な形に切り抜いた「つけぼくろ」を箱に入れて持ち歩き、TPOに合わせて専門の「つけぼくろ師」につけてもらったのだそうです。
それから100年も経つと、男性貴族たちのあいだでも化粧が大流行したのです。白粉を下地にルージュをたっぷりと塗りたくったのだそうです。
したっけ。
人類最古の職業は売春婦である。などといわれていますが、ならばいったい、いつごろから売春が行われていたのだろうか。
メソポタミア文明の基礎をつくったシュメー ル人の記録の中に出てくる「神殿娼婦」が記録 の上では最古のものだそうです。紀元前5000年頃のことです。
シュメール人はチグリス、ユーフラテス両河川の治水(ちすい)と灌漑(かんがい)農業に成功し高度の都市文明を築(きづ)き、楔形(くさびがた)文字の体系を作り出しています。
シュメールの都市は神殿を中心に築かれたが、この神殿の女祭司(さいし)は神の、つまり王の第一の女性でありました。そこに神々の側女(そばめ)として仕(つか)えていたのが「神殿娼婦」なのです。
彼女らは、神殿に貢納(貢納)する男性のすべてと性的交渉を持たねばならない義務があったのです。もちろんそれは不名誉なことではなく、未知の男との肉体的合一は、神秘的な婚姻として、崇(あが)められていたのです。もちろんそのような神事的な理由をつけ、男性が彼女たちに強制していたのかもしれません。
シュメール人たちが宗教の中で愛の女神イ ナンナを崇拝したといわれます。
しかし、シュメール人がさほど性的に乱れていたわけでもあり ません。一夫一婦制が家族の基本でしたし、娘を誘惑した男は、その娘を妻にしなければならなかったのです。
ともあれ、この「神殿娼婦」が神殿内での売春へと様相を変えていくには、さほど時間はかからなかったと思います。
「快楽のためには結婚、よく考えてみたら離婚」
「喜びに満ちた心で花嫁、悲しみに満ちた心で花婿」
「楽しみ、それはビール。いやなこと、それは遠征」
「パンのあるときは塩はなし、塩があるときはパンがない」
この格言に当事の世界観があらわれていると感じます。というか人間進歩していないような気がします。
したっけ。
処女の破瓜の出血を魔物によるものとして、その穢れを祓うため、初夜を族長が代行する風習は、キリスト教以前からのものです。
中世ヨーロッパや中世東アジア・東南アジア、古代中東では、結婚儀式をとりおこなった後、権力者(領主や僧侶など)が、夫よりも先立って処女の花嫁と寝て性交を行うことが認められていたという説がある。そして、この権利は新郎が金銭と引き換えに権力者から取り戻すことが可能であったとされています。
処女と性行為をすることは災難を招く云々の迷信が信じられている場合、特別の権威を有する領主や聖職者にそれを取り除く機能が期待されていたとも言われています。
もちろん領主や聖職者の性的な欲求との合致もまた理由の一つである。女性に対し婚姻以前の不貞の有無を問う事を難しくする機能も果たした。
当時のキリスト教の聖職者が結婚を禁じられていたことと関係があるのなら、許されざる特権といわなければなりません。
また、法となっていないまでも世界各地にこれと類似した風習があったという。また女性の領主や聖職者の新郎に対する初夜権を認める地域もあったそうです。
この場合、親の特定が難しい場合もあったでしょうが、どうしたのでしょうか。
しかし、性交するまでの権利があったことを示す確固たる証拠は多く無く、「初夜権」の制度が廃れ始めた時代に形成された不確かな伝承であるという説もあります。
領主の権利として、新婦は領主の所有物であり(と言っても結婚初夜の初交まで奪う権利があると言う訳ではなく)、新郎が新婦を領主から買う、また特に違う領主の下に暮らす男女が結婚する場合、労働力としての女性が別の領主の下に行く代償としての「結婚税」制度が曲解されたのが真相に近いと言う説もあといいます。
いかに腐敗していたとはいえ、カトリックの聖職者が世俗の女性と性的関係を結ぶことが公認されていたとは考え難く、いわば税を取り立てるための手段としての法律であったと考えるのが妥当であると考えられます。
類似の風習としては、ヘロドトスによれば、紀元前5世紀のバビロンには女性は結婚を許可されるためにはイシュタルの神殿で一度見知らぬ男性に身を委ねなければならない、とする風習(いわゆる神殿売春)があったとされるが、これもイシュタルに仕える女性神官の振舞いを見誤ったものだとする説がある。
したっけ。