都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
お正月に食べる『お餅』が日本に伝えられたのは、はるか昔、古墳時代のことと言われています。
もともとは中国の江南地方から伝えられたものです。
餅を正月の祝儀に使うようになったのは、平安時代からだとされます。
当時、中国から歯固(はがため)の風習が伝わりました。これは元日に堅い餅を噛みしめて歯を強くし、齢を固めることを祈る儀式で、その後に鏡餅を拝するように変化しました。
鎌倉時代になって、種々の行事や戦の携行食として、多くの武士達に利用されるようになります。武家ではお正月に餅を鎧兜などの具足の前に飾り、勝ち栗・干し柿・海老などを供えて武運長久を祈りました。
室町時代になると、それまで貴族・武士・僧侶の間で行われていた様々な行事が、一般庶民の間でも行われるようになり、正月やハレの日にお餅を供えるといった風習が広まります。
江戸時代になるとお餅はすっかり庶民の間でも浸透し、今日同様、結婚・出産などの祝い事の際に食されるようになったということです。
年中行事では、三月三日(上巳)の草餅、五月五日(端午)の柏餅、十月亥日の猪子餅と餅は深く関わります。
また、正月には「米の収穫祭」という側面があります。
米が取れたことを祖霊に感謝し、また収穫された米を祖霊に供えることで、一年の平穏を祈りました。
餅を供えるのは、そのような米の収穫祭とも融合します。
このように、正月に来訪する祖霊や神霊を「年玉(としだま)」ともいいます。
「たま」は魂(たましい)と同じ意味です。また、丸いものや宝石・貴石も「たま」というのは、それらが魂や精霊が宿る物体とされたことからです。
そこで、正月に祖霊・神霊に供えられる鏡餅が丸く作られるのも、そこに年玉が宿るとされます。(なお、「とし」の語源は穀物、特に稲が実ることを意味し、そこから転じて年や年数、齢という単位として使われるようになりました)
ねん【稔】[漢字項目]
[人名用漢字] [音]ネン(慣) ジン(漢) [訓]みのる穀物が実る。「稔性/一稔植物・不稔性」[名のり]とし・なり・なる
辞書:大辞泉
年玉が宿る餅と野菜や魚介などの供物と煮て食べるのが「雑煮」であり、それを食べることで祖霊や神霊の力を体に宿すとされます。
現在でも祭礼などで、食事が重視されるのも神仏に供えたものを食べることで、その力を得ようとしたことの名残です。
そしてそのような食事は大多数で食べることで、より力が増すとされました。そこから、年玉の宿った餅や供物を他人に振る舞った風習が、だんだんと変化して現在の「お年玉」となります。
ですから「お年玉」は丸いもの(小銭)でなくてはなりません。一万円札など、とんでも在りません。あれは四角ですから。
したっけ。
年越し蕎麦(としこしそば)とは、大晦日(12月31日)に縁起をかついで食べられる蕎麦のことだそうです。
元々、江戸時代中期には月末に蕎麦を食べる「三十日(みそか)そば」という習慣があり、 大晦日のみにその習慣が残ったものと考えられているようです。
年越し蕎麦の由来とされる説は「細く長く達者に暮らせることを願う」というものがもっとも一般的です。他に「蕎麦が切れやすいことから、一年間の苦労を切り捨て翌年に持ち越さないよう願った」という説もありますが、後付けの説とも言われています。
1年の最後の日を「大晦日(おおみそか)」または「大晦(おおつごもり)」とも呼びます。「晦日(みそか)」とは毎月の末日のことです。一方「晦〔つごもり〕」とは、"月が隠れる日"すなわち「月隠〔つきごもり〕」が訛ったもので、どちらも毎月の末日を指します。"1年の最後の特別な末日"を表すため、末日を表す2つの言葉のそれぞれ「大」を付けて「大晦日」「大晦」と言います。
家族揃って新年を迎える
12月31日「大晦日」には1年の間に受けた罪や穢れ(けがれ)を祓うために、大祓い(おおはらい)が宮中や全国の神社で執り行われます。仏教色が強い夏のお盆に対して、正月の行事の1つである大晦日は新しい年の穀物に実りをもたらし、私たちに命(年)を与えてくださる歳神様を祀る意味を強く感じます。
昔、1日は夜から始まり朝に続くと考えられていたため、大晦日は既に新しい年の始まりでした。そのため、この日に縁起物であるお頭(かしら)付の魚を用いた正式な食事やお雑煮などを家族揃って食べるなどするのです。
これを「年越し」「年取り」といいます。年越しの夜は除夜(じょや)ともいいます。かつて、除夜は歳神様を迎えるため一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になる、シワが寄るなどの俗信があったそうです。
古くから行われていた年越しの行事
大晦日の行事は古く、平安時代頃から行われていたようです。本来大晦日は歳神様を祀るための準備が行われる日でしたが、仏教の浸透とともに、除夜の鐘をつく習慣も生まれました。
大晦日の風物詩である年越し蕎麦(としこしそば)は江戸時代頃から食べられるようになりました。金箔職人が飛び散った金箔を集めるのに蕎麦粉を使ったことから、年越し蕎麦を残すと翌年金運に恵まれないと言われています。
また、江戸時代の町人は大晦日になると借金の返済に追われていました。これは、年内に借金を返済し、新しい気持ちで新年を迎えたいという人が多かったからです。
私が就職したころは、大晦日は大変でした。合言葉は「紅白歌合戦を見よう。」でした。大晦日に売り掛けを支払う人が多く集金に追われていました。集めては銀行に持ち込み、また集金です。銀行も商店も遅くまで開いていました。
結局「「紅白歌合戦」までには帰れないのです。お盆と年末にしか支払をしない人もいたくらいです。
その代わりといってはなんですが、元旦は何処の店も休みでした。
したっけ。
ぽち‐ぶくろ【ぽち袋】
心づけ・お年玉などを入れる小さな紙袋。祝儀(しゅうぎ)袋。
辞書:大辞泉
お年玉袋(おとしだまぶくろ)とは、正月にお年玉をあげる際にお金(主に紙幣)を入れる袋のこと。
紙製のものが多く、名刺大から長形4号封筒のサイズぐらいのものまである。「ポチ袋」(点袋)と呼ばれることもあるが、この「ポチ」は関西方言で「心づけ、祝儀」を意味し、もっぱら舞妓などに与えていた祝儀袋のことであった。
「ポチ」には「小さな」(これっぽち)という意味があり、「少ないですが」という謙虚な気持ちで与えたのが始まりである。
異説としては、英語の "spot" (臨時の)、フランス語の "petit" (小さい)などに由来するという説や、お年「玉袋」では語弊があるので「タマ」を「ポチ」に変えたという説などがあるそうですが、これは疑問です。
あとで、餅の項で述べますが、年玉の宿る餅(丸餅)を、お裾分けするのが「お年玉」です。ですから「お年玉」は丸くなくてはいけません。つまり、最大500円の小銭ということになります。
したっけ。
「良い年だった」かどうかは、あくまで本人の価値観であり、外見から、または他人から言われるものではない。
「良い年だった」かとは「幸せだったか」ということだろう。
幸福(こうふく、英:Happiness)とは、自ら満ち足りていると感じており、安心している心理的状態のこと。
と、堅い話はこれくれえにして、オレは特別良いこともなかったし、悪いこともなかった。つまり、平々凡々に毎日が過ぎていった。それは、オレが特別な何かを求めなかったということに他ならない。
この歳になると、彼女を追い求めるでもなく、仕事に追われるでもなく、時が流れていく。時の流れに身をまかせ~♪という歌があたっが、まさにそのように時が流れた。流れに棹差すこともなく・・・。時間という舟に乗ったまま・・・。
ああ、なんだか調子でねえな。年末で感傷的になってるのかな。らしくねえな・・・。
要するに平凡な一年だったてことだよ。しかし、「平凡に勝る幸福なし」というから、いい一年だったってこった。めでたしめでたしだよ。
したっけ。
「八百屋お七」1666年~1683年 (寛文6年~天和3年)ほど、誰もが知っているわりに、真相が分かっていない事件も例がない。実在した十六歳の少女で、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑にされたのは事実だが、その真相については恋の炎に狂った末の放火と云われているが、今もってはっきりとした証拠の文書などが発見されていない。
「八百屋お七」の起こした放火事件は天和2年(1682年)12月28日。今から300年以上前の事です。
現代の世にも伝えられている理由はなんと言っても井原西鶴が書いた浮世草子「好色五人女」で、実際には小火だったものを、それでは物語に盛り上がりが無いので江戸を火の海にしたということにして発表した。
河竹黙阿弥などが脚色し、芝居や人形浄瑠璃によって日本の津々浦々まで知れ渡っていった。当時16歳の女の子が好きな男の人に会うために放火という手段を選んだ事、その結果火あぶりの刑に処されたとされた事で、今も人気の出し物である。
「お七」は下総国千葉郡萱田(現・千葉県八千代市)で生まれ、後に江戸本郷円山で八百屋を営む江戸の八百屋山瀬太郎兵衛の養女となった。
平凡な暮らしが続いていましたがこの実家の八百屋がある日火事になり、一家の避難先になったのが本郷浄円寺坂の円城寺。
ここで「お七」は山田佐兵衛という20才の男と知り合いたちまち恋をしてしまうのです。
寺内で佐兵衛との逢瀬を重ねていましたが、八百屋の再建が無事終わり、「お七」は実家に帰ることに・・・。
その結果、もう今までのように佐兵衛に会えなくなってしまったのです。
会いたい気持ちが抑えられなくなった時、「お七」の脳裏に「もう一度家が火事になればまた会える・・・。」
これは「お七」自身の思いつきか、一説には寺の門番の息子で「お七」の恋を取り持つと言っては小遣いをせびっていた吉三郎が「実家がもう一度燃えたらまたここで避難生活をして佐兵衛に会える」と、そそのかしたとも伝えられています。
この時、「お七」の頭の中には佐兵衛に会いたい一心で他の事が考えられなかったのでしょう。
自宅の物干し台に上がり、油を注いだ柴木に火をつけ再建出来たばかりの自宅を再び火にかけてしまったのです。
火は瞬く間に自宅だけでなく江戸中が火の海になり死傷者で埋まると言う悲劇は、一人の娘が恋心のために犯した罪は余りにも代償が大きすぎました。ご存知のように結果は火あぶりの刑に処されました。
というのが物語であります。
歌舞伎のストーリーはあくまでも井原西鶴が物語として書いたものがもとになっています。
その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったことと、小火であったため町奉行・甲斐庄正親(かいしょうまさちか)は哀れみ、何とか命を助けようとした。
当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐庄はこれを適用しようとしたのである。厳格な戸籍制度が完備されていない当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。
甲斐庄は評定(ひょうてい)の場において「お七、お前の歳は十五であろう」と謎を掛けた。
それに対し彼女は正直に16歳であると答えた。甲斐庄は彼女が自分の意図を理解出来てないのではと考え、「いや、十五にちがいなかろう」と重ねて問いただした。
ところが彼女は再度正直に年齢を述べ、かつ証拠としてお宮参りの記録を提出することまでした。これではもはや甲斐庄は定法どおりの判決を下さざるを得なかった。
1683年(天和3年)3月29日に江戸小伝馬町の牢屋敷から市中引回しの上、品川鈴ヶ森刑場で火炙りに処されたのである。
「お七」の生年は1666年とされており、それが丙午の迷信を広げる事となった。
八百屋(やおや)
野菜類を販売する商人または店。自家生産の野菜類を町で振売りする小商人はすでに10世紀ころからみられた。
都市住民の生活向上に伴い、その需要に応ずる店売りは17世紀に始まった。そこではいっさいの精進(しょうじん)の調菜(副食物)、乾物、海藻、木の実、草根などを扱っていたので八百屋といった。
八百はたくさんと言う意味で、数多くの物を扱うところからきている。最初のうちは「八百物屋(やおものや)」、あるいは「八百屋店(やおやだな・やおやみせ)」と呼ばれていたが後に八百屋にと呼ばれるようになった。ですから「八百屋」の初は野菜屋とはかぎらなかったのです
これが18世紀に入ると、商品は野菜類に限られ、葉菜類(青物)、根菜類(土物(つちもの))、果菜類(前栽(ぜんさい)物)だけが店頭で商われた。
都市の青物市場へは近郊の農家から集荷された。八百屋はそれを仕入れて小売りをした。また、担売りもあり、これは八百屋のほかに近郊農家のものも多く、青物売りとよばれた。
19世紀後半になると、小売りの八百屋は果物も扱って青果物商となり、また第二次世界大戦後はスーパーマーケットや産地直売の普及につれて、缶詰、瓶詰類も置く食料品店化しつつあり、成立当初の八百屋に戻っているといえる。
なお、野菜を行商する女性は今日でもみられる
また、商業写真や舞台セットで物品を斜めに配置することを「八百屋にする」という表現が使われることがあるそうです。
したっけ。
芸者の襟足は、白い化粧の塗り残しという形で、強調される。この化粧にはどのような意味があるのでしょうか。なぜ芸者は、襟を後方に大きく開いて、男に背中を見せるのでしょうか。なぜ襟足は、正月と八朔(はっさく)には、二本ではなくて三本になるのでしょうか。八朔(はっさく)とは陰暦の八月朔日(ついたち)のこと。芸者の化粧に込められた意味を考えてみましょう。
芸者の化粧の塗り残しとはなにか・・・
芸者(芸妓)は、伝統的に、白塗りの厚化粧をします。その際、目の周りはぎりぎりまで白く塗るのに、髪の毛の生え際の周りでは、かなりの幅を取って、地肌を露出させます。その結果、肌が白いというよりも、むしろ仮面をしているかのような観を呈しています。
なぜこのような塗り残しをするのでしょうか。塗り残しの地肌は、裸であることを表しているらしいのです。確かに、それは、白い下着からチラリとはみ出た肌のようで、とてもエロティックに見えます。それは男性客の気を惹くには十分エロスなのです。
ところで、地肌は、とりわけ項(うなじ)において、大きく露出しています。しかも、それは、独特のWの形をしています。
なぜ項(うなじ)は日本の男の性欲の対象となるのでしょうか。項(うなじ)に下半身の擬態が形成される理由は何なのでしょう。そもそも、なぜ芸者は、胸を露出させないのに、背中を露出させ、首に意味ありげな化粧を施すのでしょうか。なぜかつての日本の男は、項(うなじ)に色気を感じたのでしょうか。
芸者は、背中が大きく露出するほどに、襟を下げています。問題は、背中でこれだけエロスを発揮する芸者が、なぜ前面でもっと胸元が見えるほど襟を広げてエロスを発揮しないのかというところにあるのです。
昔の日本人女性の乳房が小ぶりであったとか、着物が乳房を圧迫するような帯を締めていた話はおくとして、かつて、日本人は髷を結い、また、日本の母親は乳児を背中におんぶして育てたのです。子供は母の襟足を眺めながら育ち、その結果、乳房に代わって襟足が母子の絆を思い出させる対象となり、そこに性本能のエネルギーが観念に投入されている状態になったということなのかもしれません。
三本足の化粧とはなにか・・・
芸者の襟足の塗り残しは、通常、W字型の、二本足であります。ところが、黒紋付で正装する正月と八朔(8月1日)には、三本足にします。
二本足の塗り残しが女性の下半身を表すとするならば、二本足の間に追加された三本目の足は、本来は存在しないはずの女性のペニスということになります。つまり、これは、ファリック・マザー(ファルスを持った母)の紋様と解釈することができるのです。逆に言うならば、普段の二本足は、欠如の記号としてのファルスということになります。
「ファルス」とはギリシャ語で「ふくらんだもの」のことです。男性の性器、男根を意味する言葉。特に勃起した状態を指すのです。
では、ファリック・マザーとしての三本足は、なぜ、正月と八朔(8月1日)に現れるのでしょうか。旧暦の正月と八朔は、早春と初秋に相当し、かつて日本では、この時期に先祖が祀られたのです。後に、仏教の影響で、先祖供養は盆に行われるようになりましたが、この先祖供養は、本来は、早春と初秋に行われる豊作への祈りと感謝と無関係ではないのです。
秋に死ぬ植物も、春になったら、再び生命の息吹を取り戻します。だから、早春と初秋は、この世とあの世が橋で結ばれ、生命がその橋を通って、あの世に逝ったり、戻ったりする時期なのです。だから、早春と初秋には、死んだ祖先への供養が行われたのです。
あの世は、地母神(ちぼしん)の胎内と考えられたので、その橋は、ファリック・マザーのペニスということになります。そして、そのペニスは、正月と八朔という、あの世とこの世を結びつける橋が復活する日に、失われた母子の絆の思い出の場所である項(うなじ)に、三本目の足として描かれることで、復活するのです。
地母神(ちぼしん)の胎内は、黄泉の国と言われ、暗い場所であると考えられていました。だから、あの世を垣間見る正月と八朔(8月1日)には、芸者は、黒紋付(黒地に紋を付けた着物)を着るのです。葬式の時に、黒い喪服を着るのも、同じ理由なのです。
地母神(ちぼしん)とは大地の豊饒(ほうじょう)、生成、繁殖力を人格化した女神のことです。
したっけ。
以前は "数え年" という方法で歳を伝えていました。
今みたいに自分の誕生日が来て1歳増える "満年齢" ではないので、全国民が1月1日に歳をとることになっていました。
昔、目上の方には「良い年(歳)をお迎えください。」と言うようとなっていたようです。
お歳を召した方が、新年の挨拶でいらしたときは、お見送り時に「今年も良い年(歳)をお過ごしください。」ということです。
「良い年を(歳)お迎えください。」という、ひびきが良いですね。
今年は良い歳(一年)でしたね。このまま良い状態で年末を迎え、新年齢、つまり、みんなで一緒に年(齢)を迎えましょう。そして、新年にまた会いましょう
そして、新年を迎え、それぞれ元旦に年を一つ重ねてから、再会し新年、(みんな歳をとり)あけましておめでとうございます。という意味なのです。
みんな全員が歳を迎えるので、目上であろうと目下であろうとおんなじです。今は年下の人に使っても大丈夫です。
「良いお年(新年)を」ではなくて、「善い、お齢(またはお歳)を」なのですよ。
昔は、新年を迎えると歳を重ねると、されていました。つまり、「善い歳を重ねるように、お祈り(願い)します」ということなのです。
したっけ。
仕事納め(しごとおさめ)とは年末となる12月の下旬の、最後の仕事のこと。
日本の官公庁では行政機関の休日に関する法律(昭和63年12月13日、法律第91号)により、12月29日から1月3日までを休日として定めており、12月28日を御用納めとして、その年の最後の業務日となっている。12月28日が土曜日、日曜日に当たるときは、それぞれ12月27日、12月26日が御用納めとなる。
一般企業でもこれに準じていることが多いが(12月29日を仕事納めとする企業もある)、銀行などの金融機関は12月30日まで窓口業務を行っている。金融機関では12月30日が土曜日に当たるときは12月29日で窓口業務を終了する。
なお、年明けの業務開始日(仕事始め・御用始め)は官公庁や金融機関では1月4日となる。1月4日が土曜日、日曜日に当たるときは、それぞれ1月6日、1月5日が御用始めとなる。企業によっては1月5日などの場合もある。
一般企業はなかなかこれに準じて休みは取れません。私が永年勤めていた会社では、12月31日まで仕事でしたし、1日から仕事でした。休んでいるのは役員だけというひどい会社でした。
今は労働条件がもっと過酷になっています。何とかならないでしょうかね、法 律を作るとか・・・。アルバイト、派遣社員、契約社員等、昔はなかった言葉が働くものをいじめています。会社に勤めたといえば正社員だった昔には戻れないのでしょうか。
したっけ。