都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
『韓非子』の難勢編にある話。
盾(たて)と矛(ほこ:両刃の剣に長い柄を付けた武器)を売っている武器商人がいました。道行く人々に大声を張り上げ、客引きに余念がありません。左手に盾を持ち、そのすばらしさを誉めて言うには、
「この盾の堅いことといったら天下一ですだ。どんな鋭い矛で突いたとしても、とても突き通せるものじゃありません。」
今度は、かたわらにある矛を右手に掲げて、これを誉めて言うには、
「この矛の鋭いことといったらどこを探したってありません。どんな盾でも一突きで突き破ってしまいます。」
彼は、得意満面で売り口上を続けていましたが、それをじっと聞いていた男が、
「ならば、お前さんの右手に持った矛で、左手に持っている盾を突いたら、いったい、どっちがどうなるんだ?」
武器商人は、自分の言っていることの矛盾に気づき、立ちつくすばかりで答えることができませんでした。
このように、言っていることが正反対でつじつまが合わないことを「矛盾」と言います。
[?~前233ころ]中国、戦国時代末期の思想家。韓の公子。荀子(じゅんし)に師事し、法家の思想を大成した。韓の使者として秦(しん)に赴くが、李斯(りし)の讒言(ざんげん)により投獄され、獄中死する。韓非子。
大辞泉
む‐じゅん【矛盾/矛×楯】
[名](スル)
1 ほことたて。
2 《昔、中国の楚の国で、矛(ほこ)と盾(たて)とを売っていた者が、「この矛はどんなかたい盾をも突き通すことができ、この盾はどんな矛でも突き通すことができない」と誇ったが、「それではお前の矛でお前の盾を突けばどうなるか」と尋ねられて答えることができなかったという「韓非子」難一の故事から》二つの物事がくいちがっていて、つじつまが合わないこと。自家撞着(じかどうちゃく)。「発言の―を突かれる」「二人の話が―する」
3 論理学用語。
①伝統的論理学で、二つの概念または命題が一定の事象を同一の観点から同時に、一方が肯定し他方が否定する場合の両者の関係。
②命題論理学で、複合命題からなる論理式の各要素命題にいかなる真理値を与えても必ず偽となる式。
大辞泉
こんな話は、改めてするまでもなく、皆さんよくご存知の話です。しかし、最近、ちょっとした違いでも、「矛盾がある」と言います。使い方が違っている気がします。世の中に「矛盾」が氾濫しているからでしょうか。
言葉は正確に使ってこそ、言葉は意味を持ちます。何を言っているかわからず、聞き手が推理しなくてはいけないような言葉遣いはやめて欲しいものです。
したっけ。
すい‐こう〔‐カウ〕【推×敲】
[名](スル)《唐の詩人賈島(かとう)が、「僧は推す月下の門」という自作の詩句について、「推す」を「敲(たた)く」とすべきかどうか思い迷ったすえ、韓愈(かんゆ)に問うて、「敲」の字に改めたという故事から》詩文の字句や文章を十分に吟味して練りなおすこと。「―を重ねる」「何度も―する」
大辞泉
時代は唐(とう:618年 - 690年・705年 - 907年)の中頃、賈島(かとう:779年~843年)は何度も科挙の試験に落第しておりましたが、出家して、無本と号して、あの空海ゆかりの長安の青竜寺に住んでおりました。ある時、都へ官吏の登用試験を受けるためにはるばるやってきた賈島が驢馬(ろば)にゆられながら1人、詩の創作にふけっていました。
「僧は推す月下の門」とできたのですが、どうも「推(お)す」を「敲(たた)く」にした方が良い気もする。さて、どっちが良いか?と迷い、驢馬の背で、推したり敲いたりを真似して考えあぐねていたところ、ある貴人の行列に行き当たってしまったのです。
そのまま衛兵に引き立てられたので、事情をつぶさに説明して非礼をわびたところ、貴人は怒るどころかしばし考え、
との答えたのです。その貴人は詩人としても名高い 韓愈(かんゆ:768年- 824年)その人だったのです。2人はそこで意気投合し、心ゆくまで詩を語り合いました。
これが「推敲」の語源となったのです。
ちなみに、その時できた詩は「李疑(りぎ)の幽居(ゆうきょ)に題す」という詩です。
閒居少鄰並,
草徑入荒園。
鳥宿池邊樹,
僧敲月下門。
過橋分野色,
移石動雲根。
暫去還來此,
幽期不負言。
閑居隣並少なく、
草径荒園に入る。
鳥は宿る池中の樹、
僧は敲く月下の門。
橋を過ぎて夜色を分かち、
石を移して雲根を動かす。
暫く去って還た此に来る、
幽期言に負(そむ)かず。
詩の背景ですが、李疑さんのところに友人の僧が尋ねるというものだそうです。
推すだと音が小さく、李疑さんは僧の来訪を知っている。敲くだと、来訪を知らずに知らせる意味がこめられている。この両方の話が思い浮かんで、どちらにするか悩んでいたようです。
賈島さんは話としていろいろ考えてしまい、韓愈は詩としての良さを考えたようです。「推す」より、「敲く」の方が、音が広がるので、詩として奥行きが出るということを教えたようです。
か‐とう〔‐タウ〕【賈島】
[779~843]中国、唐の詩人。范陽(河北省)の人。字(あざな)は浪仙。出家したが、韓愈(かんゆ)に詩才を認められて還俗(げんぞく)。五言律詩にすぐれる。「推敲(すいこう)」の故事で有名。著「賈浪仙長江集」など。
大辞泉
かん‐ゆ【韓愈】
[768~824]中国、唐の文学者・思想家。唐宋八大家の一人。昌黎(しょうれい)(河北省)の人ともいわれるが、河陽(河南省)の人。字(あざな)は退之。昌黎先生と称される。儒教、特に孟子を尊び、道教・仏教を排撃した。柳宗元とともに古文復興運動に努めた。
大辞泉
「推す」と「敲く」の違いは、言われてみると納得しますが、奥の深い話です。
「文章を書き直している」というより「文章を推敲している」といったほうが、深く考えているように聞こえませんか。言葉は不思議です。よく推敲してつかいましょう。
したっけ。
『円高の今、海外旅行に行くなら?』なんなんだよ。言葉を省略するなよ。なんでも省略すりやあいいってモンじゃないぜ。
『円高の今、海外旅行に行くなら、どこへ行きますか?(場所)』とか、『円高の今、海外旅行に行くなら、なんで行きますか?(交通手段)(理由・目的)』なんとでも取れるじゃないか。
この時代、省エネは結構なことだけど、言葉の省略は誤解をうむかもしれない。特に海外となると、英語もろくに話せない。市民の喧嘩から始まった戦争もあるそうだぜ。ちゃんと意思を伝えようぜ。
あっ、そうそう『円高の今、海外旅行に行くなら?』だったな。船で豪華に行こうが、どこに行こうが、わざわざ治安のいい日本はなれて、治安の悪い海外に行くことはないんじゃないか。テロだとか、誘拐だとか、事故だとか、いくら円高だからって、ぞろぞろでかけりゃ、鴨が葱背負って歩いてるみたいなもんだぜ。
て、わけで出かけないだ。どうしてこんなに出不精なんだろう。
どうしても出かけろてんだったら、人口密度が低くて、涼しいトコだな。暑くてかなわんよ。ここは北海道だぜ。北海道より涼しくて、安全で、食いもんの旨いとこ・・・。
したっけ。
「暗中模索」は字面(じづら)から見ると「暗闇の手さぐり」のこと、つまり「暗闇でわからない」のことに思えます。
日本では、暗闇の中だから、何がなんだかわけがわからず、手さぐりして何かをつかもうとしている状態の意味にとっています。
あんちゅう‐もさく【暗中模索】
[名](スル)1暗やみの中で、手さぐりしてあれこれ探し求めること。2 手掛かりのないまま、いろいろなことを試みること。「打開策を―する」
大辞泉
ところが、この言葉の出身地中国ではまるで反対の意味を表す言葉だそうです。
『隋唐佳話(ずいとうかわ)』という本にかかれた話。
唐の許敬宗(きょけいそう)という学者は、性が軽忽(けいこつ)、つまり、そそっかしく、人の顔をすぐ忘れてしまう癖があった。学者だから学問にかけては物憶えがいいのにどうしたものか、世間並みのことは非常識、人の顔を忘れたり、間違えたりする。
「あの男のそそっかしいのも困りものだ」・・・
それを伝え聞いた許先生のいわく「世に知られていないありふれた人間の顔なぞ記憶するのはむだに労力を費やすものである。私のようなあわて者だって、曾植(そうしょく)や謝霊運(しゃれいうん)(当時の有名人)と出合ったなら『暗中模索』でもわかるよ。」と言ったとあるそうです。
つまり、「暗闇の中でもすぐわかる」という意味で用いられたのです。
『隋唐佳話(ずいとうかわ)』
唐の劉錬の著。隋唐間の逸話をまとめてある
日本では、「五里霧の中にいる」という意味の「五里霧中」(『後漢書』張楷伝)と混同したのかもしれません。
「どこから手につけていいのやら『暗中模索』だよ。」といった場合は、中国流に解釈して、まず手さぐりしてみてでも始めてみてはいかがでしょうか。案外簡単にきっかけがつかめるかもしれません。
保証はしませんが・・・。
したっけ。
「あの人、ちょっとキザね。」といわれたら、褒め言葉でしょうか。
「キザ」は「気障」と書きます。呼んで字のごとく「きざわり」のことです。服装、行動などが気取っていて気に障ることですから、「キザな奴だなあ」といわれれば当然悪口です。
ところが、最近は「わたしの彼ってちょっとキザでカッコいいのよ。」などと使われ、褒め言葉のような使われ方をされます。
本来なら「粋でカッコいい」というべきでしょう。「粋」なんて言葉は死語なんでしょうか。
き‐ざ【気▽障】
[名・形動]《「きざわ(気障)り」の略》
1 服装や言動などが気どっていて嫌な感じをもたせること。また、そのさま。「―な話し方」
2 気にかかること。心配なこと。また、そのさま。
・「化物が…顕れているのぢゃあねえかと思ふから、些(ちっ)と―なところがあらあな」〈滑・七偏人・五〉
3 不快な感じを起こさせること。また、そのさま。
・「そのすうすうとすすり込む音が何分(なにぶん)―だ」〈滑・浮世風呂・四〉
大辞泉
最近の男性ファッションを見て、キザなものばかりだと言おうものなら「野暮天」といわれて女性に嫌われてしまいそうな時代です。
江戸時代後期に、この谷保天神(やぼてんじん)が十月(神無月)に目白で開帳(出張神社みたいなもので賽銭を稼いだ)したことを、太田蜀山人(しょくさんじん)という狂歌師が、そうよんだといわれています。他の神々は出雲へ行かれて神無月になるというのに、谷保天満宮はその月に目白に来た。何と野暮=谷保な天神さんだ、というわけで俗語の「野暮天」の語源になったという1000年以上続く有名な天神様。
「野暮天」は上記の谷保天満宮の神様から出た言葉という説もありますが、「野暮」の正確な語源は分からないそうです。
因みに、「野暮天」は極めて風雅のない人のことです。
やぼ【野暮】
[名・形動]《語源未詳。「野暮」は当て字》1 人情の機微に通じないこと。わからず屋で融通のきかないこと。また、その人やさま。無粋(ぶすい)。「―を言わずに金を貸してやれ」「聞くだけ―だ」⇔粋(いき)。
大辞泉
「野暮天」ないいて言っちゃ、「なんのことよ、それ・・・。」と、笑われそうです。外国語だか、日本語だかわからない言葉がまかり通る世の中です。
「美しい日本語が聞きたい。」などと言ちゃあ、キザですかね。
したっけ。
みみ‐ざわり【耳障り】
[名・形動]聞いて気にさわったり、不快に感じたりすること。また、そのさま。「―な音」
め‐ざわり【目障り】
[名・形動]1 物を見るのにじゃまになること。また、そのものや、そのさま。「―な建物」2 見て不快であること。また、そのものや、そのさま。「いちいち―なやつだ」
みみ‐ざわり【耳触り】
聞いたときの感じ・印象。「―のよい音楽」
した‐ざわり【舌触り】
飲食物などの舌に触れる感じ。舌の感触。「―のやわらかい酒」
は‐ざわり【歯触り】
歯で物をかんでみたときの感じ。「さくっとした―」
最近よく「耳ざわりのいい音楽」とか、「耳ざわりのいい声」という言葉を耳にします。上記の五つの言葉を比べてください。お気づきだと思いますが、「耳障り」、「目障り」は不快なことを表す言葉です。
ですから、「耳ざわりのよい音楽」とか、「耳ざわりのよい声」という言い方は、本来存在しないのです。
「舌触り」、「歯触り」は直接ものが触れますが、「耳触り」の場合直接ものが触れることはありません。感覚で言っているのだと思いますが、「耳触り」という言葉は日本語にはありません。
しかし、『大辞泉』には「耳触り」という言葉が載っています。あまりに普通に使われるからだと思います。
パソコンで「みみざわり」を変換してみてください。「耳障り」と変換されますが、「耳触り」とは変換されません。
因みに、『広辞苑』には、「耳触り」という言葉は載っていません。
「耳ざわりのいい」という言葉を聞くと、「耳障り」なのは私だけでしょうか。
したっけ。
洟も引っ掛けない
眼中に置かず相手にしない。見向きもしない。「あいさつしても―<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 9pt; HEIGHT: 15pt"><imagedata o:href="http://dic.yahoo.co.jp/images/V2/yh_gaiji/l/01213.gif" src="file:///C:DOCUME~1OwnerLOCALS~1Tempmsohtml11clip_image001.gif"></imagedata></shape>ない」
大辞泉
はな【洟】
《「鼻」と同語源》鼻腔の粘膜から分泌する液。はなじる。はなみず。「―をかむ」
大辞泉
この「ひっかけない」の「ひっかける」は「おしっこをひっかけられた」の場合と同じで、「液体を注ぎかける」という意味です。
「はな」はその“液体”で「鼻汁」、「洟(はな)」です。
対象となるものに鼻汁をかけることすらしない。全然相手にしない。
ですから、洟も引っ掛けない(はなもひっかけない)は、相手にしない、無視するという意味なのです。
「ハナにもひっかけない」は間違いです。
「鼻にかける」(自慢する)の「はな」と「はなもひっかけない」の「はな」は違うわけです。
このケースでは、強調の副助詞「も」がついた結果、格助詞の「を」が消えていますが、基本の形は「何か【に】はな【を】(ひっ)かける」であって、「何か【を】はな【に】(ひっ)かける」ではありません。
格助詞の「を」が消える”というのは、「宿題をする」→「宿題もしないで、遊んでいる」のようなものです。
「親に知らせる」→「親にも知らせない」格助詞「に」は消えません。
かく‐じょし【格助詞】
助詞の種類の一。体言または体言に準ずるものに付いて、それが文中で他の語とどんな関係にあるかを示す助詞。現代語では、「が」「の」「を」「に」「へ」「と」「より」「から」「で」など。古語では、「が」「の」「を」「に」「へ」「と」「より」「から」「にて」など。
大辞泉
したっけ。
「鼻にかける」という言葉がありますが、これは誰の鼻のことなのでしょうか。
この言葉は、日本で生まれた言葉ではないのです。となりの国、中国から、100年余り前に伝わったものだそうです。
19世紀初まで世界的な大国だった中国が、アヘン戦争に敗れたのは1842年のことです。以後、中国には西洋人が多数押し寄せました。戦争に勝った西洋人たちは、中国に対して、不平等な通商条約を押し付け、数々の無理難題を吹っかけ、尊大な態度で振舞い始めました。
そんななか、高慢な西洋人の振る舞いを我慢するしかない中国人の間では、「西洋人」=「鼻の高い人」=「高慢」というイメージが広がっていきました。ここから、「鼻にかける」という言葉が生まれたのです。
「鼻が高いからって威張るんじゃないよ。」といったところでしょうか。
いわば、西欧列強諸国に蹂躙(じゅうりん)された、当時の中国の流行語だったのです。それが、しだいに慣用句として定着し、日本にも伝わってきたのです。
鼻の低い東洋人の劣等感もあったのかもしれません。
「鼻が高い」=「美人」=「つんつんしている」というイメージありませんか。こちらも、気をつけないといけませんね。
「鼻高々」という言葉もありますが、鼻が高いのも大変ですね。
したっけ。
懐かしいこと聞くね。オレにとっちゃ、遠い昔の出来事だよ。
先日、ある会合があって若い人と一緒になったんだが、「茶店(さてん)」の話になったんだよ。そしたら、「サテンって布ですか?」って聞かれちゃったよ。
昔は「純喫茶」ってのがあって、それ以外は出入り禁止だったなんて話は通じない世界だよ。
だからさ、オレらのころは、先ず映画にいって、「茶店(さてん)」で話しをするってのが定番だよ。もちろん、食い物は「ナポリタン」だよ。
みんなそうなんじゃないの?だってそれしかなかったんだもの。スポーツ観戦たって、競馬場ぐらいしかなかったし・・・。
今だって、「スポーツ観戦」「映画」の2択ってのは難しいんじゃないの。色々あるからさ。
したっけ。