都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
仕事始め
年の初めにあたり、年間の豊穣(ほうじょう)や繁栄を祈って行われる家業・生業に関する儀礼。「事(こと)始め」とよばれるほか、行われる仕事によって、「ない初(ぞ)め」、「田打ち正月」、「鍬(くわ)入れ」、「初山(はつやま)」、「舟祝い」などさまざまによばれる。これらの行事は正月の2日、4日、11日、14日、15日などに行われることが多い。
商家の初荷・初売りはほぼ2日に一定しており、安売りをして景品を出したりする。
女性はこの日に縫い初(ぞ)めといって形だけでも針仕事をしたり、機(はた)織りをしたりした。
このほか、書初(ぞ)め、謡初(ぞ)め、舞い初(ぞ)めなどの芸事始めも行われる。
農家では藁(わら)を打ってほんのすこし藁仕事をしたりする。早朝に田畑へ行き、鍬を入れて耕作をするまねをしたり、正月の松を稲苗に見立てて田植のまねをしたりすることもあるが、これは11日や小正月に行われることが多い。
山仕事に従事する者は2日や11日などに山へ行って木を伐(き)り、山の神に供え物をして仕事の安全を祈る。
漁業に従事する者もこのころ舟に集まって舟霊(ふなだま)様を祀(まつ)り、豊漁を祈ったりする。いずれも正月行事の一環として儀礼的に行われるだけで、実際の仕事始めは正月の期間が終わってから順次行われるのである。
どうです。昔のお正月はのんびりしていましたね。元日から営業しているのは、「神社」、「病院」、「映画館」くらいでした。
3日まではどこも営業していませんから、遊びに行くところもありません。
初詣に行って、自宅でお餅とみかんを食べていました。今、考えるとよくお餅ばかり食べていたものだと思います。
女性も三が日は、ほとんど台所に立ちませんから、食べる物はお餅しかなかったのです。
官公庁では毎年1月4日を官庁御用始めとして初めて執務を行う日としており、一般企業でもこれに準じていることが多かった。昭和40年代までは、特に女性社員が着物を着て出社していました。
もちろん、着物姿で仕事ができるはずもありません。年始の挨拶に来るお客様の接待が仕事でした。
その日は、普段背広を着ない仕事の男性社員も背広や和服で出勤していました。
「初荷」で訪れる問屋さんは皆日本酒を持参しますので、昼間から飲んで終業時間の頃はすっかり出来上がって、そのまま夜は「新年会」でした。
バブルに向かう前の、いい時代でした。
したっけ。
すぐそばに小学校があり、自宅まえの道は通学路になっています。今は丁度小学校の夏休みです。自宅前を通う児童もいません。
この時期になると、思い出すことがあります。
それは、私が小学校3年生の夏休みのことです。夏休みといえば「夏休み帳」と「図工」、「自由研究」、「絵日記」などの宿題がありました。今は、特別ないようですが・・・。
私は「図工」で、何をつくろうかと考えました。当時、私の叔父が油絵をやっていて、油絵の具に興味がありました。それで、油絵の具を使う口実を考えたのです。それが「皿絵」です。お皿には、クレヨンでも水彩絵の具でも絵を描くことはできません。
叔父に言うと快く承知してくれました。そこで、母に言って白い20㎝位の皿を買ってもらいました。
当時の子どもの絵といえば、黒で縁取りをして色で塗りつぶすというのが普通でした。
ところが、貸してもらった筆は太いものでそのような書き方はできません。私は子供なりに、叔父の書いた絵を観察しました。どれも、色を直接塗り重ね、縁取りなどはありません。叔父からは描き方の指導もなく、絵の具の溶き方と筆を洗う意外は教えてくれませんでした。
皿は1枚しかありません。失敗は許されません。絵の題材は何かの本に載っていた「水車」の写真を描くことにしました。
私的には、あまりはっきりとした絵が描けずに不満足な出来栄えでした。
「皿立て」も木を糸鋸でくりぬいて作りました。当時、バーナーはありませんから蝋燭かなんかで焦げ目をつけました。これは父のアイディアだったと思います。でも、全て自分でやりました。
これが、後にとんでもない事件になったのです。
始業式の日、私は「皿絵」を持って登校しました。
事件は、放課後に起きました。
私は担任の女性教師に職員室に来るよういわれました。
そこで、私はとんでもない濡れ衣を着せられたのです。当時私は「学級委員」でした。教師曰く。「学級委員」である私が、夏休みの宿題を大人に描いてもらって提出するとはどういうことだと、叱られました。どうも、私的には満足していなかった描き方が疑いをよんだようです。
私は「自分で描いた。」と、何度もいいました。
教師は「どうして嘘をつく。素直に認めなさい。」と、ヒステリックにいうばかりです。
私が慣れない絵の具と格闘し、糸鋸の刃を何本も折って完成した「皿絵」と「皿立」に対して、絵の具はどうしたとか、どうやって描いたのかの問いかけはありませんでした。
私は悲しくなりました。涙が溢れました。もう言葉は出ませんでした。
当時は、夏休みの図画工作などは、学年ごとに全作品が体育館に展示され「金賞」、「銀賞」などとして、父兄が観覧できるようになっていました。
私の「皿絵」は何の賞もなく、片隅に置かれていました。
先日、その話を母にしたところ、翌日玄関にその皿絵が飾ってありました。母は大事に保管していたのです。
その絵は、今も玄関に飾ってあります。私の苦い思い出とともに・・・。
したっけ。