団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖

都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

「羆霧(くまぎり)」

2024-09-21 06:06:02 | 短編小説

夏、日高山脈第二の高峰、カムイエクウチカウシ山(通称カムエク)を、目指していた登山パーティーがあった。

 山の名称はアイヌ語の「羆(神)の転げ落ちる山」に由来する。

 パーティーは高山拓真、山口宏樹、森山健太、峰野大輔、岩崎岳夫の五人構成で、年齢や職業はバラバラだった。

 彼らは、SNSで知り合った登山愛好者のパーティーだ。

 高山、山口は上級者で、森山、峰野は中級者だった。岩崎だけが学生で初級者だった。

 リーダーは年長の高山と決まり、サブリーダーは山口と決まった。

 

 山に入って一日目。

 五人は〝渡渉〟を繰り返しながら、札内川本流を進み、八ノ沢出合に到達。更に、八ノ沢を遡行し、キャンプ適地で宿泊した。

 特に事故もなく、登山は計画書通りに進んでいた。四日間の予定だ。

 

 二日目。

 八ノ沢を遡行し、〝高巻き〟や〝へつり〟を繰り返し、八ノ沢カールに到着した。

 昨晩のラジオの天気予報では、今日の天候が思わしくないことが分かっていた。

 そのため、高山は停滞を決定した。

 テントは平らな場所に張る。入り口は風下にする。ペグがしっかり打てるか確認する。川・沢の近く、崖下はテントを張らない。登山道の近くはなるべく避ける。

 高山が指示をして、設営場所を決定した。

 予報通り、雨風が次第に強くなり、テント内で簡単な食事を作って腹ごしらえをした。

 その日は、トランプをしたり、互いの経歴などを話したりと、楽しく時間をつぶした。

 天気予報を聞いて、明日の朝、小雨なら出発しようと決めた。

 二日目も特に何事もなく終了した。

 

 三日目。

 朝、一番早く起きた森山が、外の様子を確認にテントを出て、帰ってきた。

「かなり霧が出ている。待ったほうがいいかも知れない」

 高山がテントのドアパネルから外に首を出すと、辺りは霧で真っ白だった。

 朝食後、様子を見ていたが、霧は晴れそうもなかった。

 メンバーは昨日停滞したこともあって、できるなら出発したい様子だった。

 しかし、この先〝巻き道〟があり、滑落事故の危険があると高山は判断した。

 話し合い、その日も停滞することにした。

 昼、霧が更に濃くなってきた。

 雨こそ降っていないが、霧の中を歩き回るのは危険で、テントを出る者はいなかった。

 夜になってから、動物の軽い足音がテントの回りをコソコソと歩いていた。

 キツネだ。テントから出て追い払った。

「何か外に置き忘れていないか?」

 山口がメンバーに聞いた。

「あ、〝クッカー(鍋)〟だ!」

 岩崎が、慌てて〝クッカー〟を回収した。

 初心者の岩崎が、うっかり〝クッカー〟をテントの外に放置してしまったのだ。

 夜の動物が活動するこの時間、食べ物の臭いを外にじかに出しておくのは危険だ。

「おいおい、羆でなくてよかったよ。気をつけてくれよ。テントから百メートルも離れた場所で食事をした意味がないだろ」

 高山が岩崎に注意した。

 三日目はこうして終了した。

 

 四日目。

 朝、高山が外の様子を確認するが、二メートル先も見えないほどの霧に包まれていた。

 本来の日程では、この日になっても停滞するようなら計画を中止し、別ルートで山を下りることになっているが、霧が濃く、行動することは危険が伴う状況だった。

 話し合うまでもなく、また停滞した。

 午後、少しでも晴れそうなら下山することを考えたが、霧はますます濃くなるばかりだった。昼とは思えないほど薄暗かった。

 トランプも飽きてきて、話題も尽きた。

 夜、早めに明かりを落とし、就寝した。

 テントの内側が霧を吸って濡れていた。テント内は強い湿気が充満し、不快だった。

 数時間後に、異変が起きた。

 最初に山口が気づき、隣に寝ていた高山を起こした。

「さっきから、足音がする。キツネじゃなさそうだ」

 眠ってはいなかったのか、全員が上半身を起こして耳を澄ます。

 重くゆっくりとした足音が、ジャリ、ジャリと音を立てる。

 時折聞こえる鼻息のような音が不気味だ。

 全員息を潜め、鼻息の主を連想していた。

 甘くすえたような独特の激しい獣臭が鼻を突いた。この臭いは羆だと高山は思った。

 どうやら、一頭だ。この時期に一頭なら、雄だ。雌なら小熊を連れているはずだ。

 誰からともなく、みんなテントの中央に集まって、身を固めた。

 そのうち、その動物がテントの布に鼻を押し付けては、激しく臭いを嗅ぐという行動を始めた。鼻の形が、内側に飛び出した。

 嗅いではテントの周りを巡り、また嗅ぐ。

 みんな、恐怖に震えながら、身を寄せて声を押し殺し、動けなかった。

 しばらくして、テントの布が内側に大きくせり出して、動物の体形が浮き上がった。

 羆だ。間違いない。全員が思った。

 せり出した羆に触れないように、全員が反対側に身を縮め、息を殺した。

 羆は木などに背を擦り付けて自分の臭いをつけ、縄張りを主張する習性があるのだ。

 見慣れないテントを見て、体臭をつけているのだろう。

 本気を出されでもしたら、羆にとってはテントなど紙風船みたいなものだ。

 悲鳴を上げそうなのを堪えながら、全員がテントを破られないことを祈った。

 羆は五分ほど鼻を押し付けることを繰り返した後、またしばらく、テントの周りを、円を描くように歩いていた。

 初級者の岩崎は、泣きべそをかいていた。

 それは明け方まで繰り返され、静かになった。全員が少し眠った。

 高山の記憶では、過去にもキャンプ場付近をうろついた羆がいた。その羆は、十日間ほど、そこに居付いたことがあった。

 羆は付近の植物を食べながら移動して行くので、しばらくは居付く可能性があった。

 高山は五人が持っている飴やクッキー、サブレ、羊羹などの行動食と水を確認した。

 行動食を十等分し、臭いが漏れないようにビニール袋に入れ、口を固く縛った。羆は犬の七~八倍の臭覚がある。

 一日一袋で、十日間持ち堪えるよう、指示した。水の量には、不安があった。

 ここでは、スマホは使えない。

 

 五日目。

 野鳥の騒がしい声で目が覚めた。

 霧は晴れていなさそうだ。薄暗かった。

 羆の臭いは、依然として、漂っていた。

 どこかで、もしくはテントのすぐ側で、様子を窺っているのかもしれなかった。

 みんな、黙りこくっていた。筋肉が硬直して動かない。長い沈黙が続いた。

 昼頃、足音が復活した。

 しばらく歩き回った後、また消えた。

 峰野が勇気を振り絞って、僅かにテントのドアを開け、外の様子を窺った。

「霧が、少し晴れている。羆もいない」

 微かに陽が差し、晴れる兆しが見えた。

 すぐに下りるべきだと主張する側と、明日まで待つべきだという側に分かれた。

 まだ、羆が近くに居るかもしれなかった。

 それに、その時間から下山を開始したとしても、登山道の途中で夜を迎えることになるのは明白だった。

 完全に霧が晴れたわけでもなかった。

 悪天候で、しかも夜に行動するのは事故の危険性が高くなる。

 高山はリーダーとして、下山を許すことはできなかった。

 数日間、恐怖にさらされて、寝不足の中、冷静な判断だったかは分からなかった。

 また、羆がやってくるかもしれない。

 高山は、持っている全てのペグを打って、テントを補強するように指示をした。

 とにかく、その日はそれで日が暮れた。

 誰も会話をしなくなった。

 恐怖からだけではなく、パーティーの考えが対立したことに大きな原因があった。

 その晩も羆は、テントの周囲を巡り、時折体を押し付けてきた。

 誰も眠らなかった。

 

 六日目。

 前日、晴れる兆しが見えたのが嘘のようだった。相変わらず霧が濃い。

 朝起きても、全員が終始無言だった。

 羆を刺激しないように、誰も行動食を食べようとしなかった。

 全員が、周囲の状況に五官を研ぎ澄ましていた。羆の臭いは薄らいだように思った。

 数時間後、森山が外に出ると言い出した。

 みんな反対した。

「様子を見るだけ、羆も今なら近くにはいないと思う。臭いもしないし…」

 森山は執拗に許可を求めた。

 周囲を見るだけで、すぐに帰ってくるのを条件に、高山はそれを許した。

 森山が霧の中へ消えて行った後、山口は高山を非難した。しかし、すぐに黙った。

 しばらくして、足音がした。

 森山の帰りを期待した高山は、テントを開けようとしたが、すぐに手をとめた。

 森山でないことは直ぐに分かった。

 獣の臭いがする。

 羆の鼻息が、今までに増して荒かった。

 すぐに体の押し付けが始まった。

 高山たちは、声にならない悲鳴を上げて、身を寄せた。

 峰野が消えそうな声で言った。

「森山はどうした?」

 誰も応えなかった。

 羆はしばらく周囲を巡ったのち、腰を落ち着かせたのか、足音は消えたものの、甘いすえたような臭いは相変わらず強かった。

 その後、羆の臭いが途切れることはなく、高山たちはテントの中で動かなかった。

 森山は帰ってこなかった。

 襲われたのだろうか? 全員がそう思ったが、誰一人口に出さなかった。

 

 七日目。

 相変わらず、霧が濃かった。

 羆の気配が消えた。どこかに行ったのか、まだ近くにいるのかは分からなかった。

 しばらくの沈黙の後、岩崎が山を下りると言い出した。

 この状況は初級者には限界だった。寝不足から目が血走って、声はヒステリックだ。

 高山が、「霧が濃いから危険だ」と説得を試みるも、岩崎は聞く耳を持たなかった。

「下りたら助けを呼んでくる。待ってろ!」

 岩崎は、荷物を持って霧の中に消えた。

 五人いたパーティーは、高山、山口、峰野の三人になった。

 羆のいない間に、小分けした行動食を食べた。火を使った食事は、臭いが出るので、できなかった。

 会話はなかった。時間だけが過ぎた。

 昼頃、外を見たが霧は晴れていなかった。

 日暮れ時に、また羆がやってきた。

 三人は中央に固まり、羆の気配に耐えた。

 湿気が多く、汗がしたたり落ちた。みんな震えていたが、なんとか声は出さずにいた。

 岩崎は下山できたのだろうか…。

 

 八日目。

 朝になっても霧は晴れなかった。

 羆の気配はしないが、安心はできない。

「下山しよう」と言う者はいなかった。

 霧の中に出て行くことを、躊躇していた。

 高山は、今までのことを、日記に書いて気をまぎらわした。この日記を持って、無事に帰りたいと思った。

 十四時ごろ、山口が狂った。

 ケラケラと笑い出し、キーッと甲高く叫んだ後、笑いながら何も持たずに、テントを飛び出して行った。

 山口は霧の中に吸い込まれて行き、笑い声だけが残った。その笑い声も、山口を追いかけるように、霧の向こうに消えた。

 峰野が静かに、テントのドアを閉めた。

「行ったな…」

 峰野が、ぼそっと呟いた。

 その夜も羆が来た。

 高山と峰野は二人抱き合って夜が明けるのを待った。

 

 九日目。

 今日も、霧が濃い。

 羆は相変わらず近くにいるようだったが、昼ごろどこかへ行った。

 中央で寄り添ったまま、少し眠った。

 霧が山の気配を消し、ひどく静かだ。

 夕方、羆の足音で目が覚めた。

 体をテントに擦り付けられると、泣き叫びたくなるが、どうにか耐えた。

 帰りたい。二人は思った。

 羆はなぜ、襲ってこないのだろう。

 

 十日目。

 朝、相変わらず霧が濃い。

 午後、薄日が差した時に、峰野が立ち上がって、高山に言った。

「今がチャンスだ。俺は出て行く」

 高山は、もう止めなかった。

 みんな出て行って、高山一人になった。

 高山は、霧が晴れるまでは、動かないと決めていた。

 羆は夜遅くに来た。

 高山の脳は凍り付き、思考が停止した。

 

 十一日目。

 やっぱり霧が濃い。

 羆はいた。甘いすえた臭いがしていた。

 

 十二日目。

 依然として霧が濃い。

 

 パーティーの登山届は、事前に警察に提出されていた為、異常事態は発覚していた。

 しかし、稀に見る悪天候に、帯広警察署は捜索を考えあぐねていた。

 その後、天候が復活し、発見されたのは、無人のテントと荒らされた荷物だった。

 高山の日記も見つかった。

 最初に出て行った森山健太は、テントから五十メートルほどのところで、腹を食われた遺体で発見された。

 喉の傷が致命傷となり、即死状態だった。

 次に出て行った岩崎岳夫は、登山道の途中で、崖から滑落した遺体で発見された。

 山口宏樹は、一キロほど離れた笹薮で、無残に食い散らされ、土が掛けられていた。

 羆は獲物に土を掛けて、隠しておく習性があるのだ。

 峰野大輔は、巻き道の崖下から、遺体で発見された。

 高山拓真は、未だに行方不明である。

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「第57回郷土作家アンソロジー入選“羆霧(くまぎり)」”新聞掲載」について考える

2024-05-20 06:00:00 | 短編小説

去年9月末が締め切りであった第57回郷土作家アンソロジー 入選「羆霧」が5月19日(昨日)十勝毎日新聞に掲載されました。

登山パーティーの5人が、霧で停滞を余儀なくされてしまいます。

夜になると、テントの周りをうろつく動物が現れます。

昼間でも薄暗い濃霧の中で、10日余りその動物の恐怖と戦い続けるという話です。

いずれ、時期を見てブログに掲載します。

したっけ。

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「第57回郷土作家アンソロジー表彰式」について考える

2024-01-23 05:55:11 | 短編小説

1月21日(日曜日)午後2時より北海道ホテル ポプラの間において「郷土作家アンソロジー表彰式」がありました。

今回入選11作品、佳作2作品でしたが、出席者は11名でした。

私が知っている人は2名でした。

段々知り合いが少なくなってきました。

古い知り合いは、この2人だけになりましたが、なかなか入選のタイミングが合わず、久しぶりの再会でした。

入選者の中に、私の作品を読んでいただいてい方がいて、嬉しかったです。

その方は、私がAmazonで本を販売していることも知っていてくださって、感激しました。

佳作の2人は高校生でした。

久しぶりの高校生でした。

表彰式の後は、美味しい料理をいただきながら、和気あいあいの懇談会でした。

高校生は緊張の面持ちでしたが、すぐに打ち解けて、話に参加していました。

私もまだまだ若いものには負けられません。今後も頑張ります。

入選作品は投稿順に順次新聞に掲載されます。

私は5月19日が掲載予定だそうです。

入選作「羆霧(くまぎり)」は新聞に掲載されたのちにブログにアップします。

したっけ。
 
 #NO WAR  #STOP PUTIN 

 #StandWithUkraine 

 

 
■昨日のアクセスベスト3  

 

 

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「第57回郷土作家アンソロジーに入選しました」について考える

2023-12-05 06:12:21 | 短編小説

今年9月が締め切りであった「第57回郷土作家アンソロジー」に入選の発表が昨日の新聞に載りました。

第54回以来のですので2年ぶりの入選です。

原稿用紙16枚の短編小説です。

羆霧(くまぎり)」」という、登山パーティーのテントが、羆に襲われそうになる恐怖を書きました。

テントの周りを羆がうろつきまわります。しかし、襲っては来ません。襲っては来ないゆえの恐怖を、テント内の様子だけで書いてみました。

1970年7月に北海道静内郡静内町の日高山脈カムイエクウチカウシ山で発生した福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ襲撃事件にヒントを得て書いた作品です。

今年は羆に出没が異常に多い年だったので、羆の作品を書きました。

これから表彰式の案内が届くと思います。

コロナm期間中は表彰式がありませんでしたが、今回はあるといいと思っています。

おなじみの二人も入選していました。会いたいと思います。

ずっと落選でしたので、とても嬉しいです。やっぱり入選はいいですね。

2回連続で落選していたので嬉しいです。

 

 

したっけ。
 
 #NO WAR  #STOP PUTIN 

 #StandWithUkraine 

 

 
■昨日のアクセスベスト3  
1「熟字訓・これ何と読む?-62-」について考える         89PV 2023-12-04
3トップページ                         28PV
 
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短編小説『容姿端麗』

2023-02-28 06:48:21 | 短編小説

作・都月満夫

 

 

〈クラブ・マリッジ主催のパーティー会場は3階です〉

ホテルの入り口の案内板に掲示があった。

 エントランスホール右手のエレベーターで三階へ上がる。エレベーターを降りると、受付があり、男女の参加者が列を作っていた。

 土曜日の夜、久しぶりに参加する婚活パーティーだ。四十代後半から五十代前半にかけては、頻繁に参加していた。

 転勤族で、各地を渡り歩いてきたが、北海道の女性は色白で美人が多い。帯広に来てからは、特にそれを感じていた。

 誰もいない部屋に帰るのは、もう我慢できない歳になっていた。今を逃したら、もう絶望的な歳になってしまう。

 カウンターで、男性参加者の受付を行っているのは、濃いエンジのジャケットにベージュのパンツスーツの女性スタッフだ。その傍らの女性参加者の受付は、細身で長身の男性だ。制服は女性と逆の組み合わせだ。

 受付が終わると、安全ピンかクリップで服につける番号札と、プロフィールを記入する用紙を手渡された。番号は〈9〉番だった。

「プロフィール用紙に、お名前やご趣味などをご記入ください。女性と交換して会話していただきます。お話のきっかけになる紙なので、できるだけ詳しくお願いいたします。書き終わりましたら、〈9〉と表示された席にお座りになってお待ちください」

 最後に女性参加者の名簿を渡された。

 個人を特定できないように、番号とカタカナの名前だけが印刷されている。

 名簿にある女性の数は十人。男性参加者も十人だ。これは、事前に登録された名簿の中から、主催者が選んだ二十人だ。

 最近は人数が少ないパーティーが主流だ。

婚活をする人数が減っているのか、主催者がそうしているのかはわからない。

人数が少ない分、一人との会話時間が長くなる。コロナ感染の状況下で、スペースに余裕があり、隣との間隔が空くので、周囲を気にせずに会話ができる。男女一組ずつにパーティションで仕切ったスペースがある。このタイプのパーティーはフリータイムがない。いわゆるパーティー形式ではない。

 受付から会場に入ると、低音量でバラードナンバーが流れている。ヴォーカルに寄り添うようなギターが心地よく響く。

 プロフィールを記入するテーブルがあり、消毒済みのボールペンが並んでいた。

 ざっと見まわしたところ、女性参加者は皆服装に気をつかっている。結婚相談所のプロフィール写真のように、ワンピース派とスーツ派がいる。白っぽい色が多い。

 男性は女性と比べると服装には無頓着だ。

コットンパンツか、ダボッとしたデニムパンツだ。ジャケットを着ている男は少ない。シャツかセーターが目立つ。コートやダウンジャケットを羽織って来たのだろう。この中で、スーツ姿の私はある意味目立っていた。

私もプロフィール用紙を記入する。結婚相談所に提出した資料とほぼ同じ項目だった。

 ただし、独身証明書や年収を証明する書類の提出までは求められない。

 プロフィール用紙を記入し終え、パーティションで仕切られた<9>番の席に座ると、すでに女性が着席していた。大きな瞳、長い睫毛、整った鼻筋。ショートヘアで、黄色のジャケットの下の白いTシャツは、はち切れそうに大きな胸が主張している。

容姿端麗とはこのことかと思った。

テーブルは下が開いたアクリル板で仕切られていた。この隙間からプロフィールを交換するのだろう。軽く会釈をすると、相手も会釈をかえしてくれた。

 音楽がフェイドアウトした。 

 受付の女性がマイクを手に挨拶をした。司会も担当するらしい。これまでに何百回も同じことを繰り返してきたのだろう。パーティーの流れや注意事項の説明がよどみない。

 プロフィールを交換して会話を行う。

五分経過すると、男性の席が消毒され、男性が隣の席へ移動し、女性と会話をする。パートナーを替えながら、全員と会話できる。

 最後に、気に入った相手の番号を指定の用紙に記入して提出する。スタッフの集計によってマッチングが成立すると、退出時にそれぞれに伝えられ、後は自由恋愛だ。連絡先を交換しても、帰りに食事に行ってもいい。

マッチングが成立したのは、最初の大きな胸の女性だ。ミツコ、八野充子という。

 パーティーで彼女は積極的だった。随分と私を気に入ったようだ。理由はわからない。

 彼女は三十三歳だった。二十歳以上若い女性が、積極的に私に話してくれる。私には、それがとても心地よかった。

帰りがけに、八番目に会話をした四十一歳のサリナさんに、「エロ親父」と罵られた。

彼女とは歳も近かったので、会話も弾んでいた。彼女は私を指名したのだろうか…。

この人を指名しなくてよかったと思った。

しかし、若い女性を指名した自分を見透かされたようで、ドキッとした。大きな胸に目がくらんだ自分に、少し嫌悪した。

 

 パーティーの後、会場近くのカフェレストランで、食事をした。

現在、彼女の家族は祖母と妹の三人だと言う。母親は数年前に亡なったそうだ。

物心がついたころには、父親はいなかったそうだ。父親を知らずに育ったので、年上の男性に憧れると言った。何か事情がありそうだが、理由はあえて聞かなかった。

プロフィールには市内在住と書いたけど、実際は更別在住だと打ち明けられた。

市内在住と書いたのは、近いうちに市内で暮らしたいという願望だそうだ。

市内に友だちがいて、夜遅くなったときには、彼女の部屋に泊るという。一万円を超えるタクシー代は痛いと言った。

相手は迷惑しているのではないかと思ったが、もちろんそんなことは聞かない。

彼女はエステティシャンだという。

「エステティシャンは、美容師のような国家資格はないのよ。民間資格はあるけどね。勉強は苦手だから、経験を積んで、お店をやりたいのよ。おばあちゃん孝行したいの…」

 彼女はそう言って、ケラケラと笑った。

 私の自己紹介は、会場で伝えていた。

 美濃木健。五十七歳。バツイチ。子どもなし。独身生活は三十年近い。転勤族なので、いつまでここにいられるか分からない。

 三十分もすると、彼女は美容整形をしていると打ち明けた。

「私ね、何度も振られてるのよ。そのたびに整形したの…。振られた自分のままでいるのって嫌じゃない。これは言っとかないとね」

 そう言って、ケラケラと笑った。

 整形を打ち明けられ少し驚いた。しかし、今は特別なことではないのだろうと思った。

 

 翌日からミツコさんは毎晩電話をくれた。いつも深夜零時ころだ。そろそろ眠ろうという時間にスマホが振動する。出るか…、眠るか…、迷いながらも、結局対応してしまう。

 電話にでると、彼女はその日にあったことを、ケラケラと笑いながら、一方的に話す。

 三夜目だったか、四夜目だったか、ミツコさんは自分の写真を送信してきた。

かなりきわどい。ホテルのベッドに横たわっている姿が真横から撮影されている。ホテルのパジャマの胸がはだけ、谷間はくっきり、瞳はうっとり。ズボンは履いていない。体の肝心なエリアはかろうじて隠されている。自撮りだというが、そうは思えない。

カメラと本人の距離は、明らかにリーチよりも離れているし、全身が写っている。男とベッドの上なのだろう。

「これ、誰に撮ってもらったんですか?」

 思わず口に出た。

「あら、妬いてくれてるの? 自撮りよ。一眼レフに三脚をつけて、モニターを自分側に向けてスマホでシャッターを押せるの。写真はスマホに取り込めるわよ。職業柄、自分がどう見えているかを把握しておかないとね」

 彼女はケラケラと笑った。

「今は、そんなことができるんですか?」

 説明を鵜呑みにしたわけではないが、納得したような返事をした。

 

 次の土曜日、夜八時にミツコさんから電話がかかってきた。いつもよりはるかに早い。

「今、市街にいるの。ご飯食べようよ」

 賑やかな場所で、大声で話している。

ちょっと迷ったけれど、結局、駅前のホテルのイタリアンレストランで待ち合わせた。

黒いオーバーコートを脱ぐと、オレンジの花が華やかに咲いているワンピースは、夏でもないのにノースリーブ。丈は膝よりはるかに上で、下着が見えそうだ。

自慢の胸は上三分の一が見えている。

 会話は盛り上がり、アルコールで血色のよくなった彼女が、今日は帰れないと言い出した。更別の自宅に帰れないことはわかっていたが、市内の友だちも不在なのだという。

「今日はもう帰れないなぁ…」

ミツコさんが上目遣いに見つめてくる。

「ケンさん、ここにお泊まりしようよ!」

 彼女は私の隣に座って、腕を組み、胸を押し付けて、そう言ってケラケラ笑った。

 先週の土曜日に会って以来、初めてのデート。あまりにもあっけらかんとした誘いに、私の理性は簡単に破綻した。

ホテルはシングルしか空いていなかった。週末の十一時過ぎ。どのホテルも満室だ。そんな中、やっと、ダブルルームを確保した。

 ミツコさんに腕をからめられ、喜色満面。わくわくしながらホテルへ向かう。

夜風は冷たいが、そんなことは気にならないほど体が熱い。

しかし、不安が一筋の雲のように頭をよぎった。会って一週間でホテル…。後で怖いお兄さんが出て来るんじゃないだろうな…。

 一度不安が生まれると、真夏の入道雲のように、どんどん膨らんでいく。

考えてみれば、彼女の派手な容姿は、とても〝素人〟とは思えない。

友人が不在の時に、あえて私を誘ったのにも意志が感じられる。

五十七歳で、バツイチは、婚活市場では概ね不利なはずだ。ジジイで、失敗経験者で、年齢差は二十歳以上ある。

それなのに、年上が好きだと言っても、三十三歳の女性が、毎日電話をするほど熱心だというのも、冷静に考えれば不自然だ。

 私はチェックインの手続きの後、トイレへ行き、会社の後輩、小俣君に電話をした。

「美濃木です。こんな夜遅くに悪いね」

彼は三回の離婚経験があり、若い女性に痛い目にあったこともある。彼に言わせれば、失敗ではなく学習だという。その学習からアドバイスをもらおうと考えた。

「部長、どうされましたか?」

「相談があります。実は今、先週婚活パーティーで知り合った女性とホテルにいます。トイレから電話をしています。初めてのデートで、ホテルに誘われました。これって、大丈夫だと思いますか?」

「部長、何が大丈夫なんですか?」

「だから…、、二十歳以上も年下の女性が、いきなり誘ってきたので…。何か面倒なことになるのではないかと…」

「ああ、そういうことですか…。なんで私に電話をくれたんですか?」

「君はいろいろ経験が豊富なので…」

「経験? ああ…、あのことですか…」

「いや、別にそう言うわけじゃ…」

 私は慌てて否定した。

「了解です。お急ぎでしょうから、端的に聞きます。積極的だったのは彼女ですか?」

「パーティーでは、彼女が一方的に喋っていたかな…。マッチングでペアになったので、食事に行きました。そこでも、彼女は積極的で、結構ボディータッチがありました」

「身の上話、特に不幸話はしましたか?」

「不幸話ですか?」

「家族のこととか…」

「あ…、母親は最近亡くなって、家族は祖母と妹の二人で、父親は知らないそうです」

「ああ、それで年上の男性が好きだと…」

「そう…、そう言ったよ。よくわかったね」

「わかりますよ。あと、将来の夢とかは…」

「エステの店を開きたいそうです」

「お店ですか…。服装はどうですか? 特に男を意識した挑発的なものですか?」

「あ、かなり責められている感じかな…。エステティシャンなのでそのせいかと…」

「露出は多めってことですね」

「そうです。かなり多めです」

「あと、特にセクシーな話をしましたか?」

「いや…、話というよりは、セクシーな写真を見せられたよ」

「ホテルに誘ったのは、彼女なんですね」

 小俣君は、そう言うと束の間沈黙し、深刻そうな低い声で言った。

「男の気を引く話。特に身の上話は常套手段です。将来の夢も同じです。積極的でベタベタした態度。露出多めの服装。セクシーな写真。男に考える隙を与えない…。危険です」

「コマタ君、どうしたらいい?」

「そうですね…。一時間後に私が部長に電話します。危険な状況だったら、そう言ってください。すぐにフロントに通報します」

 小俣君はそう言った。いい提案だ。

「助かるよ。あ、このことは内密に…」

「部長、分かってますよ」

 トイレでスマホを握ったまま頭を下げた。

 

ミツコさんは、部屋に入いると、すぐに服を脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。

その姿は、あまりに無防備だった。

私は目をそらし、パジャマに着替えた。

振り向くと、彼女は寝息をたてていた。寝息はやがて、アシカの叫びのようないびきになり、ときどき歯ぎしりも重なった。

心配が杞憂であったと笑いが込み上げた。

「心配かけたけど、大丈夫そうだよ」

 私は小俣君に電話をした。

 仰向けのミツコさんの大きな胸は、引力に逆らって真上を向き、いびきに合わせて、ゆっくり上下している。

 私は彼女に布団をかぶせながら、この顔とこの体を手に入れるのに、いくらかかったのだろうと、余計な心配をした。

 ミツコさんは振られるたびに整形したと言ったが、それは違う気がした。

 整形をするたびに、どんどん自分を見失っていったのではないかと思った。

私はまったく眠れず、いびきと歯ぎしりの二重唱の中で朝を迎えた。

 

十一時にチェックアウトし、ランチをすることにした。昼間の光の中で見るミツコさんの姿は、強烈だった。形状のはっきりした顔も、大きな胸も、派手なワンピースも、太陽の下では、夜よりもはるかに目立つ。

ミツコさんはやはり腕をからめてきた。すれ違う人の視線がどうしても気になる。私とはバランスが悪すぎる。

私は年甲斐もなく、若い女性に目がくらんだことを心底後悔していた。

彼女の、あっけらかんとした天真爛漫な性格は、天性のものなのだろう。

それは、間違いなく長所なのだと思う。

しかし、彼女と一緒に暮らしていくのは、賑やかで落ち着かないと感じていた。

 私は平穏無事に過ごしたいと思う。

どう言えば、彼女を傷つけず、整形もさせずに別れられるか、必死で考えていた。

人は見かけじゃないとは言えないし…。

 

したっけ。
#NO WAR  #STOP PUTIN

#StandWithUkraine

 

 

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「第54回郷土作家アンソロジー入選“容姿端麗”新聞掲載」について考える

2022-09-19 06:30:13 | 短編小説

今年3月末が締め切りであった第54回郷土作家アンソロジー 入選「容姿端麗」が9月18日十勝毎日新聞に掲載されました。

57歳バツイチ子どもなしの男性が、最後のチャンスと臨んだ婚活パーティーで知り合った33歳のエステティシャンの女性との数日間の話です。

最初は20歳以上若い容姿端麗な女性に男性はウキウキしていました。

しかし、その女性が何故、そんな歳の差の自分を選んだのか?

自分も何故、そんな女性を選んでしまったのか?

男性は、その歳の差ゆえに不安になってしまい、アタフタするという話です。

その内ブログにも掲載します。

したっけ。

#NO WAR  #STOP PUTIN

#StandWithUkraine

 

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「第54回郷土作家アンソロジー表彰式」について考える

2022-07-05 06:18:48 | 短編小説

 

本日は二つ更新します。一つ目は「白花金梅」です。

 

7月3日(日曜日)午後2時より十勝毎日新聞社5階会議室において「郷土作家アンソロジー表彰式」がありました。

今回入選10作品でしたが、出席者は7名でした。

私が知っている人は2名でした。

若い人が増えた感じがします。

私もまだまだ若いものには負けられません。今後も頑張ります。

表彰式の後は、美味しい料理をいただきながら、和気あいあいの懇談会が恒例でありましたが、今回はコロナ禍ということで、お茶のみのマスク懇談会でした。

若い人も、ノリが良くなかなか楽しい懇談会でした。

次回は、美味しい料理を食べながらの懇親会になるといいと言って終わりになりました。

入選作品は投稿順に順次新聞に掲載されます。

私は6番目なので8月の掲載になりそうです。

入選作「容姿端麗」は新聞に掲載されたのちにブログにアップします。

 

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「第54回郷土作家アンソロジーに入選しました」について考える

2022-06-07 06:36:50 | 短編小説

 

本日は三つ更新します。一つ目は「九輪草」です。二つ目は、絵手紙「藤」です。。

 

 

今年3月が締め切りであった「54回郷土作家アンソロジー」に入選の発表が昨日の新聞に載りました。

48回以来のですので3年ぶりの入選です。

容姿端麗」」という中年独身男性が婚活で若いきれいな女性を選んだことで、あたふたするはなしです。

昨今、テレビ業界は「コンプライアンス」と言って色々な規制をしています。

性別の問題、容姿の問題、暴力等々面白くなくなりました。

最近やたらに栄養状態の良いタレントが増えたのもそのせいでしょうか。

そこで、見た目にこだわってしまった男の話を書いてみました。

これから表彰式の案内が届くと思います。

コロナだから表彰式はないのかもしれません。

ずっと落選でしたので、とても嬉しいです。やっぱり入選はいいですね。

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短編小説「加奈子」

2021-07-01 05:36:03 | 短編小説

市民文藝第60号掲載作品

「加奈子」

都月満夫

 

「いらっしゃいませ」

 マスターは、グラスを磨いていた手を休めて、声を掛けた。男が身をかがめて入ってきた。ドアの隙間から、外が見えた。雨が降ってきたようだ。男は頭を二、三度撫でて雨を払う仕草をした。

「あ、信さん、いつもありがとうございます」

 男は無言のまま、カウンターの奥の席に座った。

「はい、どうぞ…」

 マスターはタオルを客に渡した。

 男はタオルを受け取り、雨に濡れた頭と肩を拭いた。

「とうとう降ってきたようですね。今年の夏は、カラッとしたいい天気がありませんね。へへへ」

 マスターはおしぼりと水をカウンターに置いた。

「いつもの水割りでいいですか…。えーと、信さんのボトルは…。ありました。へへへ」

 マスターは氷を八オンスグラスの縁まで入れた。次にウイスキーを、普通は二フィンガーのところ、心持少な目に入れ、バースプーンで手早く十三回半かき混ぜた。グラスにうっすらと霜がついた。溶けた分の氷を足し、水をグラスの八分目程度入れ、軽く混ぜた。

「はい、どうぞ…。いつもの薄めの水割り…。へへへ」

 そういって、マスターは客の前にグラスを置いた。

 男の名前は浅井信。よく来る客だが、職業など詳しいことは分からない。名前も本当かどうかは分からない。

「今夜はあいにく天気が悪いようで…。あの時も、ちょうど今夜みたいな雨の夜でした…」

 マスターは、遠くの廃墟でも見るような眼で言った。

「あ、いえね、こっちの話ですよ。昔の話なんですが、ふと思い出していまして…。え? 聞きたいですか?」

 信さんと呼ばれた客は四十前後で、白髪交じりの痩せた男だ。髪は坊主ではないが、短く刈ってある。細い眼は黒曜石のように、鋭く光っている。普通のサラリーマンではなさそうだ。マスターだけの小さなスナックに来る客にしては、不釣り合いな、上等な背広を着ていた。

 マスターの店は、繁華街のはずれの、小路の真ん中あたりにある。店の名は「カクテル」という。一重の赤い薔薇の品種名で、行燈にもその薔薇が描いてある。

 マスターは、若いころカクテルの全国大会で、上位入賞をした実力者だそうだ。しかし、こんな店では、その腕前を発揮することはなさそうだ。

 信さんは、マスターの話し掛けに答える様子はない。儀式でも始めるように、黙って水割りを飲み始めた。

「聞きたいなんて、言ってない? はいはい、すみませんね。私だって、こんな話、本当はしたくないんですがね。正直、この話を誰かに打ち明けないと、気が狂いそうなんですよ。私もこのところ毎日苦しくて…。今夜は他に客がいないのでちょうどいい。いいですよ。私が勝手に話しますから…。別に、聞いてなくたっていいですよ。へへへ」

 信さんは、当たり前のようにマスターの話に返事をしない。水割を二口で飲み干し、グラスを押し出した。

「信さん、相変わらず口数が少ないですね。というか、ほとんど喋らないですよね。男のお喋りはいけませんよね。男は黙って…がいいですよ。へへへ」

 マスターは、例の手順でキッチリと水割りを作り、信さんの前において勝手に話を続けた。

 

「あれは、私が帯広に戻ってきて、ここに店を出す十年ほど前になりますかね。当時、私は札幌のスナックで働いてましてね。いえね。札幌と言ってもススキノじゃありませんよ。定山渓の温泉街にある寂れたスナックですよ。もっとも、若いころはススキノの店にもいたことがありますよ。修行と称して…ですがね。へへへ」

 そう言って、マスターは無音の長い溜息をついた。

「私ね、中学生のころは非行少年でして、とにかく暴れてました。喧嘩ばかりしていました。少年院のお世話にもなりました。だから高校も出てないんですよ。中卒じゃロクな仕事はありゃあしませんよ。左官や土木工事なんかの日雇いの肉体労働ばかりですよ。まだ子どもだから、まともな仕事なんかできません。半端仕事ばかりですよ。だから、給料だって安いもんです。今考えると、よく道を踏み外さなかったな…って、不思議なくらいです。人間は人との出会いって大切ですよね。いえね、少年院を出た後についてくれた保護司の先生がいい人でして、ずいぶん面倒を見てくれました。私の言うことを何でも聞いてくれるんです。全部、受け入れてくれるんですよ。そんなことをされたんじゃ、反抗心もなくなりますよ。そんな気持ちになったころ、私を親身になって叱ってくれたんです。やっぱり、あの人の存在が大きかったのかな…。二十三歳のころでした。バーテンダー募集の貼り紙を見たんです。『未経験者歓迎。学歴不問』って書いてありました。『学歴不問』がきっかけで、バーテンになったんですよ。最初は、店内の清掃に、お客様の呼び込みや簡単なメニューの下ごしらえなどを行うこともありました。いわゆる雑用ってやつでして、何でもやらされましたよ。それでも諦めなかったのは、一流のバーテンダーになるんだ…なんて、当時は突っ張ってましたからね。へへへ。しかしね…、いざバーテンになって経験を積んでも、ススキノに店を構えるような大きなところはいろいろと大変でした。決まりごとがうるさくてね。バーテンの世界は上下関係が厳しいんですよ。年齢には関係なく、経験が長い方が先輩って言うシキタリがありまして…。私は下積みが長くて、バーテンになったのは結構遅い方でしたからね、年下のバーテンに指図されることもありました。それに、私ら黒服組は、しょせん脇役でして…。主役は派手なドレスを着たホステスですからね。私の性に合わないんですよ。へへへ」

 信さんは、当然のことのように、マスターの話は聞いていない。雨音が小石をばら撒いたように強くなった。

 

「ああ…、とうとう本降りになってきましたね。実は、その定山渓の店の女の子の一人と良い仲になっちまったんですよ。まあ、よくある話ですよ。その女とはアパートに同棲してましてね。いえね…、その女が勝手に転がり込んできたんですよ。従業員同士の交際は、水商売の世界では〝風紀〟と呼ばれ、タブー扱いされてます。しかし、女の子二人の小さなスナックでしたから、ママともう一人の女の子も承知の上でしてね。大目に見てくれてたんですよ。勿論、客には内緒ですよ。そこそこ気楽に暮らしてましたよ。その女の名前は、加奈子…。そうだ、仮に大場加奈子って名前にしましょう。この加奈子って女は、結構辛い人生経験を持った女でしてね。小学校三年生の時に施設に入ったそうです。母親から虐待を受けていて、強制収容されたそうです。しかし、本人は施設に入る前の記憶が全くなくて、母親の顔も思い出せないそうです。虐待されたことさえ覚えていないそうです。だから、家庭ってものの経験が全くないんですよ。へへへ。そんなこともあってか、初めのころは、飯を作ってくれたり、掃除や洗濯をしてくれたりと、女房気取りで楽しそうでしたよ。私も便利な女だなとは思ってましたよ。しかし、女房気取りでべたべたされてもウザったいじゃないですか…。だから、私はあんまり相手にしないでいたんですよ。その内、加奈子はパチンコをするようになりましてね。初めの頃は、パチンコだけだったのが、競馬・競艇・競輪にも手を出すようになって、レースのある日は、中央区の場外車券売場、ない日はパチンコ屋に入りびたりですよ。客に誘われりゃあ徹夜麻雀だってかまやしないって変わりようです。そのくせ、不思議と男との浮いた話はありませんでした。そこそこのいい女だったんですがね。スタイルだって悪くはなかったですよ。あ、そんなことはどうでもいい…。ギャンブルの話でしたね。いえね…、勝ちゃ良いんですが、とにかく弱いんですよ。賭け事にだって才能ってものがありますよね。博才ってやつがないんですよ。案の定、借金まみれになっちまいました。それでも何とか働きながら返してたんですよ。へへへ」

 信さんは、細い眼をさらに糸のように細くして、探るように、ちらりとマスターを見た。

「え? 私はどうかって? 私はあなた、ギャンブルなんてやりませんよ。そんな勝つか負けるか分からないことに大金賭けられますかって話ですよ。ましてや、パチンコなんて負けるに決まってるんですから…。店が儲かるってことは、客が損をしてるってことでしょう。ちょっと考えりゃあ、誰でも分かるってもんですよ。借金してまでやるなんてのは病気ですよ。いえね…、私は若いころは無茶やってましたが、こう見えて、意外に堅実派なもんで…。へへへ」

 信さんは、興味がないようだ。糸屑ほどの微かな皺を眼尻に刻み、視線をグラスに落とし、水割りを飲んだ。

 

「話を戻しましょうか…。同棲し始めて二年ほど経った頃でしたかね。とうとう、にっちもさっちも行かなくなっちまったんですよ。切羽詰まった加奈子は、借りちゃいけない所から金を借りちまったんですよ。いわゆる、闇金ってやつですよね。ある日の午後、アパートに二人で居る時に、男が二人やって来ましてね。見るからにそれモンですよ」

 マスターは頬に人差し指を当て、耳元から口元へ線を引く仕草をした。信さんは、眉も動かさず黙っていた。

「後は大概、お解りですよね? ああいう連中の言うことは、テレビや映画と同じです。『コラ! 金が返せないのなら体で返してもらうが、それでもいいか!』と、お決まりの脅し文句ですよ。それでも加奈子は、『一週間、一ヶ月待って下さい』と先延ばしにしながら働いていましたよ。助平な客に、過剰なサービスをして、チップを巻きあげたところで、高が知れてる…ってもんですよ。そんなことじゃあ、間に合いやしません。いくら先延ばしにしたって、返せるわけがないんです。へへへ」

 信さんのグラスの中で、融けて丸くなった大き目の氷が、カランと音を立てた。信さんは飲み干したグラスをコースターに置き、人差し指でスーっと押し出した。

「今夜はペースが早いですね。へへへ」

 そういって、マスターは水割りを作った。

「もっと薄い方がいいですかね」

 信さんは、黙って首を横に振った。そして、グラスを受け取り、ちらりと刺すようにマスターの顔を見た。

「え? 私ですか? 私は何もできやしませんよ。相手は、反社会勢力ってやつですよ? とばっちりは御免ってもんです。触らぬ神に祟りなしって、昔から言うじゃありませんか…。へへへ…」

 信さんは、犯罪者でも見るような眼つきで、マスターを見た。そして、一、二度首を軽く振った。

「え? 同棲しておいてそれはないだろうって? はいはい、ごもっとも…。ごもっともですがね。でもね、誰だって私のような立場になるとそうなりますって…。そんな状態だったにもかかわらず、加奈子は一度も私に金を貸してくれとは言わなかったんですよ。それは不思議でした。私も貸しても無駄だって分かってましたから、貸してやるとも言いませんでしたがね。へへへ」

 マスターは、分かってくださいよ…というような顔をした。しかし、信さんに同情する素振りはなかった。

「そして、今夜のように雨が降っていた夜でした。その日は店の定休日でしたが、加奈子は珍しく部屋にいました。だから、昼間から加奈子と二人で飲んでいました。その時、加奈子が独り言のように言ったんですよ。『もう、ギャンブルなんか辛いだけ…。楽しいと思っていたのは、最初だけだった。勝っても、負けても、もう何も感じなくなっちゃった。それでも…、やめられない。やめらえないのよ。どうしたらいいのかわからない…』ってね。加奈子は苦しんでたんですよ。そんなことを言われたって、私にはどうしようもないですよ。なんだか、しんみりした雰囲気になっちゃいましてね。そうこうしていると、いつものようにアパートに取り立て屋がやって来ましてね。ところがちょっと様子が違うんですよ。いつもの二人のほかに、幹部って言うんですか? お偉いさんらしい男が来ちゃいましてね。その男が一通り加奈子と話した後に、私の方にやって来ましてね、『お前があいつの男か?』って聞くんですよ。ここに一緒にいて『違う』とは言える訳がありません。認めると、『お前は、あの女の借金の肩代わりが出来るか?』って聞くんですよ。出来る訳ないですよ。その頃には借金が、一千万円近くに膨れ上がっていましたからね。私は無理だと断りましたよ。当然でしょ…。そしたらその男が、ああ…、その幹部の男、今思えば石田なんとかって言う不倫で有名な俳優をちょっと太らせたような、なかなかのいい男でしたね。ぱっと見、優しい顔なのでかえって凄味がありましたよ。へへへ」

 信さんは、犬の糞ほどの興味も持っていないようだ。

「あ…、すみません。そんな俳優知りませんよね。話を戻しましょうか…。へへへ」

 信さんは、マスターの呼びかけを霧のような静けさで黙殺した。まるで、目の前に透明人間がいるようだ。

「その男が、加奈子の方を見て、『それなら、あの女はワシらがもらう。文句はないな!』って言うんですよ。そんなことを言われたって、私にはどうしようもありませんよ。文句を言ったらどうなるかは想像がつきますからね。風俗にでも売られるのかな…。それも、加奈子の自業自得だ。仕方がないな…って、もう諦めの境地でしたよ。私に害が及ばないのであれば、どうぞご自由に…っていう心境ですよ。へへへ」

 信さんの唇の右端が、見下すようにぴくっと動いた。

「え~。それは仕方がないでしょう。薄情なやつだって…。はいはい、ごもっとも…。ごもっともですがね。でもね、水商売の男女の関係なんて、そんなもんですよ。加奈子に惚れてたならまだしも、正直な話、体にしか興味ありませんでしたからね」

 信さんは、数種類の亀がお尻で呼吸ができるというほど、どうでもいい白々とした顔をして、溜息をついた。

「え…? やっぱり薄情? はいはい、薄情で結構ですよ。私はそういう男ですよ。そりゃあね、多少は可哀想だなとは思いましたよ。二年間、一緒に暮らした女ですからね。それでもって、男が妙な事を私に言い出したんですよ。『いいか。今後、あの女のことは一切忘れるんだ。そして、他言しないことを誓い、これを受け取れ。百万入ってる』って言うと、私に膨らんだ茶封筒を差し出したんですよ。でもね、嫌じゃないですか…。反社会勢力から訳の分からない金を貰うなんて…。下手したら後で『あの時の百万、利子付けて返してもらおうか…』なんて言われたんじゃ堪りませんからね。私は、丁重に断りましたよ。そしたら、細い体にだぼだぼの赤いジャージを着たチンピラが、ポラロイドカメラで私を撮ったんですよ。そして、その幹部らしい男が、ポラロイド写真の下の余白に、名前を書けって言うんです。運転免許証で名前を確認されましたよ。その幹部は、私の名前が書かれたポラロイド写真を胸のポケットに入れて、『もしも、この金を受け取らなかったら、お前を殺す』って言うんですよ。訳が分かりませんよ。もう、断る訳には行きません。渋々受け取りましたよ」

 信さんは、蚊が止まったほどにも反応しなかった。

「そりゃあ受け取るでしょう。『もし今後、今日の事を他言するような事があれば、お前が日本のどこにいても探し出して殺す。おまえの名前と顔を全国にばら撒く。こいつがあるってことを忘れるな!』って、男が胸ポケットに手を当てて言ったんですよ。そのためのポラロイド写真なんだ…って気が付きました。怖くて、震えあがりましたよ。その時、私は漠然とですが、加奈子は風俗なんかに沈められるのではなく、何かもっとやばい事に使われるんじゃないか…と思ったんですよ。もっと酷いことに…。加奈子はある程度の衣服や化粧品をキャリーバッグに詰め込み、そのまま連れて行かれました。加奈子は別れ際も、私の方なんて振り向きもせずに出て行きました。結構気丈な女なんですよ。加奈子は、精一杯虚勢を張ってたんだと思います」

 マスターは、蘇える記憶を吐き出すように息をした。

 

「私は一人残された部屋で、暫くボーっとしてました。ふと我に返ると、氷が背骨に沿って落ちるように、寒気が走りましたよ。明日にでもスナックを辞めて、引っ越そうと思いましたよ。嫌じゃないですか、反社会勢力に知られてるアパートなんて…。何気なく、部屋を見渡すと、加奈子が使っていた小さな鏡台に目が行ったんですよ。そこにはリボンの付いた小さな箱がありました。開けて見ると、以前から私が欲しがっていた時計でした。馬鹿な女ですよ。まったく、大馬鹿な女ですよ。こんなものを買う金があったら、借金の返済に回せばいいのに…って思いましたよ。そう思いながら、ふと考えたら、次の日は私の誕生日でした。こんな私でも、さすがに目頭が熱くなりましてね。涙がツーッと出てきましたよ。私は涙が出たことに動揺しました。その時初めて、加奈子に惚れてたんだな…と気が付きました」

 信さんは、ふんと見下すように鼻を鳴らした。それから、水割りを口に含み、探るように、マスターを見た。

「え…。それで反社会勢力の事務所に加奈子を取り返しに行ったかって? 冗談じゃあありませんよ。映画じゃないんですから…。そんな恐ろしいことができる訳がありませんよ。これは現実の、しょぼくれた、ただの男の話ですよ。そんな度胸なんかありませんよ。へへへ」

 

「翌日、早速スナックを辞めた私は、百万を持って引っ越す事にしました。できるだけ遠くがいいと思いましたよ。それで、明太子で有名な九州の都市まで移動しました。行ったことがない、遠く離れた都会を新たな生活の場にしようと思ったんです。逃げたんですよ。都会の方が他人に紛れていられるかなって思ったんですよ。住む場所も、すぐ見つかりました。男一人が住む小さな部屋ですからね。一段落したので、次は仕事探しですよ。もう水商売は懲り懲りだったので、新聞の求人欄を見ていると、夜型の私にピッタリの、ビルの夜間警備の仕事が載ってました。面接に行くと後日採用され、そこで働くことになったんですよ。それから足掛け八年…。飽きっぽい私にしては珍しく、同じ職場で働きました」

 信さんが左手の小指を立てて、マスターの顔を見た。

「え…。加奈子のことですか? 時々は思い出しましたよ。あの時計はずっと付けてました。時計を見ると、加奈子に悪いことをしたなって…思ったりもしました。あっちへ行ってから、新しい女は作りませんでした。あの夜のことを思い出すと、女は懲り懲りでした。それはそれで楽しくはないですが、平凡に暮らしてましたよ。夜間警備の仕事ですから、飲みに街に出ることは滅多にありません。たまに休みの日にキャバクラへ行くことはありましたよ。行くって言ったって、年に数回ですよ。それも、毎回違う店ですよ。顔馴染みにでもなって、あの反社会勢力の男に知られるのが怖かったんですよ。こんな私でもね、キャバクラじゃいい男だって言われるんですよ。え…。誰も聞いてない? キャバ嬢のお世辞? はいはい、失礼しました。へへへ」

 

「夜警の仕事をやめる一ヶ月ほど前の話です。同僚の、ええと…仮に佐渡としましょうか。こいつが変わったやつで、一流大学を出てるらしいんですが、他人と付き合うのが苦手だってんで、夜警をやってるんですよ。背が高くて、ボーっとしていて、薄気味悪いやつですよ。そいつが、凄いDVDがあるって言うんですよ。どういうわけか、私にだけは話をするんです。どうせ裏モンのAVだろうと私は思いました。こいつから何回か借りたことがありましたからね。へへへ」

 信さんは、腐敗臭を嗅いだような顔で首を振った。

「その手のものには興味がない…ですよね。で…、その佐渡がにやにやして、スナッフビデオって知ってるか? って言うんですよ。私が知らないと言ったら、金持ちが娯楽のために実際の殺人様子を撮影したものだ。『SNUFF』の語源は『蝋燭を吹き消す』という擬音語で、殺人を意味している。第三代ローマ帝国皇帝カリグラは狂気じみた独裁者で、残忍で浪費癖や性的倒錯の持ち主だった。闘技場で、貴族たちを観客にして人間を猛獣と戦かわせた。そのため飼っているライオンや虎、熊、狼のエサは死刑囚だった。ヒットラーの、大量虐殺だって同じようなもんだ。時に、権力者は残虐性で人を支配しようとする。今はそれが金持ちの変態爺に変わっただけだ…なんて佐渡は得意そうに言いました。今でも、歌舞伎町辺りでは、突然行方不明になる女性がいる。東南アジア方面に、売られているんじゃないかって、もっぱらの噂だ。日本人女性は可愛いので、世界中の恐ろしい組織から狙われているのかも…なんて、シラーっとした顔で言うんですよ。薄気味悪いでしょう。人の命を商品のように売る輩がいれば、それを買って虫けらのように潰す輩がいる。本当なら、やり切れませんね。へへへ」

 信さんの眼が、夕暮れの星のように微かに光った。

「私もどちらかと言うとインターネットが好きなもんでね。暇な時はネットカフェで結構見たりするんですよ。海外のサイトとか凄いですよね。実際の事故映像、死体画像などなど…。南米のある国では、麻薬抗争の見せしめのために、処刑映像をネットで流すことは当たり前の様で、当局も困っているとか…。しかし、佐渡にいわせりゃ、それはスナッフとは言わないそうです。スナッフビデオとは、販売目的で、娯楽のために制作されたものだけだって言うんですよ。『ある筋から手に入れて今日持って来てるんだが、見ないか?』って言うんですよ。深夜三時の休憩時間でしたからね、暇潰しに見ることにしたんですよ。私は、どうせフェイクだろうと疑ってかかったんですけどね…」

 信さんは、水割りを飲み干して、空になったグラスを揺らして、イライラしたようにカウンターに置いた。

「信さん、ボトルが空になりました。新しいのをおろしてもいいですか?」

 信さんは、「いいよ」というように右手を少しだけ挙げた。そして、何かを決意したように眉に力を入れた。

 

「佐渡がDVDをデッキに入れ、再生ボタンを押しました。全裸の女が、窓のない地下室のような部屋の、真ん中のパイプベッドに、縛り付けられていました。女は薬か何かで動けないのか、しきりに眼球だけが激しく動いてました。私は息が止まりそうになるほど驚きました。加奈子でした。私は席を立ちたかった。でも、何故か動けなかったんですよ。チェーンソーを持った、筋肉隆々の男が立ってました。声帯か舌もやられていたのかも知れません。加奈子は恐怖の表情を浮かべながらも声一つ上げませんでした。佐渡が凄いだろと言わんばかりに、得意げに私の方をチラチラと横目で見てきました。佐渡は、早送りをしながら何か言っていました。内容は言いませんが酷いもんです。カメラは固定されていたようで編集はされていないようでした。私は涙が止まりませんでした。佐渡は、私を見て『そんなに感動したのか?』なんて的外れなことを言いました。私も本当のことは知られたくなかったので『すごかったよ』と返事をしました。そして、DVDを売って欲しいと頼みました。佐渡が、あのDVDをニヤニヤしてみている姿を想像したら耐えられなかった。加奈子が可哀想だったんですよ。佐渡がコピーを作るのが嫌だったので、その場でDVDを受け取りましたよ。そして、逃げるようにビルの巡回に戻りました。翌日、それこそ給料の何ヶ月分かの大枚をはたきました。買い取ったDVDは叩き壊しました」

 信さんの眉のあたりに浮かんだ何かの決意は、固い決心に変わったようだ。覚悟を決めたように唇をかんだ。

「それ以来、深夜に仕事をしていると加奈子を感じるんですよ。ビルを一人で見回っていると、後ろからスーッと背中を撫でる空気を感じるんです。振り返っても誰も居ない。それでまた歩き出すと、服の隙間から入りこんでくる空気が背中を上ってくるんです。それは冷たい恐怖ではなく、暖かい懐かしさのある空気なんです。これは辛いです。いっそ、恐ろしい方がいいってもんです。そんな事が数日続き、精神的に参ってしまい、夜間警備の仕事を辞めて、帯広に戻ってきたんですよ。へへへ」

 

 信さんの顔は入ってきた時とは明らかに違っていた。

「帯広に戻ってきても、もう夜間警備の仕事はできませんよ。思い出しますからね。かといって、まともな仕事はできません。幸い、あっちで働いていた間に、結構金が貯まってましてね。夜間警備の仕事をしながら、遊びもしないでひっそり暮らしてましたから…。それを元手に、この店を始めたんですよ。信さんは、この店の第一号のお客さんです。ありがたいことです」

 信さんは、そんなお世辞には反応しない。信さんの瞳の奥に、何か不可解な、黒い感情が芽生えたようだ。

「それで、話はこれからが本番なんですけどね。一ヶ月ほど前から、毎晩同じ夢を見るんですよ。加奈子が私に抱き着いて体を締め付けるんです。これがすごい力で、私の体中の骨はマッチ棒のようにポキポキと砕かれるんです。凄まじい激痛なんですが、逆にこれが何とも言えない快感でしてね。気が付くと私は全身の力が抜けて、赤ん坊のように加奈子に抱かれている。安心感さえ覚えるんですよ。そして三日前です。とうとう、加奈子が現れたんですよ。深夜、自宅のベッドでボーッと煙草を吸って火を消しました。すると、白い煙のようなものが目の前に揺れ始めたんですよ。タバコの火は消したし、動きがおかしいんです。まるで生きてるように、煙がゆらゆらと形を作り始めたんですよ。加奈子でした。何かを言いたげに口を金魚のように動かしていますが、舌が無いのか声帯が潰されているのか、声が出てきません。それからどのくらいの時間が経ったでしょうかね。いつの間にか加奈子は消えていたんですよ。恥ずかしい話、私は失禁していました。汚い話ですみませんね。へへへ」

 マスターは極まりが悪そうに照れ笑いをした。

 信さんの顔は、触ると切れそうなほど鋭く引き締まって、狩りでも始めるハンターのような眼になった。

「いえね。私も夢だと思いましたよ。夢だと思いたかったですよ。しかし、二日前の夜も加奈子はやって来ました。もう私は、加奈子に呪い殺されてもしょうがないと思い始めてましてね。幽霊でも化け物でも何でもいい。加奈子が再び現れるのを心待ちにしてた部分もあったんです。やはり、加奈子は何か言いたげに口を動かしています。『加奈子、何が言いたい? オレはどうすればいい? 何がしてほしい? あの時何もしてやれなくてゴメン。あ…、時計ありがとう、あの時計は大事に持ってる…』って叫んでいました。激しい自己嫌悪が、エレベーターが四十階から急降下したように襲ってきました」

 信さんは、もう決意を固めたようだ。眉間のシワをほどき、狂人を観察するように、マスターを見た。

「私は狂っちゃいませんよ。昨夜も加奈子が現れたんです。相変わらず、口をパクパク動かしながら泣いてるんです。大粒の涙がポロポロと音がするほど零れ落ちるんです。私は加奈子に謝りました。『お前が、オレと暮らし始めたころ、ちゃんと相手をしてやれば良かった。そうすれば、お前はギャンブルなんかやらなかった。お前は寂しかったんだよな。オレの気を引きたかっただけだったんだよな。気が付いてやれなくて済まなかった』ってね。私がそう言うと、加奈子は大きくうなずいて、口を動かしたんですよ。今度は、途切れ途切れながらも、聞き取れました。『わ・た・し、あ・ん・た・の・こ・ど・も・ほ・し・か・っ・た・な…』ってね」

 マスターが、肩の荷を下ろすようにほっと息をした。

 信さんは、細い眼を鷹のようにかっと見開き、銃口のように視線をマスターに向けて言った。

「マスター、こんな話は聞きたくありませんでした。私も聞いた以上は放って置くわけには行きません。赤いジャージのチンピラ、覚えていてくれたんですね。ありがとうございます。私です。しかし、男のお喋りはいけません。男は黙って…でしたよね。ねえ、藤堂一太さん」

 そう言うと信さんは、背広の内ポケットからポラロイド写真を取り出して、静かにカウンターに置いた。

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「市民文藝第60号に入選しました」について考える

2020-11-04 14:28:14 | 短編小説

報告が遅れましたが「市民文藝第60号」に入選しました。

小説Bの12,000字の部門です。

「加奈子」というタイトルです。

悲惨な運命をたどる女性と愛していると知らずに彼女を手放してしまった男の怪奇恋愛小説です。

コロナかなので祝う会は行われないそうです。

11月28日発刊予定です。市内の本屋さんや図書館で1,000円で販売されます。

 

 

 

 

 

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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